投稿日:2021年08月08日 19:22 文字数:12,141
7 ー役目を終えるもの・繋ぐものー
とある男性審神者の本丸で出会った、にっかり青江と弓の娘の物語。
弓の娘や主の刀剣たちがこの本丸に馴染むにつれ、にっかり青江の態度に変化が……
2021/9/21
次章の冒頭を書き始めましたが構成上こちらへ加えたほうがよいかと思えてきたので、こちらに追加しました。
僕らが一日をどう過ごすかは、出陣と内番の割り振り次第だ。それは母屋の通り土間に掛けられた木札で確認できる。夜に札が掛け替えられ、翌日の巳の刻頃が交代の時間だ。前の晩に確認してもよし、朝餉のあとのついでで足を運んでもよし、と、まあのんびりしたものだ。もちろん例外はあって、火急の出陣となればは各(かく)刃(じん)に直接その任が伝えられそれが何より優先される。内番というのは戦以外にこの本丸で暮らすために課せられている仕事だ。その中でも政府から課せられている任務が三つあり、完遂すると褒美として各刃の能力が上がる、ことがある。必ず上がるわけじゃないというのは、どうなんだろうねえ。それも働きに見合う評価、というわけでもないという。まあ手を抜くことなく、かといって戦績に支障がでるほどに没頭しないように、ということなのかもしれない。その三つというのが馬当番、畑当番、そして手合わせだ。まじめに取り組んでいれば強くなれるというのは、厭々ながらでも励む動機付けにはなるのだろう。そもそも、僕らの戦に馬は必要だし、人の身を維持するには食べなきゃいけない。更に、戦果を上げ続けるためには剣技の研鑽が必要だ。政府の選択は道理に適(かな)っている。
だけど、それだけじゃ本丸の大所帯は回らない。例えば食べること。収穫してそのまま食べられるものもあるけど、それだけじゃあ、ね。だから厨当番がある。他(よ)所(そ)のことをよく知っているわけじゃないけど、食べたいものをそれぞれが勝手に作って食べることになっていたり、料理好きな刀が調理を一手に引き受けているところもあるらしい。この本丸の食事事情はわりと自由で、庫院で料理するもの、ふらっと万屋へ出掛けて食べて帰ってくるもの、いろいろだ。それでも厨当番があるのは、母屋で煮炊きを覚えるためだ。
「出陣先から万が一、本丸に帰還できないようなことが起きたとき、生き延びる術が身に付くようになんだよ」
庫院に電気仕掛けの便利な道具もあるのに、どうして竈(かまど)で料理をするのかを、ここへ顕現してすぐに蜂須賀が教えてくれた。囲炉裏の火を絶やさないための竈(かまど)番(ばん)も、風呂の湯を沸かす風呂当番、洗濯当番なんかも同じ理由なんだそうだ。だから、この本丸にいる全員分を引き受ける必要はなくて、まあ自分の手に負える範囲でいいことになっているし、逆に宴を催すなんてことになれば当番以外に手伝いに名乗りが上がる。そんな風に、僕らは緩く繋がり、助け合いながら暮らしている。それを支えてくれているのが蜂須賀虎徹、主が最初に選んだ刀だ。筆頭家老って言ったところかな。そこに押し掛――いや、自主的に補佐を申し出たのが長谷部クンだと聞いている。主を支えながらこの本丸全体を取り仕切るのが蜂須賀なら、出陣に関する諸々を引き受けているのが長谷部クンだ。蜂須賀はできるだけ皆の意見を取り入れようと努め、そして意外にも長谷部クンもまた、僕らの意見には真摯に向き合ってくれる。これについては僕は一目置いているよ(小言の多さについてはまた別の話)。例えば、畑当番で作物の育ち具合によって人数を増やしてもらったり、出陣する隊の編成に意見したり、とかね。単なる選り好みやわがままは当然のことながら容赦なく却下される。それがわかっているからこそ、皆、自由に進言できるんだ。
