刀剣乱舞にっかり青江で文字書き中。創作審神者(♂)と弓箭女士がいる独自本丸+ときどき他所さまの本丸でにかさに。基本シリアスで独自本丸ものはファンタジー色強めになると思います。

遠い昔に一次創作していた文字書きで、2年前、黒バス伊月くんで突然二次創作に目覚めて創作活動をン十年ぶりに再開しましたが、こちらは当面とうらぶ専用。
#にっかり青江版創作60分一本勝負への投稿は今まで通りぷらいべったーですが、加筆修正したものを順次こちらで公開する予定です。

投稿日:2019年08月23日 01:10    文字数:29,860

刀剣弓箭譚 4 ー薬降るまでー

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とある男性審神者の本丸で出会った、にっかり青江と弓の娘の物語。
 石切丸の扱いが酷いと感じる方がいるかもしれません。が、基本的に本丸描写中ゲームとリンクする部分は筆者のプレイ歴を踏襲しています。ゲームで体験したことが素地になっておりますので他意はありません。
 このシリーズは長編を前提としているので、作中に初登場する刀についてはなるべく説明を加えるよういしています。審神者な読者にしてみれば蛇足かもしれません。今回、多くの刀が一堂に会して話し合いをしている場面なため、発言のある刀の説明が鬱陶しいとは思いますがご容赦ください。
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 僕は、夕餉を終えて皆がそれぞれの部屋で過ごす頃合いを見計らって厨へ向かった。母屋の刀影が疎らになったところで握り飯でも調達し、娘の様子を見てこようと思ったからだ。もし誰かに不審に思われたとして、言い訳を考えるにはたくさんの刀がいないほうがいいからね。もう日もすっかり暮れて辺りは闇に包まれているから、夜目の利かない大きな刀の目には付き難い……はずだったのだけど、厨に近付くに連れ、何やら母屋が騒がしいことに気付く。いつもならこの時間、厨を含め母屋はひっそりしているはずだ。今夜は宴席も予定もなかったよなあ、などと思い巡らせながら進むが、ふと鼻を掠めた血の匂いにハッとして、僕は脱兎の如く駆けだした。直後、小さな影が暗がりの中を一目散に駆けてくる。
「誰かー! 手を貸してくださーい!」
 まるで小天狗の如く一本歯の下駄で地を蹴ってくるのは今剣、源義経の守り刀だという短刀だ。
「あ、にっかりさん! 早く通用口に……僕は大きな刀を呼んできます!」
 立ち止まることなく風のように僕の脇を過ぎながら叫ぶ今剣の、そのただならぬ様子に僕は通用口へと急いだ。
「誰か、手を貸してくれないか! 俺だけでは運びきれん」
「ちょ、ちょっとこの傷、どういうこと!? やっぱり薬研、呼んでこないと」
 母屋を抜けた勝手口では今まで僕が見たことのない光景が広がっていた。夕餉のあとに大阪城の地下探索へ出陣していた部隊の隊員を介抱しながら、駆けつけた刀たちに指示しているのは蜂須賀だ。その蜂須賀も傷を負っている。竈番で厨にいた乱藤四郎が蜂須賀を助けながら今剣を庫院へと走らせ、手当に奔走している。でも一体どうしたことだ。今までも重傷者が出て途中で帰還することはあった。でも今、僕が目にしているのはこれまでの損害とは比べものにならない。一部隊のほぼ全員が負傷。それも決して軽い怪我ではない。この夜の出陣先は大阪城深部、遡行軍も地上近くと異なり強力で、編成は太刀や大太刀が主力だ。短刀や脇差といった機動や身軽さを武器とする僕らと違って、彼ら太刀や大太刀の攻撃はひとつひとつが重く、力強い。だが、その力と引き換えなのか、一度傷を負うとその手入れに掛かる時間は僕らの比ではない。でも調査が主な責務となっている主の元に集っている僕らの出陣先は、比較的戦力の余裕を持たせて選定される。負傷し帰還することがあっても、傷の重い刀から順に手入れに入り、手入れ部屋が空くのを待つのは軽傷であることがほとんどだ。こんなに重傷者が出ては、手入れ部屋へ入るまでどれだけ待つことになるのか想像もつかない。通用口の札によれば、空いている手入れ部屋はひとつ。蜂須賀が介抱している刀が一番危険な状態なのは一目でわかる。
「蜂須賀、彼をすぐに手入れ部屋にーー」
 そう口にしてから僕は気が付いた。そんなことはその場にいる誰もが言わずとも明らかなことだったのだ。皆、わかっていても手を貸す余力はない。そして、自力で立つこともできないほどの傷を負った刀は、手入れ部屋へ運ぼうにも脇差である僕には手に余ることを。
 僕はただ立ち尽くし、今剣が大きな刀を連れてくるのを待つしかなかった。
 庫院から集まった刀で、通用口は一時騒然とした。間の悪いことに、主は昼間僕らと会話を交わした後、仕事で現世へ出掛けたまま不在。それでも初期刀である蜂須賀は落ち着いて行動していた。落ち着いたというのは正しくないかもしれない。自身も傷を負っている。主が不在の今、この本丸の秩序を保つために蜂須賀は努めて冷静であろうとしているように僕には見えた。それでも、いつも身なりに気を配り、塵一つ纏うことも許さないような蜂須賀の血塗れの装束も自身の傷も厭わず立ち振る舞う姿は気高く美しいとさえ思えた。ああ、彼もやはり刀なのだな。そんなことを思いながら僕は駆けつけた薬研を手伝っていた。
 一通りの応急手当が済んだところで、蜂須賀が集まっている皆に告げた。
「明日の午後には今の出陣先は閉ざされて、また異なる時代の大阪城地下に進軍が始まる。短刀は庫院に戻り、明日の夜の出陣に備えよく休んでくれ。脇差も同様だ。打刀以上で下層部への出陣要件を満たしている刀剣は茶の間に集まってくれ。次の大阪城深部攻略について話し合いたい」
 誰もが蜂須賀の指示を受け入れ、それぞれの役目を果たすべく足早に通用口から立ち去ったが、僕はしばらくその場に留まっていた。
「君は戻らないのか」
 皆の様子を見守っていた蜂須賀が僕に気付き声を掛ける。
「僕は脇差だからね、本来なら明日に備え庫院へ戻るべきなんだろうけど……様子を知っておきたいんだ。すぐに戦力にはなれなくてもね。それに僕はもともと宵っ張りだから、まだ休むには早いんだ」
 蜂須賀は少し考え込んでから、いつものように柔らかな笑みを返した。
「それじゃあ、君の偵察能力から何か思うところがあれば遠慮なく発言してくれ。いずれ手を貸してもらうことにだってなるだろうから」
 そう言うと、蜂須賀はそのまま茶の間へと歩き出した。僕は何も言わず、ただ頷いて蜂須賀の後に続いた。
 主不在の集いとは言え、身なりにうるさい蜂須賀が手入れも受けずにその姿のまま皆を集めて軍議なんて、今までならちょっと考えられない光景だ。そういえば、今夜の部隊長は蜂須賀だったんだっけ。気を張っていても隠しきれるものじゃない。毅然としたその背中にはわずかに疲れが見て取れる。それだけの出来事だったということか。
 この本丸は通常の戦闘を他の本丸同様行うものの、調査任務も同時に担う事情がある。斥候というより、戦闘がある程度収束してから歴史改変の有無や後世への影響に関する調査が多いから、既に別本丸の部隊の戦闘報告に基づき僕らの部隊が編成される。だから今までは僕らの手に余るとわかりきっている戦地へ赴くことはまずなかった。それはつまり、僕らの本丸は負け戦というものをあまり経験したことがなかったということに繋がる。もちろんそれでも出陣先で負傷はするし、重傷と引き換えに戦果を得ることだって度々あった。ただ、負傷者が続出して進軍を諦めざるを得ない状況下で撤退を余儀なくされたのは、これがこの本丸始まって以来、初めてのことだった。
 大阪城「地下に眠る千両箱・易」と名付けられたこの作戦、一週ごとに異なる時代の大阪城に出陣するのだが(それが日付程度の違いなのか時代そのものが異なるのか、詳しいことは主にもわからないらしい)、易とあるもののなかなか手強い。この春、発足したばかりの本丸の僕らには手に余る相手だった。(ああ、でも戦闘に特化した本丸なら練度も僕らより遙かに高いからそれほど苦戦していないらしいけどね。)この任務はすべての本丸への通達されているが出陣義務はない。ただ、今回はその名を冠した千両箱の他に、城内地下の敵を一掃することで、一定の練度に達した短刀に新たな力を与えるための道具が無償で提供されると政府から通達があり、この本丸も来るべきときに備えるため任務の完遂を目標にしていた。そして先週は何度か戦略的撤退を余儀なくされつつも、なんとかすべての敵を排除することができた。だが、今週、僕たちに立ちはだかったのは最下層まであとふたつに迫った階の遡行軍だ。それも本陣にまだ辿り着く前の。先週の出陣では交代で手入れをしながらもなんとか退けることができ、本陣へと進軍することができた。だが今回は、敵の本陣へ辿り着くまでに複数の刀が重傷を負い、やむを得ず撤退することを繰り返していたらしい。そもそも大阪城の調査自体は初めてではない。既に一度経験していたがここまで苦戦したとは記憶していない。敵も僕らを攻略すべく研究してきているということだろうか。
