投稿日:2022年02月13日 15:19 文字数:10,092
8 ー菖蒲咲く梅雨の晴れ間にー
とある男性審神者の本丸で出会った、にっかり青江と弓の娘の物語。
御手杵が手を離れてからどうということもなく過ごしていた青江だが、確実に何かが変化しているのに気付くには至っていなかった。それは突然訪れた天啓などではなく季節が移り変わるようにいつのまにか訪れていたものだった。
御手杵が手を離れてからどうということもなく過ごしていた青江だが、確実に何かが変化しているのに気付くには至っていなかった。それは突然訪れた天啓などではなく季節が移り変わるようにいつのまにか訪れていたものだった。
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梅雨入りして半月ほどになろうとしていた。夏至を迎え、政府は新たな合戦場への道を拓いた。延享四年、江戸は白銀台。細川家と伊達家の双方にとって重大な局面であるこの時代、先に新橋への合戦場への道が拓いたときも、細川家と伊達家に縁のある刀剣たちは色めきだった。かつて仕えた家の存亡に関わる事件が起こるこの年、事と次第によってはそれこそ大きく歴史が変わってしまうからだ。けれど、春に発足したばかりのこの本丸にはこの時代の時間遡行軍を退けるだけの力はまだなかった。そして新橋でさえ出陣の足掛かりを持ち得ない僕らが白銀台へ出陣することを主は認めなかった。せめてこの目で様子を確かめてきたいと申し出た燭台切クンや歌仙クンの願いは、万が一にも交戦状態になればこの本丸に戻れる保証はないという言葉と共に退けられた。
大阪城最深部へ到達するのにもあれだけの困難を極めたのはついこの間のことだ。日々、経験を積んでいるとはいえ、逸る心だけでは戦は勝てないよと、諭したのは主だった。主が出陣の采配について言及するのはとても珍しかった。
「確かに、遡行軍を阻止すべく、身の危険も顧みず敵地に赴く本丸もあることは知っているよ」
あのとき、主は静かに僕らに語った。
「時空をこじ開けようとしているのがわかったとき、政府は歴史修正主義者の意図を分析し、時間遡行軍が出現する地を絞り込むんだ。出陣先が定められているのはね、徒に出陣先を広げて逆に歴史の流れに影響を及ぼすことを懸念してのことなんだ」
主は手を組んで、口元に押し当てた。何か考え込んでいるような仕草だった。
「でも僕はときどき考えるんだ。同じ時代、同じ戦場で、いかに効果的に転換を促す局面だとして、こうも阻止され続けて同じ手法を取り続けるだろうか、って」
頭に血が上りかけていた刀も、次第に冷静さを取り戻してきていた。
「同じ時代、同じ戦場、そして同じ目的であっても、狙う人物や方向性が変わっていく可能性は考えておくべきなんだと、僕は思うんだ。だから、ただ敵と戦って戦果を上げるだけではなく、遡行軍の行動に変化がないかを注意深く観察して欲しいんだ。それには、ある程度戦力に余裕がなければ成し得ないと僕は思う。だから、この本丸で出陣する舞台の戦力はぎりぎりでは駄目なんだ。この本丸の存在意義は、戦って勝つことじゃない。勝った上で、これまでと何か違う動きはなかったか、を見定めることなんだよ。すまない。腕に覚えのある刀剣たちには物足りないかもしれないが――」
それ以上、出陣を主張する刀はいなかった。
「実力を付けるしかないね……」
燭台切クンが吹っ切るように首を振って笑ってみせた。
「僕らより先に在って、武勲を上げている本丸は数多あると聞く。ならば、敵の出鼻を挫くのはその刀剣たちに任せよう。僕らは後に、もうその歴史に干渉する気さえなくなるよう、完膚なきまでに叩きのめそうじゃないか」
歌仙クンは主の言葉をどこまで咀嚼したのだろう。僕の耳には、あくまで武力で圧倒するつもりにしか聞こえなかったんだけど。でもそれが功を奏してか、うまく場が収まったのを覚えている。
皆、それぞれ思うところがあって尚、僕らは本丸で人の営みをなぞり、毎日を過ごしていた。
僕はと言えば、これまで馴染みのなかった仲間とも当番をこなし、長谷部クンの小言を受け流しながらの夜戦経験を積み重ね、そして非番のときはこの本丸を満たす空気にひとり、身を委ねた。あの娘がこの本丸に来てから、何かが変わった気がする。それは、蜂須賀があの娘を正式に本丸の一員であると皆に紹介したあの日から一層強く、清しい風に満たされているように思えた。それは、石切丸が纏うそれとは少し違っていて、僕はどこかで似たような風に出会ったことがあるような気がして仕方なかったのだ。御手杵クンの教育係を卒業し、ひとり過ごす時間が多くなったことで、僕はそれが何だったのか思い出そうとしていた。
馬上でかつての主と共に受けた山野の風ではなく、錚々たる名刀犇めく城の中を渡る風でもなく、海の近くでかつての主に侍り身を委ねた潮風でもない。ましてや賑わう江戸の喧噪とは無縁の――。
それは鬱陶しい長雨の季節に珍しく晴れた非番の午後、果樹園の木陰でぼんやりと空を眺めているときだった。
「御手杵~」
少し離れたところで呼び声が上がる。加州清光の声だ。つまり、御手杵クンもこの近くにいるようだ。
「この間の実、どうだった?」
これは大和守安定の声だ。
「ああ、いい感じになってきたぜ」
「最近、青江と一緒にいないじゃねーか」
これは和泉守兼定か。
「兼さん、御手杵さんの見習い期間は終わったんだよ。ですよね?」
堀川国広も一緒なのか。なるほど、新撰組勢揃いだ。
「まあ……そう、かな」
「なーに謙遜しちゃってるの?」
「あ、いや。そんなんじゃなくて。まだまだ、これでいいのかなって考えてばっかりだよ」
「大丈夫だって。僕たちだって似たようなもんだよ。ね、清光?」
「そうそう、堀川に頼りっきり」
「大先輩だもんなあ、国広ぉ」
「そんなことないですって。たった一日二日早かっただけで――」
そこに新しい声が遠くから届く。
「御手杵さーん」
御手杵クンを呼んでいるのは宗一の声だ。
「あ、じゃあ俺、ちょっと用事あるから」
「最近、よく一緒にいるよね」
「ああ、ふたりで青江の教えを実践中なんだ」
加州の問いに答えた御手杵クンが走って行く音が聞こえる。さて、僕は何を教えたっけ、と頭を捻る。
「何、青江の教えって」
「さあ……」
僕の居るところからは見えないけど、加州と大和守が顔を見合わせて首を捻っているのは手に取るようにわかる。
「奥義伝授とかか?」
「それはないと思うよ、兼さん」
和泉守に堀川が苦笑する。
「きっと、この本丸で暮らすための秘訣とかじゃないかな。青江さん、よくみんなの面倒見てるし」