僕は夜のうちに当番の札を確認する。それは、御手杵クンが顕現したときに僕が新人教育係になってから続いている習慣だ。何か特別なことをするわけでもないけど、どうしたら御手杵クンにうまく説明できるかなあとか、これはもう彼ひとりに任せてみてもいいかなあとか、ぼんやりと考えながら屋敷内を歩いて自室に戻る。そのおかげなのか、それまでよりも僕はこの本丸の暮らしぶりや仲間のことを観察するようになった。まるで軽く思い付いたように主が僕に御手杵クンの世話を頼むと言われたとき、僕より先に顕現して本(こ)丸(こ)にもっと馴染んでいる刀がいるのにどうして僕なんだろうと、僕は不思議に思った。でも今はなんとなくわかるんだ。きっと、これは御手杵クンだけじゃなくて僕への教育だったんだ。そして僕は及第点を取れたのだと思う。僕は主と蜂須賀に、御手杵クンはもうひとりで大丈夫だと告げ、それはすんなりと受け入れられたから。
僕は通り土間の当番表を見上げる。明日は畑当番が多い。夏の収穫に向けてやらなきゃいけないことが多いから当然だ。ひときわ大きな集団になっている畑当番の札は、さらに組み分けされていた。僕は母屋裏手の川底浚え――濡れ仕事かあ。
そんなことを思っていると、背後に気配を感じた。この上背、御手杵クンだ。自分の札を探していたのだろう。彼の名が記された札の前でぴたりと立ち止まる。
「なあ……なんで一緒じゃないんだ?」
御手杵クンの声は、まるで母犬から引き離されそうになっている子犬みたいに頼りなさげに聞こえた。
「何がだい?」
僕は何事かわからないかのように、いつも通りに返事をする。
「俺と青江、当番が違う」
「違わないさ、君も僕も同じ畑当番だろう?」
「いや、俺は林檎の――えっと」
「摘(てき)果(か)。実(み)選(すぐ)りのことだよ」
「俺、やったことないぞ?」
「僕もないよ」
「え……?」
当番表を見上げたままだった僕はゆっくりと背後の御手杵クンのほうへ向き直った。
「大丈夫だよ」
僕はにっかりと御手杵クンに笑ってみせた。
「もう、僕が手取り足取り君に教えて上げる必要はなくなったのさ。卒業なんだよ」
「卒業?」
御手杵クンがきょとんと目を丸くして僕を見下ろした。
「そうだよ。僕といなくても大丈夫ってこと。ほら、摘果の当番は君だけじゃないだろう? 蜻蛉切は君と同じ槍だ、しかも面倒見がいい」
僕は当番表を指差した。
「俺は刺す以外能がないからなあ。槍連中より、脇差の方が話が合う」
御手杵クンは視線を足下に落とし呟いた。
「適材適所っていうだろう? 戦では君と僕ら脇差は共闘するに相応しいように、摘果には槍が向いているんだよ。道具の助けなしに高いところで仕事ができる。明日はきっと効率よく作業する必要があるんだろうね」
「そう……なのか」
「そんな気落ちしないでくれよ。僕との別れを惜しんでくれるのはうれしいけど、会えなくなるわけじゃないんだし――」
僕はぽんと御手杵クンの背を叩いた。
「君はもう一人前ってことさ。大丈夫、僕なしでやっていけるのは、僕が保証するよ」
そう言い残して、僕はそのまま部屋へと戻っていった。御手杵クンがどんな顔をしているかは確かめずに。
翌朝、僕は何事もなかったように内番に勤しんだ。僕の隣に、いつものように御手杵クンはいない。僕の周りにいるのは鯰尾と骨喰。まるで夏を思わせる皐(さ)月(つき)晴(ば)れの空の下、僕らは母屋裏手の川の底を浚い、そこにある水車の掃除をした。昼餉は手近だから母屋でとった。鯰尾は庫院に戻る時間が節約できて昼寝がたくさんできると喜んでいたけど、僕が蜻蛉切さんが畑当番のときは母屋で昼餉をとることが多いことを知っていた、というのも理由だ。