 大阪城地下深くの戦場を僕は知らない。出陣し始めた頃は僕もよく出陣していた。でも最下層に近づくにつれ敵は力でねじ伏せる傾向を強めてきた。だから練度が高いとはいえ短刀や脇差では深手を負うか押し負けて戦線から離脱せざる得なくなる。その結果、深くなればなるほど太刀や大太刀といったこの本丸では後発の刀が出陣するようになっていく。それは前回も同様ではあったけど、それでもなんとか凌げた。この本丸に初めて加わった大太刀である蛍丸はそれなりの練度に達しているから軽傷程度で踏み留まっているが、石切丸と太郎太刀はどうしても遅れを取りがちだ。それはこの本丸に顕現した順番なのだから仕方がないことだ。もちろん打撃向上に特化して育成する方針だってあったろうし、そうしている本丸もある。でも主はそうはしなかった。それぞれに得意な戦い方が在るとして出陣させる刀種を偏らせることなく、どの刀もなるべく等しく戦場で経験を積めるようにしていた。そして、稼働して半年にも満たないこの本丸において、練度が高いのは初期から顕現していた短刀や脇差、そして打刀に偏りがちだ。立ち上げ時に政府から支給された太刀もいるが、一部隊を編成するには太刀、大太刀の練度のばらつきがありすぎた。
そもそもこの本丸は、基本的に戦闘は他の本丸同様行うものの、調査任務も同時に担う事情がある。斥候というより、戦闘がある程度収束してから歴史改変の有無や後世への影響に関する調査が多いから、既に別本丸の部隊の戦闘報告に基づき僕らの部隊が編成される。だから今までは僕らの手に余るとわかりきっている戦地へ赴くことはまずなかった。それはつまり、僕らの本丸は負け戦というものをあまり経験したことがなかったということに繋がる。もちろんそれでも出陣先で負傷はするし、重傷と引き換えに戦果を得ることだって度々あった。ただ、負傷者が続出して進軍を諦めざるを得ない状況下で撤退を余儀なくされたのは、これがこの本丸始まって以来、初めてのことだったのだ。もちろん撤退したことは数知れない。でもそれは進軍するか撤退するか検討の末に部隊長が選択したことであって、今回のように刀剣破壊を防ぐために撤退せざるを得ないようなことはなかったのだ。
 太刀、大太刀が座す茶の間の囲炉裏端はなかなかの迫力だ。それを囲むようにして打刀が後方に控えている。 茶の間の明かりが漏れる土間で蜂須賀が一度立ち止まる。呼吸をひとつ置いて表情を引き締めると、蜂須賀は茶の間の明かりの中へと進んでいった。僕は茶の間には上がらず、入り口の土間の壁にもたれて全体を見渡していた。茶の間の空気は重い。母屋の中で僕らが一堂に会すことができるのは大広間だが、そこは主と主に仕える僕らが対面するための場だ。だから主が不在の際に勝手に使っていいような空間ではない、だから茶の間に集まってもらったと蜂須賀は言う。茶の間といっても囲炉裏を中心にかなりの広さがあり、隣り合う部屋の襖を取り払えば全員が会するのに問題はない。まあ、実際には全員というのは正確ではない。部隊の中で最も痛手を被った石切丸は、駆けつけた刀たちの手であれからすぐに手入れ部屋へと運ばれた。残りの負傷者は手入れ部屋が空き次第すぐに手入れに向かえるよう奥の戸口近くに集まって座している。手入れに時間が掛かる刀がこうも立て続けに負傷し、重傷者が茶の間で手当を受けながら手入れ部屋が空くのを待つ姿は僕らにかつてない焦りを容赦なく突きつけた。
「皆、夜も遅いのに集まってくれてありがとう」
 いつもの少し堅さを含んだ張りのある蜂須賀の声が茶の間に響き、軍議が始まった。まず蜂須賀が今夜の大阪城での進軍状況を報告し、それからこの状況をどうするか皆に意見を求めたが主不在の軍議はいつになく紛糾した。もちろん主を非難するような声は上がらなかったが、戦力の拡充、育成方針については様々な意見が上がった。曰く、出陣する機会を均等にするより練度の低い刀を優先的に出陣させて練度を揃えるべきではないかとか、刀種別に優先育成枠を設けてはどうかとか。主が僕らに優劣を付けることを躊躇うのであれば自分達で決めて進言すればいいのではないかという声も上がった。でも、これからの方針についての提案はいくらでも出たが、今夜の戦場を突破する妙案は遂に出ることはなく、いつしか茶の間は沈黙に包まれた。
「私が……私がもう少し皆さんのお役に立てる練度だったら」
 囲炉裏に掛かる鉄瓶の中で湯が沸く音だけが響く中、太郎太刀がふと小さく口にした。
「太郎太刀、それは違う。お前は持てる力を十分に発揮しこの大阪城でも貢献している。戦果もあげているじゃないか」
 打刀の中で現在も出陣部隊の交代要員に名を連ねている長谷部クンが静かに告げる。
「そうだよ、僕らだけじゃここまで進軍できなかった。それは太郎太刀だってわかるだろう?」
「ですが……」
 透かさず続いた燭台切クンの言葉にも太郎太刀の歯切れは悪い。燭台切クンはこの本丸古参の太刀の一振だ。この大阪城でも頻繁に出陣しているから、太郎太刀の働きも実際に目に為ている。
 ひとり神妙ながらも涼しい顔をしているのは蛍丸、この本丸が最初に得た大太刀だ。なんでもこぼれた刃を蛍が集まって直したという伝説からその名が付いたそうだが、愛くるしい見た目に反してその打撃力はえげつない。その蛍丸を戦場で見つけてきたのが燭台切クン、燭台切光忠だ。長船派が祖、光忠による太刀。元の持ち主である伊達政宗の面影を宿したその彼が、重傷を引き換えに蛍丸をこの本丸へと連れて帰ってきた。それからほどなくして石切丸がやってきた。長いこと神社に居て病魔を切り伏せてほしいと願う人に接してきたから、遡行軍のような存在を相手にその刃を向けることには慣れないとよく言っているらしい。そうは言ってもその破壊力は蛍丸にも引けを取らない威力だと聞いているけどね。刀の在り方にもいろいろあるらしい。そして三番目にやってきた太郎太刀も長いことご祭神をしていた刀だ。人が扱えるとは思えないほどのその刀身故、人以外のものを斬るために作られたのかもしれない。ある意味、文字通り神々のための刀なのかもしれない。僕の遠縁とも言われている。僕の縁者って何気に神社に奉納されてたりするんだよ。実戦刀として歩んできた僕は、それはそれで充実した刃生だったと思ってるけどね。まあ、そういう見方をされることも多い派閥なんだよ、青江派ってさ。蛍丸がやってきてほどなくして石切丸、太郎太刀と立て続きに大太刀がやってきたから、大太刀の間ではそれほど練度に開きがあるわけじゃあない。でも……。
 力及ばず撤退したことに忸怩たる思いがあるのは大太刀だけじゃない。比較的早くから顕現していた打刀も同様だ。本来なら暗く狭い地下で有利なのは短刀、脇差。そして比較的動き回れて僕らより打撃力があるの打刀だ。それに後発の太刀や大太刀と比べれば練度は高い。でも、先手で打ち損じたとき相手の反撃を躱しきれずに負傷する率が高く、実際に大阪城深部に出陣の交代要員に名を連ねることができる打刀は限られている。練度が高いことで満たされていた打刀の自尊心に影が落ち始めていた。もっと自分たちが強ければ、強くなっていたなら、と。本丸内で最も練度が高い刀種なはずの短刀、脇差もそれは同じ……いや、それ以上に堪えてる。暗がり、ほぼ室内戦に等しい得意なはずの条件下にも関わらず活躍できないのだからね。
「これまでのことを否定しても始まらないよ。今までがあって、これからどうするかを話し合いたい」
 様々な思いが交錯しざわつき始めた茶の間だが、蜂須賀の声がそれを制した。練度のばらつきについては今までにも幾度となく主と話し合い結論は出ているのだそうだ。それに、今からではどうあがいても一日二日で上げられる太刀や大太刀の練度はたかが知れている。であれば、次の時代の大阪城で同等の強さの敵を相手にどう戦えばいいのか。重苦しい静寂が茶の間を覆う中、蜂須賀は続けた。
「皆が動揺するのはわかる。だが、それもわかった上で主は今まで皆に均等に出陣する機会を与えてくださっていたんだ。俺が皆に集まってもらったのはこれまでのことを後悔するためじゃない。大阪城地下への出陣は明日また一から始まる。次に最深部に到達するまでに何をすべきか、それを考えてもらうためだ」
 その言葉に和泉守兼定が声を絞り出す。
「んだよ……今の時代は本当にもう諦めるのかよ。次の時代に移動するまでまだ半日残ってるじゃねーか……なあ、どうにかして突破する方法をーー」
「和泉守。手入れのための資材ももうぎりぎりなんだ。この本丸の寿命を縮めるような無理な進軍はしない。これは常に主が口にしていることだ。皆もわかっているだろう。確かに、俺たちも政府からの出陣要請には応えなければならない。だが、主には何より優先させるべき調査任務がある。その指令にいつ、どんな時代にも対応できるよう備えておく必要がある。だからこそ、どの刀種も分け隔てなく育成し、負傷者を極力出さずにすぐ出陣できる体制を維持しているんだ。主力の半数以上を手入れ部屋待機に回すつもりか。調査要請はいつくるか主にもわからないんだぞ。それでも今夜、出陣を強行しようとする刀があればまずこの俺をこの場で説得しろ」