堀川はそう言うが、僕としてはそんなつもりはないし、そもそも御手杵クンがそう言う心当たりがない。
「ところでさ、青江っていつくらいにここに来た?」
加州が切り出して、しばし沈黙が流れた。
「気が付いたら居た……ってことは、僕らより前かなあ。僕らは一緒に堀川道場に入門したもんね」
「道場って……やめてくださいよ、大和守さん」
「いいや、道場であってるぜ。人間の暮らし方について容赦なくしごかれたからな!」
「兼さんまで……もう」
気心知れた仲間同士、打てば響くように言葉が飛び交っている。
「にしても、あいつ――悪い奴じゃあねえんだが……掴みどころがないと思えば、なんか妙になんでも知ってる風でどっしりしてるように見えたりしてよお」
連れ立ってどこかへ向かっているのか、少しずつ声が遠くなっていく。
「俺より先なのは確かだと思――」
声が届かなくなってから、僕はやおら立ち上がって服に付いた草を払った。
「ッフフ……」
思わず笑いが口を突いて出る。だってさ、僕、この本丸に来たのって加州と同じ日なんだよ。顔を合わせたのはもっと後だったけど、新撰組の刀のお手伝いなら僕に任せて下さいと堀川が加州を連れていったのが聞こえていた。僕はと言えば、刀として徒党を組んでいた覚えはないし、同じ刀派の刀はまだいなかった。主と蜂須賀がだれに面倒を見させようと悩んでいるうちに、同じ日に顕現した鯰尾が同じ脇差同士だからと、一緒に兄弟たちに面倒みてもらえばいいと強引に粟田口の集団の中に僕を引っ張っていったんだった。脳裏に粟田口と過ごした日々が蘇り、僕はある日の遠征での出来事を思い出していた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
遠征の帰り道、通りかかった神社で僕たちはひと休みしていた。少し陽の傾いた境内で子どもたちがわらべうたを唄いながら遊んでいた。
「にっかりさんは、女の幽霊と子どもの幽霊を斬ったことがあるんですよね?」
鯰尾くんが無邪気に僕に尋ねてきた。今日は僕の初遠征、僕より一足先に顕現した鯰尾くんが世話役で、他のメンバーは古株の短刀たちだ。僕は顕現したばかりでまだこの部隊の皆ともあまり話をしていない。
「ああ、そんなこともあった……というか、それが僕の「にっかり」たる所以でもあるからねえ」
僕は少し複雑な思いで返事をする。君にこの話をするのは二度目だよ、そう言いそうになってすぐに飲み込んだ。最初に君と話をした大阪城でのことを君は覚えていない。
「可愛いですね」
僕の気も知らないで、鯰尾くんは遊ぶ子どもたちに目をやった。
「僕も混ぜてもらおうかな?」
乱くんがそれに応える。
「さすがにあの中じゃおまえ、年増だろ」
薬研くんの毒舌に乱くんは少し顔を顰めたがあまり気にしてはいないようだ。
「そうだね、僕が加わったらみんな僕にみとれちゃっても困るもんね」
仲が良いのか、悪いのか。兄弟のというものはこんな感じなのだろうか。僕にはまだよくわからない。どうしたものかと曖昧な笑みを浮かべていると鯰尾くんが、いつもこんな調子ですよ、と囁いた。
「さあて、そろそろ行きますか。日も陰ってきたし帰りどきにはちょうどいいや」
鯰尾くんの掛け声でみんな腰を上げた。気が付けば境内で遊んでいた子どもたちも鳥居を潜り帰るところだ。僕たちもその後に続くように境内を後にした。ちょうど鳥居から一歩外へ出ようとしたところだった。小さな女の子が鳥居に隠れるようにしてこちらを伺っている。
「どうしたの? 君はおうちに帰らないのかい?」
鯰尾くんが近寄って話し掛けるが、その子は俯いたまま返事はない。少し嫌な予感がした。が、僕が今までに斬ってきた幽霊の気配とはどうも違う。僕はしばらく様子を見ることにした。斬る気になればいつでもできることだしね。
「迷子かな?」
乱くんがしゃがんでその子と目線を合わせる。
「おうち、帰りたい……」
その子はやっと聞き取れるような小さな声で呟いた。
「おうちはどこかわかる?」
そう尋ねるとその子ははっきりと頷いた。
「この村はそんなに大きくなさそうだし、時間の余裕は見てあるから少しくらいなら寄り道しても大丈夫だよね? もしすぐにこの子の家が見つからなかったら誰かに頼めばいいだろうし」
鯰尾くんがそう言うと兄弟のたちはすぐに同意した。僕が反対する理由はない。
「本当は怒られるけど、ま、大目にみてよ」
鯰尾くんは僕に目配せするとその子の手を取って歩き出した。
その子は鯰尾くんの手を引きどんどんと道を行く。迷子になった風情はまるでない。
「勝手に外に遊びに出てきて、怒られるのが怖くてひとりで帰れなかったのか?」
薬研くんが揶揄うように尋ねるがその子は黙ったままだった。やがてある家の前に差し掛かるとその子は足を止めて中を窺った。夕暮れの空の下、立ち昇る煙と匂いとで、夕餉の支度をしているのがわかる。
「家に入らないのかい?」
僕が声を掛けたとき、土間に人の影が見えた。赤ん坊を背負った女性だ。
「お母さんじゃないの?」
鯰尾くんが声を掛けたがその子は鯰尾くんの手を握ったまま微動だにしない。ふいに背負われた子どもが泣き出した。その途端、その子は一目散に今来た道を駆け出した。
「どうしたんだい!?」
思いも寄らないその子の行動に僕らも不意を突かれた。
「待てよ! 一体どうしたんだ?」
薬研くんが慌てて追いかける。僕たちもそれに続いた。それにしてもおかしい。子どもの足だというのに僕らがなかなか追いつけない。まずいな……僕は刀をすぐに抜けるよう手を掛け、後を追った。
元来た神社の鳥居のところまできてその子はようやく止まった。鯰尾くんが覗き込むと、その子のその目には涙がいっぱいに溜まっていた。
『母ちゃ……どうして……ひっく……知らんコ負うてるん……母ちゃ……』
顔を真っ赤にしてぽろぽろと泣いているうちにその嗚咽が段々と禍々しさを帯びてきた。
『だれ……返して……あたしの母ちゃん……返して……返せ……返せ……』
その幼い姿に似つかわしくない黒々とした気がその子から立ち上り始めた。
『まずい……鯰尾くん、退くんだ!』
僕は鍔に指を掛けてその子に向かって一歩を踏み出した。
「待って!」
刃が鞘から抜けようとしたその瞬間、天から声が降ってきた。そう、降ってきたんだ。見上げると人のような影、いや光がゆらゆらと鳥居の上で揺れている。
「まだ間に合う……その子をこちらに!」
その光は鳥居の向こう側に降り立ちその子に向かって腕を伸ばす。
「わたしはそちら側には行けないの……どうか、その子を」
僕は刀から手を離し、その子を抱えると鳥居の向こうへと飛び込んだ。
(母ちゃーん!)