こちらとは少し時間がずれたせいで、僕と御手杵クンが正面から顔を合わせることはなかった。それでも囲炉裏端からは御手杵クンと蜻蛉切が、多少ぎこちなくも当番をうまいことこなしていることが見て取れた。僕の言ったとおりだろう? 君はもう僕が付いていなくても大丈夫なんだよ、御手杵クン。
「なあ、青江~ 当番、早めに終わったら水遊びしよー」
昼餉前に仕事は順調に進んでいた。課せられた仕事が早く終われば、その後は自由に過ごしていいことになっている。ああ、必要があれば別の当番を手伝うこともあるけど、今日は応援を求めている班はない。
「俺は早く部屋に戻りたい。外は暑くて敵わないぞ、兄弟」
「ええ~、暑いから川で遊ぶんじゃないか」
「ずっと水の中にいたら足が冷える」
普段は無口な骨喰も、気の置けない兄弟刀には遠慮がないらしい。
「つれないなあ。じゃあ、青江は? 付き合ってくれる?」
おっと、こちらに矛先が向いてしまったねえ。
「僕も遠慮しておくよ」
「もう~付き合い悪いなあ。ま、いっか。非番の弟たち誘おうっと」
遊び相手に目星を付けられたからか、あっけらかんと午後の仕事へ向かう鯰尾を追いかけて、骨喰と僕も後を追った。ちらり、と御手杵クンたちへ視線を向ける。御手杵クンは僕らのほうを気にするでもなく、蜻蛉切と何かを話し込んでいるようだった。
これでいい。僕の役目は本当におわった。僕は晴れ晴れとした気持ちで午後の仕事へと向かったのだった。
鯰尾の目論見通り、午後の仕事は早めに終わった。骨喰は自分の部屋へ戻り、鯰尾は合流した短刀たちと川ではしゃいでいる。僕は戸口の天水桶の水で手足を濯(すす)ぎ土間へ入る。そこではちょうど金辰と宗一、遊玄斎が囲炉裏端で談笑していた。僕はそのまま通り土間へ向かおうと、彼らの脇を通り過ぎるように歩いて行った。
「青江殿。今日の当番はもう終わりですか」
僕を見つけて宗一が声を掛けてきた。
「ああ、今日は早めに終わったら早々に庫院へ戻ろうと思ってね」
「でしたら青江殿もいっしょにどうですか?」
宗一は茶器を僕に差し出した。
「有り難いけれど、遠慮しておくよ」
僕は宗一を手で制してそのまま去ろうとする。
「青江殿」
金辰が僕を呼び止めた。
「何か用かな」
僕は足を止めて振り返った。金辰は少し困ったような神妙な面持ちで僕を見た。
「我ら、何か失礼を? いや、本来、このように気安く声を掛けるべきではないのはわかっているのですが」
「違う、違うよ」
僕は慌てて彼らに向き直った。
「それを言うなら逆だよ。君たちは僕らよりずっと長く主の刀だろう? 本来なら誰よりも主の傍にいるべき刀だよ。僕らのほうが一歩下がっていて然るべきだ」
「と、とんでもないですよ。世が世なら口をきくどころか同席することだって叶わない方々なのに。みなさん、よくしてくれるのでつい……失礼しました」
宗一が頭を下げる。
「いや、本当に違うんだ。その……僕は幽霊を斬った刀だからね。表舞台に立つには験が悪い。正真正銘、主の刀出ある君たちは僕なんかより蜂須賀や長谷部クンと懇意にするのが相応しいと思ってさ」
「そうかねえ……」
遊玄斎がのんびりと呟いた。
「幽霊斬ったっていうが、実際には石灯籠だったってはなしだろ?」
「怨霊が寄りつかなくなったっていうのもあるよ」
「だったら尚更、主を守護する刀じゃないか」
遊玄斎の飄々とした口調はうっかりするとこちらが丸め込まれそうになる。