 静まりかえった茶の間で、囲炉裏の炭がぱち、と小さく爆ぜた。毅然と居並ぶ刀を見渡す蜂須賀の表情は硬いが、それ以上言い返す刀はいなかった。和泉守兼定、新撰組土方歳三の愛刀として後の世にも伝わる刀。若いよねえ、まっすぐで文字通り情熱迸るって感じだ。蜂須賀とはずいぶんと雰囲気が違う。そこに長谷部クンが割って入った。
「確かに、このままでは政府が準備した大阪城の報償はひとつ諦めざるを得ない。だが、まだもうひとつ残っている。三つのうち二つを確実に手に入れるために何をすべきか話し合うのだ。不服か?」
有無を言わせぬ圧がある。長谷部クンはいつもこうだ。でも、意外にも長谷部クンが単独でそういう態度を取ることは滅多にない。初期刀である蜂須賀が話を進めやすいようにわざと斬り捨てるような口調を取るんだよね。
「いや、別に主に背こうなんて了見じゃあねえよ……」
 和泉守が頭を掻きながら口ごもる。端から見ていて、蜂須賀はこの本丸全体を取り仕切りっているけど、長谷部クンは軍議に関わる割合が多い。蜂須賀が政治的な表向きの役割を担っているなら、長谷部クンは……そう、参謀とでも言うべき立場のように見える。表面的には蜂須賀を差し置いて口を挟むような印象を受けるけど、実は蜂須賀が進めやすいようにその場を軌道修正したり、とかね。
「俺たちの主は、功を急ぎ分不相応な戦場へ俺たちを追い立てたりはしない。それは、繰り返しになるが、主が調査という任を担っているからに他ならない。そして俺たちはそれらに対して成果を出してきた自負がある。だが、今回のように戦闘に特化している本来の本丸業務にも携わる以上、今までと同じでは遅かれ早かれいつか行き詰まるだろう」
 先ほどとは打って変わって、蜂須賀の穏やかな張りのある声が茶の間に広がった。それはまるで自分に言い聞かせるかのような口ぶりでもあり、同時に主への揺るぎない信頼に裏打ちされた故に導き出された決意でもあったのだろう。その蜂須賀の言葉に長谷部クンが続く。
「そのことに、こんなに早くに気付くことができて、戦略を練り直す機会を得たんだ。俺たちは幸運だと、そうは思えないか?」
「確かに、闇雲に突進するだけじゃ能がねえ……くそっ、もっと強くなりてえな」
 諭すような長谷部クンの言葉を継いで和泉守が零したのは小さな呟きだったが、それをきっかけにここに集っている男士たちが次々と声を上げ始めた。練度を上げる戦略だけでなく、負傷者が出ても進軍に支障を来さないように潤沢に資源や手伝い札を備蓄するための目標だとか、具体策が続々と堰を切ったように挙げられていった。要は資源や手伝い札が有り余るほどあれば、運悪く負傷しても瞬時に手入れを終えて出陣できるからね。戦略上、最下層部に出陣できない刀であっても、資源や札のための遠征でこの戦を支えることが可能だ。主力部隊には配属されない刀たちにも役割に応じて練度を上げようと、具体的な目標が定まってくるに従い、再びこの場に集った皆の士気が高まってきた。それまでどちらかといえば余力を残し切羽詰まっていなかったこの本丸に、いい意味で緊張感が生まれた夜だった。これからいくらでも強い敵に遭遇することはあるだろう。そんなときにもこうやって乗り越えてみせるとでもいうような熱気に辺りは包まれていた。その中心にいる蜂須賀も肩の荷を少しだけ下ろせたように見えた。
「皆、こんなに遅くまでありがとう。主が不在にも関わらず、俺の招集に応えてくれて心から感謝する。今夜、皆からあった提案は明日、改めて主に進言するとして、より具体的な計画についても短刀、脇差も交えて明日に行うことにしよう」
 自らも負傷し戦装束に乱れが残るにも関わらず、蜂須賀の姿はいつも以上に凜々しく毅然と輝いて見えた。その蜂須賀が立ち上ろうとしたとき、僕は茶の間の向かいに大きな影が揺れる気配を感じた。いや、しばらく前からそこ居ることには気付いていたんだ。中の様子を窺うも、中へ踏み出すのは躊躇われて、何度も行きつ戻りつしていた影。
「石切丸」
 立ち上がった蜂須賀の次の言葉を待つために皆が静まりかえっている隙を突いて、僕は声を落としつつも部屋にいる皆に届くだけの声量でその名を呼んだ。皆の視線が一斉に開け放たれた引き戸の先へと注がれる。戻ろうとしていたのだろうか、静かに揺れたその影はしばし逡巡した後に、こちらへとその一歩を踏み出した。
「話がまとまったところで口を挟むのはどうかと思って……声を掛けそびれてしまってね」
皆の視線が一斉に石切丸に注がれる。手入れ途中で部屋から出てきたのだろうその姿は痛々しい。
「まだ手入れが終わっていないじゃないか。大阪城のことで急ぎ伝えることでもあったのかい? ああ、まだ酷い傷だ。手を貸そう、すぐに手入れ部屋へーー」
 蜂須賀が慌てて石切丸のほうへ足を踏み出したのと同時に、やおら石切丸がその場に膝をつくと両手を揃えて頭を垂れた。その流れるような所作とは裏腹に、ぴりりと張り詰めた気配に目を見張る。普段は実に穏やかな印象の石切丸だけに意外だ。まあ、一緒に出陣したことのある刀から、その打撃力の凄まじさは日頃の石切丸からは想像できないよと聞いたことがあるから、案外これが彼本来の姿なのかもしれないなどと思ったりもした。石切丸が顔を上げて蜂須賀を見た。水を打ったかのように茶の間が静まりかえった。ただじっと張り詰めたその面持ちは、これから口を出ようとしている言葉が正しく音となるまでを待たざるを得ないもどかしさと、口にすべきかどうか逡巡しているような躊躇いとが交差していた。
「蜂須賀虎徹よ」
 石切丸が蜂須賀に向かって躙り出ると、改めて両の拳を膝脇に突き深々と頭を下げた。
「どうかもう一度、今夜もう一度出陣させてほしい」
 瞬く間にざわめきが茶の間に広がった。
「私がいた手入れ部屋にも、ここでの話し合いの声は届いていたよ。どのような結論がでたのかも知っている。けれどね、先週は最深部まで進軍できたんだ。まだ諦めるべきじゃあない。わたしは居ても立ってもいられなくてね、途中で手入れ部屋を飛び出したんだ」
「石切丸」
 蜂須賀は立ったまま目を閉じて天井を仰いだ。
「確かに先週も同じ階層で苦戦し、そして俺たちは接戦を制した。だが、今回はより深手を負って撤退している。石切丸、君だけじゃない。他の刀もだ。今夜、最深部を目前にして、早々に切り上げざるを得なかったのは、重傷を負ったことが理由じゃない。次々と負傷する刀に手入れが追いつかなくなったからだ」
「それはわかっているよ。だが、出陣先が改められるまでまだ半日もある。中傷の刀ならもう一度出陣するのに手入れをしても間に合うだろう」
 蜂須賀が首を振るが、石切丸は続ける。
「わたしはね、ずっと人の願いを聞いてきたんだ。病魔を斬り、人の喜ぶ顔を見るのが何よりの励みだったんだよ。ただ、あの頃のわたしはただ人がわたしの元を訪れるのを待つことしかできなかった。もっと言えば、病魔を斬ることができないことだって……でも、今は違う。短刀に新たな力を授けられるかどうかが掛かっているんだよ。お願いだ。どうかもう一度、もう一度だけわたしを出陣させて欲しい」
 石切丸が手を突き深々と頭を下げる。蜂須賀は小さく息を吐いた。ぴりり、と場の雰囲気が揺れる。ああ、蜂須賀のそれは溜息ではなく自分を制するために吐く一呼吸なのだけど、ちょっとわかりにくいんだよね。いつの間にか強く握りしめられた石切丸の拳が小刻みに震えている。一方の蜂須賀は俯きがちに目を閉じて何かを考えているようだった。しばしの沈黙の後、石切丸が声を絞り出す。
「わたしが不甲斐ないせいで進軍を止めてしまうなどあってはいけないよ。主が我々を大切に扱ってくれているのはよくわかる。だから、なおのこと主が言い出せないのであれば、私は自ら進んで出陣しようと思ったんだ。重傷と引き換えに報償を賜れるなら、わたしは何度でも出陣する。ただ傍に仕えるだけでは主の願いを叶えてはやれないだろう。政府からの通達では敵の強さは先週と同じだと言うじゃないか。だからもう一度、わたしを出陣させてほしい。わたしは主に願うことを躊躇わせたくない」
 その言葉を聞くや蜂須賀は何かに打たれたかのように勢いよく頭を振り上げた。開かれたその瞳には怒りとも悲しみともつかない何かが満ちていた。蜂須賀はその目で石切丸を一瞥するが、唇を引き結び何も言わずに視線を足元に落とした。
「主のため、か。だが、それは自惚れだ」
 蜂須賀のその小さな呟きに、茶の間は水を打ったように静まりかえった。蜂須賀は部屋に集う刀たちを一通り見渡してから、いつものように声を張り上げた。
「今夜、皆と話し合った通り、今回の撤退は誰かの失策でも弱さでもない。これはーー」
「お願いだ、蜂須賀。先週のように戦えればーー」
「初期刀の言葉を遮るな、石切丸」
 長谷部クンが低い声で石切丸の言葉を遮った。温厚な石切丸が食い下ったのも珍しいが、長谷部クンが特定の男士をこんな風に制するのは実は稀だ。いや、いつも怒鳴っているような印象を持たれてはいるけど、怒りというより呆れついでに怒鳴る場面が多いから、こんな風に静かに言い切られると逆に怖い。蜂須賀が目立たぬよう深く息を吸い、改めて口を開いた。