その子が叫んだような気がしたが、耳に届いた声ではないことを何処となく感じた。見ればその子は僕の腕に抱えられたまま気を失っている。その子に向かって伸ばされた腕の主に目をやれば、そこにはまだ若い女の姿があった。
「君は、母親ではないよね」
その女は僕の問いには答えずにその子を抱き上げると、子どもをあやすように背中をぽんぽんと叩きながら立ち上がってこちらをみた。
「ごめんなさい、ここから出ては行けないと言い聞かせていたのに……」
僕は疑問に思っていたことを口にする。
「その子は幽霊ではないね?」
もし幽霊を見誤っていたとしたら僕の存在意義が揺らいでしまう。
「七つまでは神のうち……」
そう女が呟くとそのまわりに再び光が集まり始め、人のかたちが朧げになっていく。
「お社に戻りましょうね……」
その女は子どもを抱いて社殿に向かって歩いていったが、途中でこちらを振り向くと頭を垂れて言った。
「あなたでよかった。此方と彼方を行き来できる方がいてくれて……本当にありがとう」
「にっかりさーん!」
鯰尾くんの声に振り返る。皆がこちらに駆け寄ってきた。
「さすが名高い幽霊切りの刀だな、悪霊も一瞬で退散……いや、消滅か」
薬研くんの言葉を訝って社殿に顔を向けるが、そこにはもうだれも姿もなかった。
「いきなり鳥居の向こうに駆け出すからびっくりしましたよ。おまけに一瞬靄がかかったみたいに姿が見えなくなるし、でもにっかり青江の一振りで解決ですね!」
鯰尾くんが屈託無く笑っている。どういうことなんだ。僕以外には見えていなかった、と。
「さあ、さすがに急いで帰らないと長谷部に怒られるぞ」
鯰尾くんの掛け声で皆が神社を後にする。僕はゆっくりと、最後に鳥居を抜ける。風がそよいで頬を撫でていった。
(ありがとう……)
そう言っているような気がした。
「にっかりさーん! 何してんだよ、置いてくぞー!」
僕はもう一度誰もいない境内に目をやると、鯰くんの声に促されるようにその場を後にした。
僕はあのとき気に掛けなかったけど、確かあの境内には大きな柱が立っていた。そうだよ、ちょうど柱の上から舞い降りたようだった。そして幼子の禍々しさとは対照的にとても清々しい気を纏っていたんだ。そうか、あのときの風に似ているんだ。僕はずっと探していた答えにようやく辿り着けたことで、安堵にも似た心地が湧くのと同時に、拍子抜けしたかのように力のない笑いが込み上げるのを押さえられなかった。
僕は長いこと刀として在った。培った経験というのは刀として在ったときに得たものという思い込みがあって当然ではあるのだけど、それにしてもわずか数ヶ月前の出来事を思い出せずにいたとは。確か、あれは遠征とは言っても政府が定めた時代ではなく、この本丸時空の見廻りだったはず。主が本丸を構えた地に綻びがないよう過去へ飛ぶ遠征だ。時代は違えど同じ土地だ。いにしえにこの地を統べた神が今でもここに在るように、この本丸の社から吹く風も、かつての土地に吹いたのだろう。主が縁のある土地に本丸を構え、社を勧進したのだ。主の家に伝わる弓がその風を纏っていても不思議はない。僕がかつての主に繋がる刀であるように、あの娘もまた、主に繋がる弓なんだ。そして、僕ら刀剣男士との大きな違い――それはあの弓や刀剣たちのかつての主と今の主は連綿と繋がっているということだ。
「そりゃ、適わないよなあ」
刀剣男士としての資質云々以前に、主との縁の強さを思い、僕は呟かずにはいられなかった。
遠征先での不思議な体験が、弓の娘を初めて見た晩の出来事と重なる。何かの声を聞こうと耳を傾け、何かを伝えよう一心に祈るあの磐座での姿は、太陽の下で幼子を庇護する存在と、月の下で神と対話する巫女は似て非なるものなのか、それとも近しい存在なのか。
一方で、数日前の娘の言葉を思い出す。まるで僕に対して怒っているようにも思えた口調と嵐のような風。あれは一歩間違えば荒ぶる神がお出ましになるところだったかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えだとは思うけれど、弓の娘のことは考えれば考えるほど不思議な存在に思えた。刀の大小や槍には感じることのない感覚なのだ。彼らは政府が定めた刀剣男士ではないとは言え、僕らと同じく炎の中で鋼から生まれたもの。でも弓は違う。竹に麻、命あるものから作られているからなのか。仲睦まじい様子は文字通り家族のようでもあり、それでいて――。
いや、僕は何をこんなに気に掛けているのだろう。僕がここに在る意味に何ら影響することでもない。一頻り目を閉じて風に身を委ねる。戦うこと意外に心を煩わせるものなどない――と認識するはずが、そこからどういうわけか主の刀のことへと意識が向いてしまい、ずっと茶の誘いを固辞し続けていることに思い至る。らしくない。そうは思ったが、主の刀にあまり不義理をするのもどうかと思い直し、僕は母屋へと歩き出した。
大広間の前へ出ると、池のほとりで金辰がしゃがみ込んでぼんやりと水面を見ていた。その様子があまりに所在なさげだったものだから、僕は思わず声を掛けた。
「金辰、どうかしたのかい」
はっとして顔をこちらに向けた金辰は慌てて立ち上がりこちらに一礼する。
「青江殿――これは、お恥ずかしいところを……」
「謝ることなんかないだろう? 誰だって気を抜く時間は必要さ。僕だって今、果樹園でぼーっと過ごしてきたところだよ」
それでも金辰は黙ったまま困ったような顔をして俯いたままだった。
「君たちも茶の間ではなく、庫院に部屋をもらったほうがいいんじゃないのかな。茶の間のには大抵、誰かしらいるから気が休まらないだろう?」
「ですが――」
「ほら、ここには三日月みたいな平安刀もいれば君たちと同年代の刀もいるだろう? 彼らならそれほど気構える必要はないさ」