「俺たちは小さな藩に仕えていた侍の刀だ。俺たちは戦のない世になってから生まれたが、それでも殿様と藩を守る番方勤めの刀だったんだ。幽霊だろうと石灯籠だろうと、実際にその身で働いたことがあるお前さんとお近づきになりたい! てなぁ当然だろう?」
「お、叔父上! お近づきになりたいなんて、そ、そんなことを――」
宗一が顔を真っ赤にして慌てふためいている。
「じゃあ、なんだ。お前、青江殿のこと別になんとも思ってないのか」
「そうではなくて――」
ふたりのやりとりに僕は思わずくすりと笑ってしまった。一斉に僕に視線が集まるのを感じて少し決まりが悪くなった。
「いや、光栄だよ。そう言ってもらえるなんてね」
取り繕うでもなく、僕は本心からそう口にした。
「今日はこのあと用事があってね。また今度、呼ばれるとするよ」
何か言いたげな金辰に気付いてはいたけど、僕はそのままその場を去った。
嘘だよ、用事があると言ったのは。面倒、というのは相応しくない。ただ、僕はここでは一歩下がって皆を見渡しているのが相応しい気がして、そのためには特定の誰かと懇意になったりしないほうが都合がいい。それだけの理由だよ。御手杵クンの教育係をしている間に、僕も随分変わったのかもしれない。でも、それも昨日で終わり、本(こ)丸(こ)に来た頃の僕に戻るだけだ。
自室に戻ってから、僕は暇を持て余すという不思議な心地で過ごしていた。考えてみれば教育係中は御手杵クンが何かとこの部屋を訪れてはあれこれ話をして過ごしていた。それは御手杵クンの素朴な疑問だったり、御手杵クンの所感――というか他愛ない感情の発露だったり。僕はそれに答えたり相槌を打ったりをしていた。四六時中べったりとしていたわけでもないのに、急にそれがなくなるとこうも手持ち無沙汰になるとは思わなかった。
そのとき、よく知った気配を廊下に感じた。
「青江ー、ちょっといいかあ?」
耳慣れた御手杵クンの声だ。待っていたわけでもないのに、心が浮き立ったのに自分でも驚いた。
「青江! 俺! できた! ちゃんと! 蜻蛉切と! 摘果作業!」
入ってくるなり御手杵クンは僕の手を取り、ぶんぶんと振りながら目をきらきらと輝かせて叫んだ。
「そ、それはよかったねえ。僕の言った通りだったろう?」
御手杵クンの勢いに少し気圧されながら僕は返事をした。
「青江のおかげだよ。俺、明日からも頑張るから! ありがとな! じゃ!」
御手杵クンはそれだけ言うと、入ってきたのと同じくらいの勢いでまた外へと出て行った。
部屋にひとり残された僕は、突然生まれた説明のしようのない感情をどうしたらいいかわからず、途方に暮れたのだった。
あれから数日、ひとりで行動することもこの身に馴染み、当番や日常生活のあらゆる場面で卒なく無難に過ごしていた。つかず離れず、時に相手がぎょっとするほど踏み込みすっと身を翻す。風に揺れる柳の枝のように、僕はこの本丸に身を任せる。枝が絡まぬように、風通しが悪くならないように。
御手杵クンへの世話焼きが功を奏したのか(僕はそんなに世話を焼いた自覚はないのだけどね)、当番中でなくても僕にものを尋ねてくる刀が前より増えた。自分が役に立てるのは悪い気はしない。やっぱり、主が御手杵クンの教育係に僕を指名したのは、僕のためでもあったんだろうと思う。あれから屋敷内で顔を合わせることはあっても、御手杵クンは僕の部屋にやって来ることはなかった。別にどうということもないが、時折ふと、うまくやっているかと気に掛かるたびに、僕はこんなに心配性だったのかと苦笑した。