「もう一度言う。今回の撤退、俺たちの練度、資材や札の備蓄、いずれも主の計画に従い滞りなく進めていたにも関わらず起きてしまったことだ。誰が悪いわけでもない。これがーー」
 蜂須賀の言葉が途切れたが、誰しもが無言でその続きを待っている。蜂須賀の拳に力が入ったのがわかる。それから、囲炉裏の鉄瓶から立ち上る湯気を見上げるように天井を仰いで瞼を閉じると、苦しそうに声を絞り出した。
「これが今の俺たち――この本丸の実力なんだ」
 異論は認めない。そんな強さを秘めた蜂須賀の言葉は、まるで納得がいかない自分自身に言い聞かせているかのようだった。石切丸がハッとして蜂須賀を見上げたが、何も言い返すことなく項垂れた。その表情は僕のところからは窺うことができない。
 蜂須賀は大股で茶の間を横切って出口に向かったが、石切丸の脇を行き過ぎたところで立ち止まった。皆、無言で二刀を見守っていた。
「もう一度の出陣、勝算はあるのか」
 蜂須賀の声は小さかったが、遮るものがないせいかはっきりと聞こえている。石切丸が何か応えたようだけど、床板に向かって零れたその言葉は僕のところまでは届かない。
「そうか……空手形を振り出すのなら認めるつもりはなかったんだが……主から預かっている手伝い札がある。使うかどうかは私に任せると言われている」
 皆が固唾を呑んで見守る中、蜂須賀は出口を向かったまま声を張り上げた。
「石切丸は手伝い札を使いすぐに手入れを終わらせろ」
 それから茶の間に向き直り、その場の全員へ宣言した。
「今夜の話し合いについては明日、主が戻り次第すべて報告し今後の方針を正式に決定する。その上で、これからもう一度だけ大阪城へ出陣する。但し、三振負傷者が出た時点で即、撤退する。たとえそれが軽傷でも、だ。これに関しては異論は認めない。俺の裁量で使える手伝い札はあと二枚ある。手入れがまだでも構わない。出陣を希望する刀はこのまま第一部隊待機部屋へ集合してくれ」
 そう告げると、蜂須賀はもう振り向くことなくそのまま部屋を出て行った。
「んだよ、手伝い札が残ってんなら……最初っからもう一度だけは出陣できるって言やあよかったじゃねーかよ……」
 蜂須賀の背中に向かって和泉守が拗ねてみせた。
「まあそう言うな」
 労るような口調で、長谷部クンがぽんと和泉守の背を叩く。
「そうそう、彼は彼で、ここに居る誰かさんとは違った意味で馴れ合わないようにいつも気を遣っているんだよ。札を使うにしても彼の判断でしていいものか迷っていたんだろうしね」
 燭台切がそう言いながら彼の隣で無表情を貫いている打刀をちらりと見る。その腕に倶利伽羅竜を従えている彼は、燭台切と同じく伊達家伝来の刀だ。
「お前たちの言うとおりだ」
 穏やかな声が茶の間の後ろのほうから聞こえてきた。三日月宗近だ。打ち除けがまるで三日月のように並ぶことから三日月と称されるその刀は、美しさもさることながら天下五剣たる堂々の風格を称えながらも、打たれた時代が古いだけに自ら「じじい」を名乗っている。普段、本丸で見かける三日月は、その美しさに似合わず好々爺然と振る舞っているが、なんだ、じじいが聞いて呆れるよ。その堂々たる佇まいは文句なしに「筆頭」だ。僕はこれまで三日月と一緒に出陣したことがなかった。それとなく感じてはいたが、実際に目の当たりにすると格の違いを感じずにはいられない。まあ、格といってもそれはあくまで人の世の話で、ここでは僕らが何かしら引け目を感じる類いのものとは違うんだけどね。
「初期刀たる蜂須賀の言葉は決して軽くはないぞ。悪く取るな。何しろーー」
 三日月は中央に進み出ながら続ける。
「自ら負傷し、撤退を余儀なくされる。それを本丸で最初に経験するのが初期刀だ。それも」
 三日月は部屋を出るべく石切丸が座す側へと向かう。そしてひらりと装束を翻しこちらを向くと、部屋に残る面々に諭すように語りかけた。
「本丸に顕現し、こんのすけに促されるまま武勲を立てるべくただひとり勇んで出陣するも、為す術もなく破れ帰還し、主の前で敗戦の報告をせねばならない。その任を担うのが初期刀、則ちこの本丸では蜂須賀虎徹なのだ」
 僕たちに向けられたのは慈愛に満ちた笑みを湛えているようで、決して真意を露わにしない、そんなまなざしだった。
「さて、俺も第一部隊待機部屋へと向かうかな。給料分は働かないとここに置いてもらえなくなるかもしれないからな。はっはっは……」
 踵を返した三日月は、よく聞こえなかったが去り際には石切丸に声を掛け、共に部屋を出て行った。和泉守と燭台切、大倶利伽羅もその後を追った。気が付けば茶の間は閑散としていた。何故か僕の隣で長谷部クンが不機嫌そうに足を投げ出し座っている。
「言ってることはもっともだが、相変わらず食えないじじいだ」
 そう呟く長谷部クンに僕は驚いた。何故って、長谷部クンなら真っ先に待機部屋に向かっていると思うじゃないか。
「食えない、って……君にそんな趣味があったとは知らなかったなあ」
「喩えだ、喩え」
 言い返す長谷部クンにいつもの勢いがない。
「どうかしたのかい? いつもの君なら真っ先に、というか蜂須賀より先に待機部屋に向かってそうだけど」
 僕は思わず長谷部クンに尋ねた。
「お前が含みのある物言いとしないということは、よほど驚いているんだろうな」
 長谷部クンが自嘲気味に笑った。僕だって、常に長谷部クンのこと揶揄うわけじゃあないよ。でも僕は反論せず、黙って長谷部クンの言葉を待った。
「今回の大阪城は……三十八階層目の遡行軍は先制すれば勝てる、という相手ではない。一撃で倒せなければ、致命的な反撃を食らう」
 長谷部クンは後ろに手を突き天井を仰いだ。
「俺は刀装をふたつしか持てないからな」
 僕たちは人の身を得て、本来の姿である刀を手に戦う。だがこの容れ物を使うには人が設けた制限が伴う。今、長谷部クンが言った刀装もそのひとつだ。あらかじめ設けられた僕らの能力を補う道具。だが刀によって戦場に持参できる数が違う。僕はひとつ、長谷部クンはふたつだ。ちなみに三日月は三つ持っていくことができる。多く持っていけばいいってもんじゃないけどさ、僕らに得意不得意があるように戦場に応じて適材適所ってものがあるからね。今夜の戦いで必要とされているのは文字通り「力」であり、その上乗せ分である刀装を多く持てる刀のほうが有利なのだ。
「全く以て冷静な見立てだね」
 蜂須賀の言うとおりだよ。己の力を冷静に判断、分析して挑まなければ確実な戦果は得られない。
「でもわからないなあ。実際、主の指示は可能な限り進軍はすれども無理はするな、だろう? 最下層到達の報償だってそれほど重視していないって聞いていたし。どうして頭を下げてまでもう一度戦おうとするんだろうね。それに、なんで蜂須賀はもう一度出陣するなんて言い出したんだろう。彼、最初は否定的だったじゃないか」
 僕の言葉に長谷部クンはいつものように怒ったり呆れたりはしなかった。
「お前、前に主から「人の欲」を学べと言われていたのだろう?」
「うん」
 長谷部クン、ちゃんと覚えてたんだ。
「そういうことなんだろう」
 長谷部クンの返事は実に曖昧だ。
「どういうことさ」
「お前が欲を知ったとき、それがわかるんだろうよ」
 僕にはぴんとこない。
「へえ……じゃ、長谷部クンは知ってるってことなのかい?」
 僕がそう聞くと長谷部クンはのそりと立ち上がった。
「どうかな。それを貫き通せるなら、今夜だって俺は出陣部隊に志願しただろうがな」
 そう言うと、長谷部クンは茶の間を出て行った。いつもみたいにお小言のひとつもないとなんか変な感じだ。
 日頃から、大きな刀たちには大きな刀たちなりの絆があることは感じていた。今夜ここに集っていた刀のうち、僕が一緒に戦地に赴いたことがあるのは長谷部クンを始めとする打刀だけだ。もちろん本丸で共に暮らしている以上、様々な当番で一緒になることはある。でもそこで見せるのは戦とは別の顔だ。推し量ることはできても本当のところはやはりわからないものだ。戦場での顔は別として、あんな長谷部クンを本丸の中で見たのは初めてだった。意気込みだけでは戦えないなんてわかりきったことだと思っていたけど、自由になる人の身を持つというのはなかなかやっかいなものらしい。欲ねぇ……主がそう望むのだから、身につけるべきなのだろうけど、僕にはまだよくわからない。
 さて、僕も自室に戻ろうかと立ち上がったときだ。柱の陰から僕を手招きする刀に気付く。御手杵クンだ。僕は残っている刀の目を避けるようにそっと御手杵クンのほうへと近付くと、御手杵クンは屈むようにして僕に尋ねた。
「なあ……なんか食いもん持って行くか?」
 すっかり忘れてた……わけじゃあない。御手杵クンが気にしているのは僕たちのように人の身を得たのに、主には見えないあの弓の娘だ。この騒ぎで抜け出す暇のないままもう夜中近くになってしまっていた。
「もう夜中だしねえ……あの娘が実際にはいくつなのかは知らないけど、まあ年頃の娘を訪ねるには憚られる時間かな」