金辰は少し躊躇いがちに語り出した。
「我らは正直、自分たちの立場がよくわからないのです」
「立場?」
「我らが在ったのは山奥の小さな藩だ。それでも徳川に近く、殿様は徳川を慕っておられた。だから、ご一新のときも我らは徳川方に付くものと思った。だが、山奥の外では我らが思うより早くに時代が動いていたのだ。気が付けば城下は旧幕府軍の手で焼かれていた」
僕は黙って金辰の話に耳を傾ける。
「我らは一介の藩士の刀だ。ただ、そう在るように望まれたままに生き、自ら政に目を向けることもなかった故、刀剣男士の方々の中に入るのにはまだ気が引けてしまう」
金辰はそういうと顔を上げた。
「ですが、そう言っていては主のお役には立てませぬ。みなさまとどう向き合えばよいのか、もう少し考えてみたいのだ」
皆と打ち解け、当番もしっかり務めていたのを目にしていた僕は、少し驚いた。そんなことを考えていたと思い至らなかったからだ。
「宗一は強い。真っ直ぐで、御手杵殿と打ち解けたのか最近はよく一緒に過ごしているようで。それで、このようなお願いは先程の言葉とは矛盾するのですが――」
金辰が改めて頭を下げる。
「どうか、偶にでよいので宗一の茶に呼ばれて遣ってはもらえないだろうか」
「そんな、改めて頭を下げられるほどの――」
「我らが刀剣の中でどのように振る舞うべきか考えあぐねる一方で、青江殿、貴殿には迷いなく我らが報いる義があるのです」
「そんな大袈裟なことを、僕がしたかな」
「妹の、弓の命を助けて下さった。これは我らが此処へやってきて、この姿を得て、確かに知りうる大切なことなのです。歴史上の立場や刀としての優劣に関わらず、貴方は我らの恩人である。それが我らがこの身を得て最初に結んだ縁。それは揺るがないからこそ、貴殿に対しては我らは惑うことなく対峙できるのです」
「そういうことなら……」
僕の中でゆるりと動き出したものが解けていくのがわかった。
「ここに集う皆、同じだよ。きっとね」
自分で口にしていながら、まるで金辰だけでなく自分にも言い聞かせるような気分だ。
「縁の強い刀同士が仲良く見えてしまうものだけど、僕らだって人の身を得たのは此処に来てからだ。主が本丸を構えたのが春だからね。皆、此処へ来てからこれまでの縁とは別に新しい縁を結んでいるはずだよね……確かに刀として共に在った日々が長いものもいるけど」
すべてを覚えている刀ばかりじゃない。人の身を得て初めて出会う刀もいる。
「それを言ったら、君たちは主の直臣であり、主の先祖に仕えていたと言う事実。それは如何に僕らが望んでもなれるものじゃない。ある意味、羨望の的だよ」
僕は長谷部クンの苦虫を噛み潰したような顔を思い描いてつい笑いそうになる。
「ここから始めれば良い、ということなのでしょうか」
金辰が自分の掌を見詰め、固く握りしめた。
「きっと、そうだよ」
僕は僕で、自分の言葉をかみしめる。
「おーい!」
玄関の側から御手杵クンがこちらに向かって手を振っていた。
「探したぞー、青江」
駆け寄る御手杵クンの手には何やらギヤマンの壺があった。
「ほお、出来具合は如何かな。御手杵殿」
「まあ、こんなもんかな。これ、茶請けにしてちょっと休まないか? 青江に一番に食べてもらいたくてさ。でも俺も早く食べてみたいんだよー」
「僕はお毒味役なのかい?」
「いやっ、そうじゃなくて」
僕が揶揄うのを御手杵クンが真顔で遮る。
「青江が教えてくれたからさ、一番に報告したかったんだ。あ、宗一も一緒に、だけどな」
僕はまた不思議に思う。
「僕が何か作るとか、君に教えた覚えはないんだけどねえ……」
「ああ、これな」
御手杵クンが得意気に壺を掲げてみせてくる。
「青江がさ、俺は刺すことしかできないって言ったら、できないじゃなくてできることを探せばいいんじゃないかって言ったんだよ」
「僕が? そんなこと言ったかなあ……」
「あはは、言った言った」
御手杵クンの楽しそうな顔を見るのは悪くない。
「青江と離れて最初の内番でさ、摘果したとき思ったんだよ」
「なるほど、何かに利用できないか、と?」
金辰が壺を覗き込む。
「いや」
御手杵クンが真顔に戻る。
「喰わないの、もったいないな――って」
僕と金辰が顔を見合わせる。
「そのまま囓っても美味くなくてさ。で、じゃあどうしたら食べられるか考えてみた。宗一にも手伝ったもらって本を調べたりとかさ」
御手杵クンがまた得意気ににかーっと笑う。
「西洋風の漬物だー! 宗一が茶の準備をしてるからさ。茶の間、行こーぜ。金辰さんも!」
「御手杵さまー! お茶はおいくつご用意します?」
弓の娘が母屋の影からひょいと身を乗り出して手を振っている。その様子は無邪気な娘そのもので、神々しさとも荒々しさとも無縁に映った。
「今、そっち行く!」
御手杵クンはくるりと向きを変えて掛けだした。
「早く、来いよー?」
走りながらこちらを振り向き、御手杵が手招きする。
「今日こそは、一緒に茶を」
金辰の声は明るかった。
「行かないわけにはいかないねえ……」
僕らは並んで茶の間へ向かって歩いて行く。
「少しずつ、縁を紡いで参りますかな。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申す」
「なんの、こちらこそ」
刀の時代は刀の時代。僕が持つ物語。それとは別にここでの物語が動いていることを、僕はようやく理解したのかもしれない。
これからが楽しみだねえ。何故って、僕はもっと強くなる。そう思えるからさ。
僕らが歩く池のほとりには、見事な菖蒲の咲く一角が梅雨の晴れ間に輝いていた。