今日は社の掃除当番だ。お相手は三条派の大太刀、石切丸。一緒に当番をするのは初めてだ。僕は三条の面々を思い浮かべる。うん、石切丸となら難なく掃除を終えられそうだ。朝餉を終えて社へと向かう。石段を上がり終えると、もう石切丸が境内を掃き清めていた。
「おや、遅くなってしまったかな」
僕は社務所から雑巾を手に社殿に向かう。だって、箒の出番はもうなさそうだったからねえ。
「やあ、おはよう。心配させてしまってすまない。君は遅くなんかないよ。私が気が急いて早く来過ぎたんだよ」
石切丸はばつが悪そうに目尻を下げてわらってみせた。
「でも、社殿の掃除は君が来てからと思って、箒を持って境内や石段を何周もしてしまったよ」
石切丸も庭箒を片付けて、叩きと座敷箒を手に戻ってきた。
「どうしてだい?」
別に社殿へ上がるのに僕を待つ必要はなかったろうにと、僕は少し不思議に思った。
「あ、別に僕が来る前に掃除をすべて終わらせておいて欲しかったわけじゃないよ」
僕は努めておどけてみせたけど、石切丸がみせたのは苦笑いだ。
「私が気にし過ぎなのだろうけどね。どうやら、主はわたしがここへ近付くのをよく持っていないようだから」
「あれは……君がここを本丸に属するご祭神不在の社だと勘違いしたからなんだろう?」
御手杵クンの教育係になった頃で詳しくは知らないが、顕現して間もない石切丸がこの社を任されたいと申し出て、やんわり断られたということは僕の耳にも入っている。
「いや、お恥ずかしい限りだよ。今思えば、ここへ来たすぐは戦ではたいした働きもできず、焦っていたんだねえ。せめて神事に精を出して主の役に立ちたい一心で先走ってしまった」
「でも主に言われてすぐに納めたんだろう? それ以上、遠慮することはないと思うけどねえ……それにここの掃除当番は誰だって立ち入りできる場所に限られてるんだし」
「ありがとう。青江は優しいね」
優しい? 僕は少し不思議に思う。僕が述べた所感は事実に基づいた至極当たり前のことだ。それ以上でもそれ以下でもない言葉を優しさと称されると、少し心の据わりが悪い。
「実は、その後一度だけ、ここのご祭神に纏わる神事を手伝いたいと申し出たこともあってね。主はここは皆の場所であって欲しいからと、私の部屋に神棚を設えてくれたんだ」
石切丸はこちらを向いて、決まり悪そうな笑顔を向けた。
「わかってはいるんだけどね。主は私にここへ来てはならないなんて一言も言っていないし、ここが皆のための場所ならわたしが占有するようなことになってはよくない。すべては私が出過ぎた申し出をした後ろめたさ故なんだ」
「それでも、早くに来て掃除をしていましまうくらいにここを大切にしてるなら、それでいいじゃないか」
「そう言ってもらえると有り難いよ。私は長らく神社にいたからね。こういう場所は落ち着くんだ」
「だから早くから来ていたんだね」
「まあね。私が当番の日であれば、誰かの邪魔をすることもないだろうから」
石切丸が早朝から掃き掃除をしていてくれたおかげで、社殿の掃除も昼過ぎには終わってしまった。
「なんだか、君が早くから掃除をしてくれたおかげで僕まで早上がりするのは申し訳ないね」
「ははは、夜が明けると目が覚めてしまうんだ。私の好きでやっていることだから気にしないでおくれ。それに、いろいろと心に溜めていたことを口にして少し楽になったよ。口にして音乗せることの大切さは、私もよく知っていたはずなのにね。ありがとう」
石切丸は清々しい面持ちで屋敷にっ戻っていった。
僕は適当な理由をつけて、ひとり境内に残り、辺りをそよぐ風に身を任せていた。ここの風は心地いい。今の季節は暑すぎず寒すぎず、心持ちがひんやりと研ぎ澄まされるようで、真剣で対峙する一瞬を思わせてくれる。木々が生い茂り薄暗いはずなのにどことなく明るくて、幽霊の逸話持ちである僕であっても、ほっとする不思議な社だ。それは、あの晩――弓の娘と出会ったときから、一層強く思うようになっていた。