「そうかあ? 腹が減るほうが大事じゃないか?」
 御手杵クンが真顔で尋ねてくる。本気で娘の腹具合の心配してるのはわかる。
「竈番以外にも手入れ部屋に出入りする刀がまだいるし……主に伝える前に皆に知られるのだけは避けたいしね」
「あー、確かに俺が動くと目立つよな……」
 御手杵クンががっくりと首を折る。
「役に立つって、難しいな」
 力なく笑う御手杵クンにいつものような快活さはなかった。そう、御手杵クンも発言こそしなかったけど今夜や茶の間で見せていた表情はいつも僕に見せているものとはちょっと違ったんだよね。本丸で雛鳥のように僕を追いかける御手杵クンではなくて……うん、やっぱり君は槍なんだなあと僕は思ったんだ。そろそろ本丸での生活についての教育係は卒業かな。
「まあ、君が目立つのは仕方ないさ。それが生かしてこその槍だろうからね。だから、ここは隠蔽値の高い僕に任せてよ」
 茶の間に満ちていたあの熱気はすっかり失せて静けさを取り戻していた。それでも竈番や手入れ部屋を出入りする刀が行き来している。僕は翌朝、何か食べるものを持って必ず様子を見に行くと御手杵クンに告げた。御手杵クンは娘の様子をちゃんと報告するよう僕に念を押し、ようやく自分の部屋へと戻っていった。
 さて、御手杵クンに任せてよと大見得を切ったからにはそれだけの働きはしないと僕の沽券に関わる。
 僕は翌朝の算段をつけてから自分の部屋に戻ったものの、眠りに落ちそうになるとあの娘の顔が浮かんでは現に引き戻されていた。あの娘が笑ってみせたその頬は、幾筋もの涙で濡れていた。泣くことを止めることができないほどなのに、あの娘は何故笑ってみせたのだろう。納得のいく理由が見つからないまま僕は朝まで天井を眺めていた。それでも夜は明ける。僕は娘への差し入れを調達しようと訪れた厨で、昨夜、大阪城へ出陣した部隊のその後を聞かされた。
 結局、あれから出陣した部隊は、挑んだ階層の本陣へ辿り着くことなく、重傷者を出し帰還した、と。[newpage]]
 早朝の鎮守の森は実に清々しい。石段を登り社の前まで来て僕ははたと首を捻った。あの娘、社で過ごすとは言ったけどまさか社殿の奥にいるのだろうか。初めてここで見たあの娘の姿を思い出す。あの娘、神が降り立ったと言うよりは、あれは神託を受けた巫女のようだった。そうだとするとここに祭られている神に仕える身で拝殿奥へ上がり込むことはないだろう。ならば社殿脇の社務所はどうかと目を向けるが、戸は閉まっていて中は窺い知れない。用心に鍵は掛けているが、たまに境内の掃除に来たりしていれば鍵の在り処はすぐにわかるようになっている。ちょっと探せばみつかるだろうし、なんとなくあの娘はこの社のことは既に知っているように思えて、ここで夜を明かしたのだと思えて仕方なかった。ただ、黙って押し入るのもねえ……。
 社務所に向かって歩いて行くと、ふと戸の前に木の実や果実が置かれているのが目に入った。偶然落ちたにしてはきれいにひと処にまとまっている。どうしてこんなところにと不思議に思っていると、一羽の鳥が目の前を横切り赤い実をそこへ落としそのまま飛び去った。まるでわざわざ運んできたみたいだと感じていると、今度はカサと草むらが揺れる。鹿がこちらの様子を窺っている。何か口に咥えているものがある。僕はあの晩のことを思い出す。あの夜、この里山に住む動物がここに集っていた。厳密には本丸の施設ではないこの場所は、本丸の時空と里との緩衝地帯のようなものだ。動物は自由に出入りできるが、こんなにも生き物の気配がこの山にあったろうか。どちらかというと僕は生き物から警戒されていた気がするのだけど。
 目を閉じて深く息を吸う。濃密な命の気配が肺に広がり、僕の全身を駆け巡った。ああ、そうか。あの晩、この山が総ていた数多の生命が僕らの時空に解き放たれたんだ……。突拍子もないことを思いついた自分に思わず苦笑いする。まあ、仕方ないよね。あんな光景を見ちゃったらこの山には僕の知らない何かが存在している、って思ってしまうだろう? 怪異には慣れている僕でもさ。
 僕は持ってきた握り飯の包みを木の実、果実の山の傍らに置いた。
「巫女姫へのお供えだよ。ちゃんと食べてくれるかな」
 誰にともなく小さく告げると、僕は社を後にした。石段を下りる僕の背中には、たくさんの生き物の視線が注がれていたけれど、僕は振り返ることなく本丸へと戻っていった。
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 昨晩の大阪城出陣について報告が行われた大広間は、主を前にたいそう重苦しい空気に包まれていた。何しろ主の命に背いたとまでは言わないが、無理な進軍は無用とする方針にも関わらず重ねて出陣した上、重傷者を出してその任を全うすることなく撤退したのだから。主が本丸に戻ったのは僕らが朝餉を済ませた頃だった。蜂須賀が事の一切を報告した後、主は昨晩の出陣部隊に加えすべての男士を広間に集めた。ただ一振、重傷を負い手入れ中の石切丸を除いて。 その場で主は改めて蜂須賀に昨晩の報告をさせた。軍議に参加していなかった短刀や脇差にも経緯を知っておいて欲しいからだ、と主自らが望んだことだ。そして報告後に主は改めてこの本丸では負傷してまで無理に進軍する必要はないと僕らに宣言した。この本丸の存在意義は一義的に他の本丸では為し得ない調査を遂行することであり、戦績は二義的である、と。それぞれの男士には刀として負っている歴史やその時代に生きた人間の願いがあり、誰が欠けても任務の遂行に支障がでる。だから必ず全員が折れることなく帰還すること。それがこの本丸の主の元に集い、戦う男士に課せられた使命なのだ。主はきっぱりと僕らにそう告げると、何かを考えるように目を伏せ口を閉ざしてしまった。重苦しい沈黙がしばし大広間を支配するが、僕ら刀剣男士は誰一振として自ら口を開くものはいなかった。
 どのくらい経ったろう。主の両の膝の上にあった手にぐっと力が入る。主は顔を上げ、しっかりと前を見据え僕らに改めて言い渡した。
「君達が武勲を上げるために日々努力を重ね、そして果敢に出陣してくれることに感謝する。そして、今回のことも僕は決して功名心に駆られて先走ったとは思っていない。だが、僕のためにその身を危険に晒すような真似は以後、慎んでくれ。僕は……君達がその存在を賭すに値しない」
 場の空気が戸惑いに揺らいだ。主は覚悟していたという表情でそれを見ると、場が落ち着くのを待って静かに口を開いた。
「僕は、審神者として必要な力を総て満たしてはいない。それでも政府が僕に審神者としての任を与えたのは、事務方だけでなく実行部隊にも歴史研究者が必要とされたからなんだ。僕より優秀な歴史学者なんて世の中にはたくさんいる。むしろ研究者としては僕はまだ駆け出しだ。そして審神者としては、政府から特別な技術支援を受けているこの本丸があって初めて、君達を召喚することができた。つまり、僕は……」
 一瞬、主が言い淀んだ。それでも僕らから視線を逸らすことなく主は言葉を続けた。
「僕は研究者としても、審神者としても、中途半端な存在だ。それでも、その両方を持つ者が他にいないのであればと僕はこの任を受けた。そして引き受けた以上、自分の能力の低さを言い訳にはしないと決めた」
 主は一段、声を張り上げた。
「けれど、政府の力添えあってここに集う君達を、自分の功を急いたために失うわけにはいかないんだ。君達は 僕が政府から預かり賜ったこの国の、この時代の宝だからだ。どうかそのことをわかってほしい」
主は立ち上がると蜂須賀の前に出て、懐から何かを出して手渡した。蜂須賀はうやうやしくそれを受け取り頭を垂れた。
「任せきりで……済まなかったな。今、僕ができるのはこれくらいだ」
 蜂須賀にそう告げると、主はそのまま自室へと戻っていった。
 主が去った後の大広間で、僕らは動揺を隠せないでいた。
「政府のお力添えあると言えも、僕をここへと導いたのは間違いなく主君です。僕は主君に、主君は時の政府に、それぞれがお仕えする身。わかっていたはずなのに、僕たちが未熟なせいで……主君に、気を遣わせてしまったようですね」
 加賀は前田家に伝わることから前田籐四郎と呼ばれる粟田口吉光作の短刀は、肩を落として項垂れた。守り刀として警護の任に就くことが多かった彼は、いつも主が気持ちよく本丸で過ごせるよう心を砕いていた。その主が吐露した胸の内を慮っているのだろう。
「政府がどうとか関係ねーよ。誰がなんと言おうと、俺たちの主さんは主さんだろ?  主さんのために戦ってこその俺たちじゃねーか」
 茎に不動明王が刻まれている、二字国俊作の愛染国俊が拗ねたような声を上げた。
「ていうか、僕ら政府の人になんか会ったこともないしー」
 愛染と兄弟刀の蛍丸は両手を頭の後ろに不満げにふんぞり返った。
「よく修理にいろんな機械持ってくる人は政府の人じゃないのか?」
「政府から言われて来てるって言ってたから、政府の人とは違うんじゃない?」