大阪城最深部へ到達するのにもあれだけの困難を極めたのはついこの間のことだ。日々、経験を積んでいるとはいえ、逸る心だけでは戦は勝てないよと、諭したのは主だった。主が出陣の采配について言及するのはとても珍しかった。
「確かに、遡行軍を阻止すべく、身の危険も顧みず敵地に赴く本丸もあることは知っているよ」
あのとき、主は静かに僕らに語った。
「時空をこじ開けようとしているのがわかったとき、政府は歴史修正主義者の意図を分析し、時間遡行軍が出現する地を絞り込むんだ。出陣先が定められているのはね、徒に出陣先を広げて逆に歴史の流れに影響を及ぼすことを懸念してのことなんだ」
主は手を組んで、口元に押し当てた。何か考え込んでいるような仕草だった。
「でも僕はときどき考えるんだ。同じ時代、同じ戦場で、いかに効果的に転換を促す局面だとして、こうも阻止され続けて同じ手法を取り続けるだろうか、って」
頭に血が上りかけていた刀も、次第に冷静さを取り戻してきていた。
「同じ時代、同じ戦場、そして同じ目的であっても、狙う人物や方向性が変わっていく可能性は考えておくべきなんだと、僕は思うんだ。だから、ただ敵と戦って戦果を上げるだけではなく、遡行軍の行動に変化がないかを注意深く観察して欲しいんだ。それには、ある程度戦力に余裕がなければ成し得ないと僕は思う。だから、この本丸で出陣する舞台の戦力はぎりぎりでは駄目なんだ。この本丸の存在意義は、戦って勝つことじゃない。勝った上で、これまでと何か違う動きはなかったか、を見定めることなんだよ。すまない。腕に覚えのある刀剣たちには物足りないかもしれないが――」
それ以上、出陣を主張する刀はいなかった。
「実力を付けるしかないね……」
燭台切クンが吹っ切るように首を振って笑ってみせた。
「僕らより先に在って、武勲を上げている本丸は数多あると聞く。ならば、敵の出鼻を挫くのはその刀剣たちに任せよう。僕らは後に、もうその歴史に干渉する気さえなくなるよう、完膚なきまでに叩きのめそうじゃないか」
歌仙クンは主の言葉をどこまで咀嚼したのだろう。僕の耳には、あくまで武力で圧倒するつもりにしか聞こえなかったんだけど。でもそれが功を奏してか、うまく場が収まったのを覚えている。
皆、それぞれ思うところがあって尚、僕らは本丸で人の営みをなぞり、毎日を過ごしていた。
僕はと言えば、これまで馴染みのなかった仲間とも当番をこなし、長谷部クンの小言を受け流しながらの夜戦経験を積み重ね、そして非番のときはこの本丸を満たす空気にひとり、身を委ねた。あの娘がこの本丸に来てから、何かが変わった気がする。それは、蜂須賀があの娘を正式に本丸の一員であると皆に紹介したあの日から一層強く、清しい風に満たされているように思えた。それは、石切丸が纏うそれとは少し違っていて、僕はどこかで似たような風に出会ったことがあるような気がして仕方なかったのだ。御手杵クンの教育係を卒業し、ひとり過ごす時間が多くなったことで、僕はそれが何だったのか思い出そうとしていた。
馬上でかつての主と共に受けた山野の風ではなく、錚々たる名刀犇めく城の中を渡る風でもなく、海の近くでかつての主に侍り身を委ねた潮風でもない。ましてや賑わう江戸の喧噪とは無縁の――。
それは鬱陶しい長雨の季節に珍しく晴れた非番の午後、果樹園の木陰でぼんやりと空を眺めているときだった。
「御手杵~」
少し離れたところで呼び声が上がる。加州清光の声だ。つまり、御手杵クンもこの近くにいるようだ。
「この間の実、どうだった?」
これは大和守安定の声だ。
「ああ、いい感じになってきたぜ」
「最近、青江と一緒にいないじゃねーか」
これは和泉守兼定か。
「兼さん、御手杵さんの見習い期間は終わったんだよ。ですよね?」
堀川国広も一緒なのか。なるほど、新撰組勢揃いだ。
「まあ……そう、かな」
「なーに謙遜しちゃってるの?」
「あ、いや。そんなんじゃなくて。まだまだ、これでいいのかなって考えてばっかりだよ」
「大丈夫だって。僕たちだって似たようなもんだよ。ね、清光?」
「そうそう、堀川に頼りっきり」
「大先輩だもんなあ、国広ぉ」
「そんなことないですって。たった一日二日早かっただけで――」
そこに新しい声が遠くから届く。
「御手杵さーん」
御手杵クンを呼んでいるのは宗一の声だ。
「あ、じゃあ俺、ちょっと用事あるから」
「最近、よく一緒にいるよね」
「ああ、ふたりで青江の教えを実践中なんだ」
加州の問いに答えた御手杵クンが走って行く音が聞こえる。さて、僕は何を教えたっけ、と頭を捻る。
「何、青江の教えって」
「さあ……」
僕の居るところからは見えないけど、加州と大和守が顔を見合わせて首を捻っているのは手に取るようにわかる。
「奥義伝授とかか?」
「それはないと思うよ、兼さん」
和泉守に堀川が苦笑する。
「きっと、この本丸で暮らすための秘訣とかじゃないかな。青江さん、よくみんなの面倒見てるし」
堀川はそう言うが、僕としてはそんなつもりはないし、そもそも御手杵クンがそう言う心当たりがない。
「ところでさ、青江っていつくらいにここに来た?」
加州が切り出して、しばし沈黙が流れた。
「気が付いたら居た……ってことは、僕らより前かなあ。僕らは一緒に堀川道場に入門したもんね」
「道場って……やめてくださいよ、大和守さん」
「いいや、道場であってるぜ。人間の暮らし方について容赦なくしごかれたからな!」
「兼さんまで……もう」
気心知れた仲間同士、打てば響くように言葉が飛び交っている。
「にしても、あいつ――悪い奴じゃあねえんだが……掴みどころがないと思えば、なんか妙になんでも知ってる風でどっしりしてるように見えたりしてよお」
連れ立ってどこかへ向かっているのか、少しずつ声が遠くなっていく。
「俺より先なのは確かだと思――」