「でも……よく、わからないな」
奥社の古びた石段に腰を下ろし、枝から僅かに覗く空を見上げた。僕は何をしたわけでもないのに、どうして感謝を口にするのだろう。御手杵クンは、まあわかるよ。勝手わからぬ人の身でどう暮らしていくのか手取り足取り――ではないけど、ひとつひとつ説明していったんだ。そのことについて礼を言われて引っかかることはなかったし、悪い気はしなかった。
ふいに木々の枝がざわめき、山の風が僕の脇を吹き抜けていく。厚い雲が陽の光を遮ったか、辺りが薄暗くなる。嵐が来るとは聞いていなかったけどな。耳元を風切り音が掠める。恐怖とは違う何かが腹から湧き上がる。この空間には僕ひとり。敵も幽霊も関係なく、ただ振るわれるまま斬ればよかったときとは違うのだと、ふいに思い至る。雨に打たれれば弱り、今ここで倒木の下敷きになれば付喪神といえどもこの身は危うい。
「戦で折れるは幾ばくかの躊躇もないけど、ここで朽ちるのは御免被りたいからね」
通り雨だとしたら社務所で雨宿りでもしようかと腰を上げたときだ。これまでと違う、少し柔らかな風が僕の身を撫でていった。その風上を仰ぎ見れば、そこはあの磐座で、弓の娘がこちらを見下ろしていた。
「どうなさったの? お掃除、終わったのなら早く戻らないと雨になりますよ」
娘は何事もなかったかのようにいつも通りの足取りでこちらに下りてくる。
「だって――君、いつからそこに?」
「どうしたんですか、まるで幽霊にでも会ったみたいな顔してますよ?」
娘はくすりと笑って僕の隣までやってきた。
「お山の御方とおはなししてたんです」
「御方って、ここのご祭神のことかい?」
娘はちょっと考えてから返事をする。
「どうなのかしら……同じと言えば同じかもしれないし」
ここのご祭神は主が縁のある神社からの分(わけ)霊(みたま)だと聞いている。それなら、この娘がご祭神のことを知っていても不思議はない。
「君はここの神様とはなしができるのかあ」
僕が感心すると、娘は慌てて手を横に振った。
「違うの、わたしは青江さまみたいに神様に近くはないから……お祈りを捧げると言ったほうが正しかったかしら。ごめんなさい」
「なんだ、そういうことか。確かにお祈りするのに大声を上げたり、大きな足音を立てたりはしないよね。僕が気付かなくても不思議はないか」
僕らは隣り合って石段を屋敷へと下りていく。
「そういえば、このあいだ兄たちが茶の間でお茶にお誘いしたとか。お忙しかったのですか? 宗一が残念がってました」
屈託のない問いが、あのときに会話を僕に思い起こさせる。そして、この娘は主が勧請した社のご祭神へ祈る巫女でもあったことを改めて思い出す。
「あのときのことは――君にも進言しておこう」
ちょうど石段の中頃に差し掛かったところで僕は足を止める。
「確かに君たちは主の目に映らないことで、ちょっとやっかいな立場にはある。でも、僕らと違って君たちは正真正銘直臣なんだ。本来なら下働きを供になんてせずに、本丸で采配を振るっているべきものたちだ。だから、蜂須賀や長谷部クンと近しくなるほうが相応しいと思うよ」
数段先へ下りていた娘は不思議そうに僕を振り返った。
「でも、蜂須賀さまや長谷部さまも同じように当番をなさってますよ?」
確かにそうだ。でもこの本丸には、身分とは違うが指揮命令としての序列は存在している。
「何もせずにふんぞり返っていろと言うんじゃないよ。ただ、それなりの分別はあるべきだと思うんだ。そうだなあ……」