 刀身こそ短刀と大太刀とでまるで異なるが、顕現した姿では愛染のほうが少し上背が高い。ひと月ほど早くにやってきていたこともあり、愛染が蛍丸の世話を焼く姿をよく見かけた。戦場でなければ、子犬がじゃれ合うようにいつも一緒にいる、仲の良い兄弟だ。
「俺たちの覚悟が伝わってないわけじゃあないと思うんだがな」
「おかしな主ですね……僕たちをどう扱うかなんて、主の好きにしたらいいのに。一体、何に遠慮してるんでしょう」
 共に織田信長の元にあった薬研と宗三左文字が言葉を交わす。広間に集っていたそれぞれが胸に抱いた戸惑いは、言葉というかたちをとって近しい刀の間を漂った。蜂須賀は主が自室に退いてからずっと、微動だにせず黙ったままじっと座っていて動く気配すらない。辺りを見回した長谷部クンが小さく溜息を吐いておもむろに立ち上がった。
「とにかく、夕刻には大阪城に向けて開門の手筈が整うはずだ。当番はそれぞれの持ち場に戻れ。それと……主の望み通り、無茶をせずに勝ち続けるためにはもっと強くなるしかないぞ。ここで無駄口を叩いているくらいなら鍛錬でもしたほうがずっとためになる」
 広間を早足で後にする長谷部クンの口調はいつもより静かで、だからこそすとんと腑に落ちたのか、皆、顔を見合わせるとそれもそうだと次々に長谷部クンの後を追って部屋を出て行く。それに続こうと立ち上がろうとしたとき、ふと上げた目線の先に違和感を覚える。長押に弓がない。昨日、御手杵クンが戻したはずなのに。あの娘が自分でそこに戻すように言ったのだ、黙って持って行くことはしないだろう。僕は気に掛かりながらも皆に続いて大広間を後にした。
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 しばらくして、僕は母屋へとやってきた。主にどうしても確かめておきたいことがあるからだ。僕は辺りに誰かいないか確かめようと廊下から大広間の様子を窺うとぽつんと一振、床の前の軸の前で微動だにしない刀の姿を認めた。蜂須賀だ。そう言えば昼餉の時間、庫院でも茶の間でも見かけた覚えがない。まさかあれからずっとこうしていたのだろうか。蜂須賀はじっと前を見詰めている。確か床の間には「只管打坐」と書かれた掛け軸が掛かっていたはずだ。何か声を掛けようか迷っていると、大広間の反対側から明るい声が響く。
「はーちっすか!」
 乱クンの声だ。う~ん、彼には僕が気配を消しても気付かれてしまうかもしれないな。僕は仕方なく廊下の奥へと下がった。
「みんな、心配してるよ」
 蜂須賀は黙ったままだ。
「蜂須賀のせいじゃないって、みんなちゃんとわかってるし……」
「主に……」
 絞り出すような蜂須賀の声が大広間にぽとりと落ちた。
「何? 主さんから何か言われたの? 僕がちゃんと説明し――」
「違うんだ、乱」
 声の響き方から、恐らく蜂須賀が乱のほうへと振り向いたんだろう。乱は言葉を呑んで蜂須賀が続けるのをじっと待っている。しばし沈黙が流れる。
「主に……謝らせてしまった。それも、皆の前で……俺は、まだまだだな」
 乱に向けた最後の台詞だけ、肩の力が抜けたような本音を滲ませた声色だった。
「蜂須賀のせいじゃない。僕だってーー」
 この本丸最初に顕現した刀、蜂須賀虎徹。そして主がその蜂須賀と共に鍛刀した乱藤四郎。以降、どれだけの刀が顕現しようともこの二振が主にとって特別であることに変わりはない。それは主が特別に目を掛けているとかではなく、僕らが彼らに一目置いているという意味においてだ。もちろん、主にしても一から本丸を立ち上げるのに奔走した彼らを何かと頼り気に掛けているのはわかる。でも、それをなるべく表に出さないようにしているのも伝わってくる。それは彼らも同様だ。だけど、彼ら二刀だけのときにはそんな気負いから少しは解放されるのだろう。
 僕はできればこのまま立ち去りたかった。でもうっかり主の部屋とは反対側に身を隠してしまったものだから、不本意ながら立ち聞きせざるを得なかった。大広間の引き戸が開いている以上、向こう側へ歩き出せば気付かれてしまう。まあ、こっちに出てこられたら鉢合わせするしかないのだから、あんまり隠れている意味もないのだけどね。
「さ、お昼済ませよ。歌仙が残しておいてくれてる」
 乱が蜂須賀を促す。うん、昼餉に向かうならこちらとは反対側から出て行くだろう。僕はほっとしてゆっくりと控えの間に向けて足を踏み出した。
「趣味悪いなあ、立ち聞き?」
 背後で揶揄うような声がした。やっぱり気付かれてたかあ……。僕は肩越しに乱に視線を送り応える。
「主に用があって来たんだよ。蜂須賀の邪魔をしちゃ悪いと思ってさ」
 乱が上目遣いに僕を凝視する。
「ふ~ん……ま、信じてあ・げ・る」
 乱はくるりと裾を翻した。
「青江はなかなか本音を掴ませないけど、嘘も吐かないこと、僕、知ってるから」
 振り向き様に思わせぶりな視線を送ってくるとそのまま立ち去っていく。
「そうそう、あと主さんを困らせたりもしないよね」
 振り向きもせず、上機嫌で釘を刺してくる乱クンのなんと頼もしいことか。僕は肩を竦めると乱クンの背中を見送ってから主の部屋へと向かった。
 今し方無人になった大広間、そして主の部屋に続く控えの間、誰もいないことを確認して僕は主の部屋の外から声を掛けた。
「主、いるかい? ちょっといいかな」
 入り口の札は在室。声を掛けるべからずとはなっていないから、少しなら中座してくれるはず。ところが意外な言葉が返ってきた。
「いいよ、入ってくるといい」
 僕は驚いた。任務や執務についてであれば僕らは主の部屋に集う。でもそれ以外のちょっとしたやりとりでは僕らや無闇に主の部屋に立ち入らない、この控えの間で済ませるのが常だったのだから。僕は戸惑いながら扉に手を掛けた。
「やあ、ちょうどよかった。茶でも入れようとしてたところだ」
 主は脇机の前に立って茶器を手にしていた。
「僕の分はいいよ、聞きたいことがあって。すぐ失礼するから」
 主は茶の支度を代わろうする僕をやんわりと遮り、茶をふたつ用意してくれた。控えの間は和室だが、この主の部屋は洋室だ。主は茶を手に、窓の横に立つと僕のほうへと向き直った。
「何を、聞きたいんだい?」
 明るい窓を背に立っているからだろうか、主は少し疲れているように見えた。
「うん、あの大広間にあった弓のことなんだけど……」
 僕の言葉に主が勢いよく振り向いた。よほど驚いたのか眼鏡の奥の瞳が大きく見開き、何かを言おうと開いた口はただぽかんとそのまま主の顔に乗っている。
「っふふ……君のそんな顔を見るのは初めてだね。それを僕なんかがもらってしまっていいのかな」
 ちょっと軽口を叩いて場を和ませようとしただけだったんだけど、それでも主はまだ固まったままだ。
「知らなかったなあ、君のそんな顔
「え? あ、ああ……」
 主は鼻先に落ちかけた眼鏡を直すと決まり悪そうに笑った。
「てっきり、さっきのことを聞かれるのかと思ったよ」
「先刻のこと?」
「僕の審神者として能力について」
 そうか、だから誰でも入れる控えの間ではなくここに招いたのか。
「僕にとってそのはなしはあまり重要じゃない、かな。僕は主のために僕ができることをするだけだよ」
 それを聞いて主はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「そうだね、にっかり青江はそういう刀だった」
 主はゆっくりと椅子に腰を下ろすと少し屈んで、立ったままの僕を見上げるように首を傾げてみせる。
「でも、君は敏いから。僕の嘘なんてすぐに見抜いてしまうだろう?」
「主は嘘は吐いていない。それに、僕は君にどう使われようと構わないんだ。使われないほうがきっと辛い」
 僕がそう言うと、主はしばらく僕をじっと見詰めた。それから深呼吸をひとつ。少し項垂れてから頭を掻くとすっくと背筋を伸ばした。
「ありがとう」
 主の声は穏やかで、深く、少しだけ愁いを含んでいた。
「あの弓、槍掛けに置いたのがよくなかったね。もう実際に使わなくなってからはああやって家に置いてあったからうっかりしていたよ」
 そう言えば、御手杵クンが戻したはずの弓の姿が長押になかった。まあ、あの娘が今いるのは本丸ではなく社だけどね。とは言え、主が弓が元の場所になかったことを僕が気にして訊ねてきたと勘違いしてくれたのは都合がよかった。そんな僕をよそに主が続ける。
「注文している弓立てが届くまでは申し訳ないけどここに居てもらうことにしたんだ」
 主が向けた視線の先、部屋の角にはあの弓が立て掛けてあった。
「手入れもちゃんとしなきゃいけないんだろうけど、何しろ古いものだから下手に触れて痛めてしまってもいけないしね」
 主の弓に向ける眼差しはとても優しい。社に居るあの娘に、この主の声は届いているだろうか。
「ねえ、主」
 主が弓から僕のほうへ向き直る。
「君は僕ら……つまり刀剣男士を実際こうして目にしているわけだけど」
 僕は躊躇いがちに口を開いた。
「ほかにも付喪神って宿ると思うかい? たとえば……主の家に伝わるあの刀や弓に」
 主は少し考え込んでから、静かに切り出した。