声が届かなくなってから、僕はやおら立ち上がって服に付いた草を払った。
「ッフフ……」
思わず笑いが口を突いて出る。だってさ、僕、この本丸に来たのって加州と同じ日なんだよ。顔を合わせたのはもっと後だったけど、新撰組の刀のお手伝いなら僕に任せて下さいと堀川が加州を連れていったのが聞こえていた。僕はと言えば、刀として徒党を組んでいた覚えはないし、同じ刀派の刀はまだいなかった。主と蜂須賀がだれに面倒を見させようと悩んでいるうちに、同じ日に顕現した鯰尾が同じ脇差同士だからと、一緒に兄弟たちに面倒みてもらえばいいと強引に粟田口の集団の中に僕を引っ張っていったんだった。脳裏に粟田口と過ごした日々が蘇り、僕はある日の遠征での出来事を思い出していた。
通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ
遠征の帰り道、通りかかった神社で僕たちはひと休みしていた。少し陽の傾いた境内で子どもたちがわらべうたを唄いながら遊んでいた。
「にっかりさんは、女の幽霊と子どもの幽霊を斬ったことがあるんですよね?」
鯰尾くんが無邪気に僕に尋ねてきた。今日は僕の初遠征、僕より一足先に顕現した鯰尾くんが世話役で、他のメンバーは古株の短刀たちだ。僕は顕現したばかりでまだこの部隊の皆ともあまり話をしていない。
「ああ、そんなこともあった……というか、それが僕の「にっかり」たる所以でもあるからねえ」
僕は少し複雑な思いで返事をする。君にこの話をするのは二度目だよ、そう言いそうになってすぐに飲み込んだ。最初に君と話をした大阪城でのことを君は覚えていない。
「可愛いですね」
僕の気も知らないで、鯰尾くんは遊ぶ子どもたちに目をやった。
「僕も混ぜてもらおうかな?」
乱くんがそれに応える。
「さすがにあの中じゃおまえ、年増だろ」
薬研くんの毒舌に乱くんは少し顔を顰めたがあまり気にしてはいないようだ。
「そうだね、僕が加わったらみんな僕にみとれちゃっても困るもんね」
仲が良いのか、悪いのか。兄弟のというものはこんな感じなのだろうか。僕にはまだよくわからない。どうしたものかと曖昧な笑みを浮かべていると鯰尾くんが、いつもこんな調子ですよ、と囁いた。
「さあて、そろそろ行きますか。日も陰ってきたし帰りどきにはちょうどいいや」
鯰尾くんの掛け声でみんな腰を上げた。気が付けば境内で遊んでいた子どもたちも鳥居を潜り帰るところだ。僕たちもその後に続くように境内を後にした。ちょうど鳥居から一歩外へ出ようとしたところだった。小さな女の子が鳥居に隠れるようにしてこちらを伺っている。
「どうしたの? 君はおうちに帰らないのかい?」
鯰尾くんが近寄って話し掛けるが、その子は俯いたまま返事はない。少し嫌な予感がした。が、僕が今までに斬ってきた幽霊の気配とはどうも違う。僕はしばらく様子を見ることにした。斬る気になればいつでもできることだしね。
「迷子かな?」
乱くんがしゃがんでその子と目線を合わせる。
「おうち、帰りたい……」
その子はやっと聞き取れるような小さな声で呟いた。
「おうちはどこかわかる?」
そう尋ねるとその子ははっきりと頷いた。
「この村はそんなに大きくなさそうだし、時間の余裕は見てあるから少しくらいなら寄り道しても大丈夫だよね? もしすぐにこの子の家が見つからなかったら誰かに頼めばいいだろうし」
鯰尾くんがそう言うと兄弟のたちはすぐに同意した。僕が反対する理由はない。
「本当は怒られるけど、ま、大目にみてよ」
鯰尾くんは僕に目配せするとその子の手を取って歩き出した。
その子は鯰尾くんの手を引きどんどんと道を行く。迷子になった風情はまるでない。
「勝手に外に遊びに出てきて、怒られるのが怖くてひとりで帰れなかったのか?」
薬研くんが揶揄うように尋ねるがその子は黙ったままだった。やがてある家の前に差し掛かるとその子は足を止めて中を窺った。夕暮れの空の下、立ち昇る煙と匂いとで、夕餉の支度をしているのがわかる。
「家に入らないのかい?」
僕が声を掛けたとき、土間に人の影が見えた。赤ん坊を背負った女性だ。
「お母さんじゃないの?」
鯰尾くんが声を掛けたがその子は鯰尾くんの手を握ったまま微動だにしない。ふいに背負われた子どもが泣き出した。その途端、その子は一目散に今来た道を駆け出した。
「どうしたんだい!?」
思いも寄らないその子の行動に僕らも不意を突かれた。
「待てよ! 一体どうしたんだ?」
薬研くんが慌てて追いかける。僕たちもそれに続いた。それにしてもおかしい。子どもの足だというのに僕らがなかなか追いつけない。まずいな……僕は刀をすぐに抜けるよう手を掛け、後を追った。
元来た神社の鳥居のところまできてその子はようやく止まった。鯰尾くんが覗き込むと、その子のその目には涙がいっぱいに溜まっていた。
『母ちゃ……どうして……ひっく……知らんコ負うてるん……母ちゃ……』
顔を真っ赤にしてぽろぽろと泣いているうちにその嗚咽が段々と禍々しさを帯びてきた。
『だれ……返して……あたしの母ちゃん……返して……返せ……返せ……』
その幼い姿に似つかわしくない黒々とした気がその子から立ち上り始めた。
『まずい……鯰尾くん、退くんだ!』
僕は鍔に指を掛けてその子に向かって一歩を踏み出した。
「待って!」
刃が鞘から抜けようとしたその瞬間、天から声が降ってきた。そう、降ってきたんだ。見上げると人のような影、いや光がゆらゆらと鳥居の上で揺れている。
「まだ間に合う……その子をこちらに!」
その光は鳥居の向こう側に降り立ちその子に向かって腕を伸ばす。
「わたしはそちら側には行けないの……どうか、その子を」
僕は刀から手を離し、その子を抱えると鳥居の向こうへと飛び込んだ。
(母ちゃーん!)