僕は石段横の少し広くなったところへ目を遣る。そこには緑勢いづく季節だというのに、茶色に枯れた小さな花々が集まっていた。
「ほら、葉は映え、花は鮮やかに咲き誇る時期だというのにこうして枯れて次の命にその場を譲る植物があるだろう? 役目を終えたらそれを次の糧として去る。僕は消えてなくなることはないけど、一歩引くよ。自然なことさ。確かに僕は君を最初に見つけた刀だけど、君たちを支えていくのは主の側近たる刀たちだよ」
「わたし、ここへ来てからずっと主さまを見てきましたけど、主さまにとってはすべての刀が側近なのではないでしょうか。もちろん、お役目というものはそれぞれにありますけど。主さまはそのお心を分け隔てなくすべてのみなさまに注がれておいでです」
娘は一歩、一歩と僕がいるところへ上がって、僕の隣まで来たところで枯れた植物に目を向ける。
「靫(うつぼ)草ですね」
「うつぼ?」
「ほら、花をつけていたところが、矢を入れる靫のかたちに似ているでしょう?」
娘は石段から脇へと足を踏み入れると、しゃがみ込んで褐色の花に触れた。
「花が終わると茶に変色するから、枯れているように見えてしまう。だから夏に枯れる草「夏(か)枯(ご)草(そう)」とも呼ばれるんですけど」
娘は立ち上がるとまっすぐ僕を見た。また、山から風が強く吹き下りてくる。葉は風に合わせて囁きあい、木々の枝はぶつかるたびに叫び声を上げる。
[花落ちて褐色となるこの姿、枯れたると見紛うことなかれ。これらは未だ根を張り葉を茂らせ、その命繋ぐものなり」
野分のような轟音を僕の耳に運ぶ風と娘の声が混ざり、まるでいつもと違う声に聞こえる。風が土埃を舞い上げ、思わず目を細めた。なにか、とてつもなく大きな存在が目の前にあるような錯覚に陥って、僕の目の前にいるのは本当にあの娘なのだろうかという思いが頭を掠める。
「やがてこの地は雪に覆われ、眠りに入る。それは果たして山の死か。その死の先にのみ春を望むや。否。雪を融かすは陽の光のみにあらず。雪下にて根を張り芽を伸ばし、命の灯を以て大地から根開けし、雪の融けるを促すなり。目に映るその様(さま)に惑わされることなかれ。去ぬ(い)べきもの、この山になし」
僕は不覚にも恐怖に襲われた。得体の知れないものを目にしているという畏れだ。僕は戦で人を、逸話で幽霊や石灯籠を斬ってきた。でもそれらを斬ったのは僕であって僕ではない。僕を振るった主あってのものだ。幽霊を目にして、思わず僕を構えた主は、もしかしたらこんな感情を抱いていたのかもしれない。
一(ひと)頻(しき)り吹いていた風が突然止んだ。ぽつりと大粒の雨が頬を叩き、僕ははっとして我に返った。いつも間にか娘は僕の目の前にいた。
「青江さまがなんと言おうと、わたしがここに迎え入れられたのは青江さまが見つけてくれたおかげです。そして兄上たちも同じなんです」
娘はいつもと変わりない様子で微笑んでいた。
「ほら、早くお屋敷に戻らないと濡れ鼠になってしまいますよ」
娘は僕に笑いかけたかと思うと、一目散に石段を掛けて出した。
「君はその恩人を置き去りにするのかい?」
僕は小さく呟くと、石段を蹴って娘を追いかけた。せめて弓の娘が屋敷に入るまで、本降りにならないように祈りながら。
僕らは土間へ駆け込んだのは、大粒の雨が地面を叩きつけ始めたのと同時だった。
「なんとか間に合いましたね」