「興味深いね。実は君たちのような名刀でもないのに、何故ここへ持ち込むのにあんなに検分が必要だったのかいまだに詳細が知らされていなくてね。さっき言い掛けたが……例外ながらも審神者である以上、必要な力が全く備わってないわけじゃないんだ。ぼくの場合、特筆すべきとされたのは物に宿る想いを励起する力、とでもいうのかな。だけどそれを具現化する能力が基準に満たなくてね。あくまで噂なんだけど、力のある審神者の中には政府登録の刀剣男士以外にも物に宿る力を呼び起こし同じように使役できる者もいるとかいないとか。そして我々の戦況に有利に働く限り政府はその存在を黙認するわけだが、実際には快く思わない者もいる、とね」
 主はどことなくうれしそうに目を細めた。
「僕が不完全な審神者であることで君たちに迷惑を掛けるのが心苦しいのだけど、もし僕が政府登録刀剣男士以外の存在を惹起させたら面白いだろうね。まあ、持ち込み許可がでたということはそんな兆しはなかったということだろうけど。でも残念だなあ、もしそうであったとして、僕はお目に懸かれないから」
「えっ」
 僕は思わず声を上げた。もしかしてあの娘の存在を感じていたのか、と思ったのだ。でもそうではなかった。
「さっき言ったろう? 僕はその姿を具現化する能力に劣ると。もし本当に僕の家の刀に付喪神が顕れて、君たちにはそれがわかるのに僕にはわからなかったら……主失格かなあ」
 悪ふざけしてるわけではない主の、その冗談めかした言葉が突き刺さる。
「そんな風に言うもんじゃあないよ、主」
 主の言葉の端々に窺える自嘲の気配に(それでも、これまで任務を完遂せずにやむを得ず撤退することなんてなかったじゃないか)と言おうとして僕は口を噤んだ。今回のこと、主に責はないとこの本丸でどんなに僕らが思っても、政府に仕える審神者としては何かしら思うところはあるのだろう。
「ねえ、主」
 僕はゆっくりと立ち上がった。
「もし、付喪神が姿を顕したら……僕らが主に代わって歓待するよ。彼らにとっても、君が主であることに変わりない」
「ああ、ぜひそうしてくれ」
 僕に向けた主の表情は、少し残念そうで、同時にどことなく寂しそうに思えて、僕は弓の娘のことには触れずにそのまま部屋を出て行った。
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 母屋と出ると通り土間で所在なさげにしている御手杵クンが僕に気が付き手を上げた。
「どうだった?」
 御手杵クンが声を落として僕に聞くことと言えば、今はひとつしかない。
「うん、朝早くに行っておいてよかったよ。今日はもう本丸を留守にできるような雰囲気じゃないからね。たぶん、夕餉の前には出陣になるんじゃないかな。いつ声が掛かってもいいようにしておかないと」
「元気してた?」
 心配そうな御手杵クンに、僕は目にしたことを正直に伝える。直接は会えなかったこと、たくさんの動物たちに見守られていること。
「出陣の詳細さえ決まれば落ち着くだろうから、夕方に食べるものくらいは届けてくるよ」
「わかった……今日は青江に任せるよ」
 御手杵クンにも思うところはあるようだけど、それ以上は言わずに立ち去った。
 陽が山の端さしかかる頃、出陣時刻も決まりそれまでは待機となった僕はもう一度、社へ足を運んだ。朝と違って辺りには生き物の気配はなく、境内は静まりかえっていた。ただ、社務所の入り口に積まれていた野山の幸はきれいに片付けられていた。獣や鳥が食べ散らかしたのならこうはならない。「人」の手で持ち去られたようにしか見えなかった。
 ここへ供えたものはおそらくあの娘の手に渡っている。そう確信した僕は手にした包みをそっと足元に置いた。
「ほうほう」
 頭上で声がした。目を凝らすと梟が一羽、梢の上でこちらをじっと見据えている。
「君が今夜の見張り役かい? よろしく頼んだよ」
 僕はうやうやしく挨拶し、本丸へと下っていった。
 翌日、僕が社を訪れたのは陽も高くなってからだ。第一階層からの探索が再開した大阪城は、負傷率が上がるまでは短刀と脇差、打刀が交代で出陣する。僕は今朝の第一陣に名を連ねることが昨夜の内に決まっていたから、今朝の娘への差し入れ調達は御手杵クンが買って出てくれた。僕が帰還する頃合いで、御手杵クンが部屋まで朝餉を持ってきてくれる寸法だ。それを娘に届ければいいと思っていたのだけど、僕の部屋にはなぜか僕のお膳とそれとは別に包みがひとつ用意されていた。
「へへっ、青江が出陣している間にって、俺、畑当番を粗方終わらせたんだ。働き過ぎて腹減った~ってぼやいてたら、こびる用意してくれたんだ」
 僕の部屋でくつろいでいた御手杵クンがにこにこしながら迎えてくれる。なかなかの策士だねえ、自覚はないのだろうけど。
「じゃあ、行ってくるよ」
 立ち上がって障子戸に手を掛けた僕を御手杵クンが子犬のような見上げる。
「やっぱり俺が行ったら……駄目だよな?」
「その体格は嫌でも目立つからねえ」
「だよな」
 御手杵クンはがっくりと項垂れる。
「君が怪しまれずに行ける方法、何か考えてみるよ」
「俺も、何ができるか考えてみる」
「大丈夫だよ、君の機転でこうして届けにいける。大助かりだ」
御手杵クンが持ってきてくれた包みを掲げて、にっかりと笑いかける。御手杵クンはぐっと拳を上げてちょっと照れ笑いを見せてくれた。
「じゃ俺、自分の部屋に戻ってるわ」
 まだ本丸での生活に慣れていない刀剣男士と教育係が共に行動するのはごく当たり前のことだから、僕と御手杵クンが一緒にいることを疑問に思う刀はいない。御手杵クンと一緒に部屋を出て、僕はひとり山へと向かった。
 今日の社は人の気配が残されていた。境内はきれいに掃き清められ、社務所もなんだかさっぱりと小綺麗になったように思う。昼間なら、様子を窺って声を掛けても差し支えないだろうと、そっと社務所の戸へと手を伸ばしたとき、ばさばさと鳥の羽ばたく音が響く。振り返った先に人の気配はない。でも、社殿の隅に何か白く積み上げられているのに気が付いた。
「何を集めているんだろう」
 近付いて見れば、それは小さな花だった。小鳥が集めたにはしてはその山はきれいに整えられていて、どうみても人の手で置かれたとした思えなかった。顔を近付ければなんとも言えない匂いが漂う。
「これは……香りをどうこうするものではなさそうだねえ」
 思わず顔をしかめたが、ふとその脇に僕が昨日差し入れを包んできた布が目に入った。きれいに畳まれて、猪目型の葉が一枚、小さな石の重しと共に置かれていた。
「この花の葉なのかな」
 どうしてわざわざ葉を置いたのか、そのわけは手に取るとすぐにわかった。
「へえ……」
 一体どうやって書いたのか、葉の裏にはていねいに文字が綴られていた。

 ごちそうさま
 おいしかったです
 でももう大丈夫
 ここには食べるものがたくさんあるから
 ありがとう

 僕は葉の茎を摘まんで目の前でくるくると回す。するとどこからか栗鼠がやってきて僕の手の中の葉を奪って肩で何やらごそごそとしている。あの晩も感じたことだけど、この山の生き物は僕を恐れないよね。自慢じゃないけど、どちらかと言えば嫌われているんじゃないかと思っている。畑当番でもたくさんの動物が行き来しているのを目にするが、多くの場合、遠巻きにこちらを見ていて近寄ってくる様子はない。恐る恐る肩の栗鼠に手を伸ばすと、栗鼠はぱっと葉を放って地面に飛び降りると、葉の周りをくるくると回り出した。僕はしゃがんで葉を取り上げてみる。おや、広げてみたもののさっきまで読めた文字がぐちゃぐちゃだ。きれいに伸ばしてみてももう文字は見て取れない。もしかして――僕は葉の端を爪で押してみた。ああやっぱり、強く押した部分だけ葉の色が濃く濁った。
「なるほど、強く押すと変色するんだ……」
 すると栗鼠がその場で何度も何度も飛び跳ねる。まさか人の言の葉がわかるわけじゃないだろうけど、でもそれを言うなら僕だって今でこそ人の身を纏っているけど元は刀だしねえ。 栗鼠はどこかへ行くでもなくその場で僕を見上げている。栗鼠だけじゃない、僕の様子を窺う生き物の気配はそこここに感じる。僕は花の脇に朝餉の包みを置き、紙と硬筆を忍ばせた。
「御手杵クンが気を利かせて用意しておいてくれたんだ。遅くならずに持ってこれてよかったよ。あと、何かあったらこれに書き付けておいてくれないか。葉の裏に文字を刻むより楽だろう? 僕と御手杵クン以外には見つからないほうがいいだろうから、そうだなあ……そこの神籤を結ぶ棚にでも括り付けてくれれば誰もわざわざ広げて読んだりはしないと思うよ」
 おかしな話だけど、僕は大真面目に栗鼠に語りかけていたんだ。
「結び文があれば、君たちがそれを教えてくれるんだろう?」
 僕が栗鼠に囁くと、栗鼠はひょこっと跳ねて藪の中へと消えていった。不思議と、僕の伝言はちゃんと娘に伝わる気がしている。まあ、声の届くところに娘が身を潜めてることがないともいえないしね。娘の気配を思い出そうとして、不思議に思う。本丸ではあまり意識せずにいたけど、ここでは僕に向けられる数多の命に娘の気配が紛れて、まるで雲を掴むような気分になる。鋼の僕らと、かつてどこかで根を張り生きていた竹の君との違いなのかな。