その子が叫んだような気がしたが、耳に届いた声ではないことを何処となく感じた。見ればその子は僕の腕に抱えられたまま気を失っている。その子に向かって伸ばされた腕の主に目をやれば、そこにはまだ若い女の姿があった。
「君は、母親ではないよね」
その女は僕の問いには答えずにその子を抱き上げると、子どもをあやすように背中をぽんぽんと叩きながら立ち上がってこちらをみた。
「ごめんなさい、ここから出ては行けないと言い聞かせていたのに……」
僕は疑問に思っていたことを口にする。
「その子は幽霊ではないね?」
もし幽霊を見誤っていたとしたら僕の存在意義が揺らいでしまう。
「七つまでは神のうち……」
そう女が呟くとそのまわりに再び光が集まり始め、人のかたちが朧げになっていく。
「お社に戻りましょうね……」
その女は子どもを抱いて社殿に向かって歩いていったが、途中でこちらを振り向くと頭を垂れて言った。
「あなたでよかった。此方と彼方を行き来できる方がいてくれて……本当にありがとう」
「にっかりさーん!」
鯰尾くんの声に振り返る。皆がこちらに駆け寄ってきた。
「さすが名高い幽霊切りの刀だな、悪霊も一瞬で退散……いや、消滅か」
薬研くんの言葉を訝って社殿に顔を向けるが、そこにはもうだれも姿もなかった。
「いきなり鳥居の向こうに駆け出すからびっくりしましたよ。おまけに一瞬靄がかかったみたいに姿が見えなくなるし、でもにっかり青江の一振りで解決ですね!」
鯰尾くんが屈託無く笑っている。どういうことなんだ。僕以外には見えていなかった、と。
「さあ、さすがに急いで帰らないと長谷部に怒られるぞ」
鯰尾くんの掛け声で皆が神社を後にする。僕はゆっくりと、最後に鳥居を抜ける。風がそよいで頬を撫でていった。
(ありがとう……)
そう言っているような気がした。
「にっかりさーん! 何してんだよ、置いてくぞー!」
僕はもう一度誰もいない境内に目をやると、鯰くんの声に促されるようにその場を後にした。
僕はあのとき気に掛けなかったけど、確かあの境内には大きな柱が立っていた。そうだよ、ちょうど柱の上から舞い降りたようだった。そして幼子の禍々しさとは対照的にとても清々しい気を纏っていたんだ。そうか、あのときの風に似ているんだ。僕はずっと探していた答えにようやく辿り着けたことで、安堵にも似た心地が湧くのと同時に、拍子抜けしたかのように力のない笑いが込み上げるのを押さえられなかった。
僕は長いこと刀として在った。培った経験というのは刀として在ったときに得たものという思い込みがあって当然ではあるのだけど、それにしてもわずか数ヶ月前の出来事を思い出せずにいたとは。確か、あれは遠征とは言っても政府が定めた時代ではなく、この本丸時空の見廻りだったはず。主が本丸を構えた地に綻びがないよう過去へ飛ぶ遠征だ。時代は違えど同じ土地だ。いにしえにこの地を統べた神が今でもここに在るように、この本丸の社から吹く風も、かつての土地に吹いたのだろう。主が縁のある土地に本丸を構え、社を勧進したのだ。主の家に伝わる弓がその風を纏っていても不思議はない。僕がかつての主に繋がる刀であるように、あの娘もまた、主に繋がる弓なんだ。そして、僕ら刀剣男士との大きな違い――それはあの弓や刀剣たちのかつての主と今の主は連綿と繋がっているということだ。
「そりゃ、適わないよなあ」
刀剣男士としての資質云々以前に、主との縁の強さを思い、僕は呟かずにはいられなかった。
遠征先での不思議な体験が、弓の娘を初めて見た晩の出来事と重なる。何かの声を聞こうと耳を傾け、何かを伝えよう一心に祈るあの磐座での姿は、太陽の下で幼子を庇護する存在と、月の下で神と対話する巫女は似て非なるものなのか、それとも近しい存在なのか。
一方で、数日前の娘の言葉を思い出す。まるで僕に対して怒っているようにも思えた口調と嵐のような風。あれは一歩間違えば荒ぶる神がお出ましになるところだったかもしれない。馬鹿馬鹿しい考えだとは思うけれど、弓の娘のことは考えれば考えるほど不思議な存在に思えた。刀の大小や槍には感じることのない感覚なのだ。彼らは政府が定めた刀剣男士ではないとは言え、僕らと同じく炎の中で鋼から生まれたもの。でも弓は違う。竹に麻、命あるものから作られているからなのか。仲睦まじい様子は文字通り家族のようでもあり、それでいて――。
いや、僕は何をこんなに気に掛けているのだろう。僕がここに在る意味に何ら影響することでもない。一頻り目を閉じて風に身を委ねる。戦うこと意外に心を煩わせるものなどない――と認識するはずが、そこからどういうわけか主の刀のことへと意識が向いてしまい、ずっと茶の誘いを固辞し続けていることに思い至る。らしくない。そうは思ったが、主の刀にあまり不義理をするのもどうかと思い直し、僕は母屋へと歩き出した。
大広間の前へ出ると、池のほとりで金辰がしゃがみ込んでぼんやりと水面を見ていた。その様子があまりに所在なさげだったものだから、僕は思わず声を掛けた。
「金辰、どうかしたのかい」
はっとして顔をこちらに向けた金辰は慌てて立ち上がりこちらに一礼する。
「青江殿――これは、お恥ずかしいところを……」
「謝ることなんかないだろう? 誰だって気を抜く時間は必要さ。僕だって今、果樹園でぼーっと過ごしてきたところだよ」
それでも金辰は黙ったまま困ったような顔をして俯いたままだった。
「君たちも茶の間ではなく、庫院に部屋をもらったほうがいいんじゃないのかな。茶の間のには大抵、誰かしらいるから気が休まらないだろう?」
「ですが――」
「ほら、ここには三日月みたいな平安刀もいれば君たちと同年代の刀もいるだろう? 彼らならそれほど気構える必要はないさ」
金辰は少し躊躇いがちに語り出した。
「我らは正直、自分たちの立場がよくわからないのです」
「立場?」