弓の娘は弾む息を整えるように、膝に手を置き身を屈(かが)めた。僕はそんな娘の背中を眺めながら、ぼんやりと先程の光景に思い巡らせる。この娘が弓の付喪神であることは僕のこの目が見た通りだ。でも、本当にそれだけなのだろうか。娘の顔見せのとき、茶の間を駆け抜けた芳しい風。そしてついさっきの、娘の背後から僕を圧倒するかのように山から吹き下りてきた風。それは、まるで別の風のようでいて、どちらも同じ“何か”から生まれたように僕には思えて仕方がなかった。ではこの娘の正体はなんだというのだろう。刀剣同様、弓も神事には付き物だけど、刀剣のように直接奉納されることは少ないようにも思う。僕が最初に娘を見たあの晩、何かに祈り一心にその声に耳を傾けていた娘の姿をその背に重ねる。
「どうかなさいました?」
娘が向けた不思議そうな顔に、僕は思わず呟いていた。
「君は何者だろうね? 本当はお山の主(ぬし)の使いとか……」
「え?」
娘が身を起こし、振り返りながら聞き返す。
「いや、なんでもないよ。ずぶ濡れになる前に戻ってこれてよかったよ」
「でも、髪が濡れてしまいました。ちょっと待っていてくださいね。兄上ー」
娘は茶の間の奥に向かって声を掛ける。僕の呟きは娘の耳には届いていなかったようで、僕は胸を撫で下ろした。
娘の兄弟ら――大小と槍――は茶の間の奥の一間を、娘はその上の一(ひと)間(ま)を自室として暮らしている。蜂須賀は僕ら同様、庫院で暮らすよう強く進めたが、彼らは政府の認める刀剣男士ではない以上、僕らに並ぶわけには行かないと言って聞かなかった。蜂須賀は主の直臣たる刀剣たちに粗末な部屋をあてがうわけにいかないと難色を示していたが、遊玄斎の「民の家じゃあ、茶の間の奥座敷は屋敷の主の部屋だ」という主張に、最後は渋々折れたのだった。厨当番や夜の竈番がいなければ、彼らはここで自由に過ごしていた。それでも当番の打ち合わせやら酒宴やらで、僕らがここで集うことを遠慮しないように、誰かが茶の間に来ると彼らはすぐに気配を消してしまう。
「どうした?」
今も、僕がここへ来たことで座敷へ引っ込んだのだろう。娘の声に引き戸がすっと開いて金辰が顔を出す。
「手拭い、ふたついただけます?」
「なんだ、外にいたのか。通り雨とは運の悪い。そら!」
金辰が手拭いを二本、娘に放ってよこす。多分、僕にだったら投げたりはしないんだろう。主に仕えるものであると同時に、僕らと違って、彼らは家族なんだなあと思い知る瞬間だ。
「はい、どうぞ」
娘が僕にひとつ差し出す。
「わざわざ汚すことはないよ、僕はこのまま庫院へ戻るから」
「また遠慮ですかな? 青江殿」
金辰が残念がるような呆れるような、得も言われぬ表情で僕を見る。
「誰が相手であっても僕はそうするよ」
「それを聞いて、安心していいものか……図りかねますな」
金辰は真剣に悩んでいるようだ。
「宗一は内番でしたっけ?」
「今日は我らはここ、茶の間の掃除当番なんだが、御手杵殿と何やら企んでるらしく、半(はん)時(とき)ほどほかの用事へ出てくると連れ立って出て行ったよ。自分は留守番を買ってでてやった」
「もう、宗一ったら……」
「いいんだ。自分もその企みに乗せてもらうことになっているからな」
金辰は呆れた様子の弓に向かって、朗らかに笑ってみせた。
僕は御手杵クンと宗一がいつ仲良くなったんだろうと思いを巡らせる。僕が茶を断ったのを残念そうにしていたのはつい数日前のことだ。何、良いことだ。いろんな刀剣ともっと交わるといい。そうすれば、自然と僕との接点も薄くなるだろう。
僕は手拭いを受け取らずにそのまま裏手へ回ろうと、金辰に目礼して歩き出した。
「あら、お茶くらいお入れしますのに。何かご用事でも?」
「まあ……また今度、呼ばれるとするよ」
僕は娘にそう告げると、土間の角を曲がって茶の間から姿を消した。