「我らが在ったのは山奥の小さな藩だ。それでも徳川に近く、殿様は徳川を慕っておられた。だから、ご一新のときも我らは徳川方に付くものと思った。だが、山奥の外では我らが思うより早くに時代が動いていたのだ。気が付けば城下は旧幕府軍の手で焼かれていた」
僕は黙って金辰の話に耳を傾ける。
「我らは一介の藩士の刀だ。ただ、そう在るように望まれたままに生き、自ら政に目を向けることもなかった故、刀剣男士の方々の中に入るのにはまだ気が引けてしまう」
金辰はそういうと顔を上げた。
「ですが、そう言っていては主のお役には立てませぬ。みなさまとどう向き合えばよいのか、もう少し考えてみたいのだ」
皆と打ち解け、当番もしっかり務めていたのを目にしていた僕は、少し驚いた。そんなことを考えていたと思い至らなかったからだ。
「宗一は強い。真っ直ぐで、御手杵殿と打ち解けたのか最近はよく一緒に過ごしているようで。それで、このようなお願いは先程の言葉とは矛盾するのですが――」
金辰が改めて頭を下げる。
「どうか、偶にでよいので宗一の茶に呼ばれて遣ってはもらえないだろうか」
「そんな、改めて頭を下げられるほどの――」
「我らが刀剣の中でどのように振る舞うべきか考えあぐねる一方で、青江殿、貴殿には迷いなく我らが報いる義があるのです」
「そんな大袈裟なことを、僕がしたかな」
「妹の、弓の命を助けて下さった。これは我らが此処へやってきて、この姿を得て、確かに知りうる大切なことなのです。歴史上の立場や刀としての優劣に関わらず、貴方は我らの恩人である。それが我らがこの身を得て最初に結んだ縁。それは揺るがないからこそ、貴殿に対しては我らは惑うことなく対峙できるのです」
「そういうことなら……」
僕の中でゆるりと動き出したものが解けていくのがわかった。
「ここに集う皆、同じだよ。きっとね」
自分で口にしていながら、まるで金辰だけでなく自分にも言い聞かせるような気分だ。
「縁の強い刀同士が仲良く見えてしまうものだけど、僕らだって人の身を得たのは此処に来てからだ。主が本丸を構えたのが春だからね。皆、此処へ来てからこれまでの縁とは別に新しい縁を結んでいるはずだよね……確かに刀として共に在った日々が長いものもいるけど」
すべてを覚えている刀ばかりじゃない。人の身を得て初めて出会う刀もいる。
「それを言ったら、君たちは主の直臣であり、主の先祖に仕えていたと言う事実。それは如何に僕らが望んでもなれるものじゃない。ある意味、羨望の的だよ」
僕は長谷部クンの苦虫を噛み潰したような顔を思い描いてつい笑いそうになる。
「ここから始めれば良い、ということなのでしょうか」
金辰が自分の掌を見詰め、固く握りしめた。
「きっと、そうだよ」
僕は僕で、自分の言葉をかみしめる。
「おーい!」
玄関の側から御手杵クンがこちらに向かって手を振っていた。
「探したぞー、青江」
駆け寄る御手杵クンの手には何やらギヤマンの壺があった。
「ほお、出来具合は如何かな。御手杵殿」
「まあ、こんなもんかな。これ、茶請けにしてちょっと休まないか? 青江に一番に食べてもらいたくてさ。でも俺も早く食べてみたいんだよー」
「僕はお毒味役なのかい?」
「いやっ、そうじゃなくて」
僕が揶揄うのを御手杵クンが真顔で遮る。
「青江が教えてくれたからさ、一番に報告したかったんだ。あ、宗一も一緒に、だけどな」
僕はまた不思議に思う。
「僕が何か作るとか、君に教えた覚えはないんだけどねえ……」
「ああ、これな」
御手杵クンが得意気に壺を掲げてみせてくる。
「青江がさ、俺は刺すことしかできないって言ったら、できないじゃなくてできることを探せばいいんじゃないかって言ったんだよ」
「僕が? そんなこと言ったかなあ……」
「あはは、言った言った」
御手杵クンの楽しそうな顔を見るのは悪くない。
「青江と離れて最初の内番でさ、摘果したとき思ったんだよ」
「なるほど、何かに利用できないか、と?」
金辰が壺を覗き込む。
「いや」
御手杵クンが真顔に戻る。
「喰わないの、もったいないな――って」
僕と金辰が顔を見合わせる。
「そのまま囓っても美味くなくてさ。で、じゃあどうしたら食べられるか考えてみた。宗一にも手伝ったもらって本を調べたりとかさ」
御手杵クンがまた得意気ににかーっと笑う。
「西洋風の漬物だー! 宗一が茶の準備をしてるからさ。茶の間、行こーぜ。金辰さんも!」
「御手杵さまー! お茶はおいくつご用意します?」
弓の娘が母屋の影からひょいと身を乗り出して手を振っている。その様子は無邪気な娘そのもので、神々しさとも荒々しさとも無縁に映った。
「今、そっち行く!」
御手杵クンはくるりと向きを変えて掛けだした。
「早く、来いよー?」
走りながらこちらを振り向き、御手杵が手招きする。
「今日こそは、一緒に茶を」
金辰の声は明るかった。
「行かないわけにはいかないねえ……」
僕らは並んで茶の間へ向かって歩いて行く。
「少しずつ、縁を紡いで参りますかな。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申す」
「なんの、こちらこそ」
刀の時代は刀の時代。僕が持つ物語。それとは別にここでの物語が動いていることを、僕はようやく理解したのかもしれない。
これからが楽しみだねえ。何故って、僕はもっと強くなる。そう思えるからさ。
僕らが歩く池のほとりには、見事な菖蒲の咲く一角が梅雨の晴れ間に輝いていた。
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ほとんどの作者の方は、「萌えた」の一言でも、好意的なコメントがあれば次作品への意欲や、モチベーションの向上につながります。
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