「理由はどうあれ、主が守る社の住人たちに好かれているのは良いことだよね」
 空を仰げば、梢の間は青く澄み渡り、絶え間なく鳥がさえずる。麓の本丸では御手杵クンが落ち着かない様子で僕を待っているだろう。あんまり焦らしたら申し訳ない。僕は御手杵クンが待つ庫院へと、早足で駆けていった。
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 次の日は僕の出陣と御手杵クンの遠征とですれ違いが続き、僕らがようやく顔を合わせたのはもう陽も傾き始めた頃だった。ひと月ほど前に、主と僕らは社である祭礼を行った。でもそのときにはまだ御手杵クンは顕現していなかったんだ。御手杵クンに社のこと、祭礼のことを伝える――いい口実じゃないか、と僕らは堂々と社へと来たのだった。
「手ぶらでいいのか?」
 鳥居を過ぎて、辺りを窺いながら御手杵クンが僕に尋ねる。
「厨からあんまり頻繁に持ち出しても怪しまれてしまうし、なにより本人が食べ物には困っていないそうだからねえ……とは言え」
 落ち着かない様子の御手杵クンの目の前に掌をぱっと広げてみせる。
「ッフフ……茶菓子だよ。前に遠征のお土産を残しておいたんだ」
 御手杵クンの顔がぱあっと明るくなる。
「なあんだ、それならそうと言ってくれよ~」
「誰かいるかもしれないところでは知らんぷり……だろ?」
 僕がそう言うと、御手杵クンはぶんぶんと首を大きく上下して頷いた。
「大丈夫、今ここには僕らのほかには誰もいないよ」
「脇差って偵察、得意だよな」
「まあね」
「俺は何ができるんだろうなあ」
「刺すのが得意なんだろ?」
「そうなんだけど……それをどこで生かせばいいのかまだわからないんだよなあ」
「まあまあ、焦らない焦らない。練度が上がればもっといろんな戦場にも行けるしさ」
 そうこうしている内に僕らは石段を登り切った。僕は一通り祭礼のこと、境内にある建物を簡単に案内した。
「この社務所にいるのかなあ」
「たぶんね、社殿はよほどのことがなければ開け放したままだし」
「呼んでみよーか」
 御手杵クンが大声を上げようとするから僕は慌てて制した。
「駄目だよ、風に乗れば本丸まで聞こえちゃうよ」
「あ、そ、そうか」
 御手杵クンが頭を掻く。その頭の上にどこからか小鳥が一羽、降りたって、僕をじっと見下ろしている。
「どうやら、お遣いが来たみたいだよ」
 でも僕が手を差し伸べると、小鳥はぷいと御手杵クンの頭から飛び立ってしまう。
「俺の頭、居心地悪かったのかなあ」
「いや、そうじゃないみたいだよ」
 飛び立った小鳥が向かったのは神籤の棚だ。
「文が届いているらしいから、行ってみようよ」
 訳がわからず不思議そうな顔をした僕は御手杵クンを神籤棚へと案内すると、思った通りそこには古びた和紙の中にひとつだけ真新しい白い結び文があった。
「昨日、君が用意してくれた食べ物と一緒に書くものを置いていったからね」
 僕はその紙片を棚から外す。

 君映す 水内鏡に 無き身なら
 居ぬ心こそ さざ波立つらむ

「へえ、歌をよこすとは……考えたね」
 連なる文字に思わず呟いた。
「どういうこと?」
 僕の手元を覗き込んで御手杵クンが尋ねてくる。
「万が一誰かに読まれても怪しまれない。誰に宛てたものかなんて詮索されないからね」「なるほどなあ。でもどういう意味?」
「う~ん……主に見えない自分は存在しないのと同じなのに、どうしてないはずの心が揺れるのか、ってことかな」
「存在しない、か」
 そう呟くと御手杵クンは黙り込んだ。何か思うところがあるのだろう。僕は何も言わず、娘への返事をしたため始めた。

 君が行き日長くなりぬ山たづね
 迎へ行かむ待ちにか待たむ ※1
  ※1 万葉集 磐之媛命より

 っふふ……まだ二日しか経っていないのに、ちょっと大げさだったかな。
「えっ、青江も歌詠むの? それ、刀剣男士に必要な教養なの?」
 書き終えた手紙を目にして狼狽える御手杵クンに、僕は少し言い淀む。
「いや……ちょうどこう……伝えたいことと似た内容の和歌があってさ。既に世にある和歌なら、もしほかの誰かが読んでしまっても言い逃れできる……と思って」
 御手杵クンはそれを聞くなり満面の笑みを浮かべた。
「そっかあ、青江も別に得意って訳じゃないんだな。よかった~」
「なんかすごくうれしそうだね?」
「だってさあ、いっつも眉間にしわを寄せて雅がどーの風流がどーの言ってる刀がいるだろう?」
 僕の脳裏に短冊と筆を持った歌仙クンが浮かぶ。
「俺もここでの暮らしが一通りわかったら、次は和歌を読む特訓とか受けなきゃいけなくなるのかなあ? って心配になったんだよー」
「そういうことか。仕えた主の影響とか時代柄、歌を詠むのに長けた刀も多いけど、別に男士必須科目とかじゃないよ」
 僕は畳んだ紙を神籤棚に結んで、社殿へ向かった。今日は白い花ではなく竹筒がいくつか並んでいる。
「これ、あの娘が作ったのかな」
「まあ、社務所に山仕事の道具は揃ってるけど」
「手伝ってやりたいけど、勝手に触っちゃだめだよな」
「そうだね、あの娘がこれをどうしたいかわからないと手の出しようがない。それに、長居できないからね」
 御手杵クンを案内すると告げて出てきてる以上、長々と本丸を留守にしてると誰かが探しにこないとも限らない。僕らは茶菓子を竹筒の脇に置くと参道を引き返した。
「ところでさあ」
 石段を下る僕の後ろから御手杵クンの声が降ってくる。
「結局、青江が書いたのってどういう意味なんだ?」
 僕は振り向かずに歩き続ける。
「まあ、要するに……戻っておいでよ、ってこと」
「そっかぁ」
 御手杵クンが足を止めた。振り返ると、御手杵クンは両手を洋袴の隠に突っ込んだまま社を見上げていた。
「そんな格好で歩いてると転んじゃうよ」
「あ、うん……」
 御手杵クンの生返事に、僕はまた前を向いて歩き出す。青く広がる空に向かって、戻っておいでよ、と呼びかけながら。
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 次の日、本丸を歩く僕の眉間にはきっと皺が寄っていたことだろう。別に、御手杵クンにいいところを見せようと和歌を書いたわけじゃない。ちょうど伝えたいことに沿った歌をたまたま知っていた、というだけだ。でももし僕が昨日送ったのが、和歌ではなく話し言葉だったら、返事は違っていたかも知れなかった。

 山里に 薬降るらし
 我が袖に 零れし露の
 集まりて 水之辺満つれば
 
 いざ行かむ 尚武たずさえ
 君待つ里へ

 尚武……しょうぶ……菖蒲かな。この辺りはまだ咲くには少し早いけど。水辺を満たすほど泣いていたのか。でも薬降る……薬が降ってくるとはどういうことなのか、皆目見当が付かない。山里に降るなら雨だろう。まさか雹や霰じゃないことを願おう。でないと花が駄目になってしまう。
「よお、にっかりの旦那。難しい顔をしてどうしたんだ」
 洗濯場に差し掛かったとき、薬研藤四郎が僕に気が付き声を掛けてきた。そうだ、もしかしたら彼なら何かしっているかもしれない。
「ねえ、薬が降るってどういうことか、君かわかるかい?」
「薬? 薬が空から降ってくるってか? そりゃずいぶん都合がいいな」
 薬研クンは手にした白い中衣をパンと張り衣紋に掛けた。
「だよね」
 僕は肩を竦めてみせた。
「まあ、今時分は何もしなくても食いもんは傷みやすいし黴も増える。それこそ雨が薬になってくれりゃあ楽でいい」
「ああ、そう言えば皐月って悪月とも言ったっけね。気を付けなきゃいけないなあ」
「腹を下すと大変だぞ、人の身は」
 娘の差し入れのことが気になってうっかり口にしてしまったが、薬研クンには怪しまれなかったようで何よりだ。
「それは……避けたいな。まだ大阪城出陣が控えている」
「全くだ。でも安心してくれ。簡単な薬なら用意できるぜ? 味は保証しないがな」
「良薬は口に苦し、だろ? ま、そのときは頼むよ」
 僕はそこで会話を終わらせて歩き出した。
「そうだ、にっかりの旦那」
 背中で薬研クンの声がした。
「端午の節句、五月五日のことを薬日とも言うな。何か関係あるかもしれん」
「へえ……」
 僕は驚いて振り向いた。
「歌仙の旦那から歌のお題でももらったか?」
 薬研クンが僕を面白そうに見ている。
「当たらずも遠からず、かな。気の利いたことを言ってみたくてね」
 僕はにっかり笑ってみせてその場を立ち去った。うまいこと誤魔化せたとは思う。
 御手杵クンが遠征で留守なので、僕は出陣まで部屋で過ごした。薬日か。薬が降ったら里に下りる。つまり五月五日か六日に戻ってくるということだろうか。明日、御手杵クンと迎えに行ってみようか。たぶん、娘がひとりで本丸に現れたりしたら大騒ぎだ。御手杵クンがあれだけはっきりと姿を見て言葉まで交わしたのだから、ほかの男士もわかるだろう。いや、その前に少なくとも蜂須賀には相談しておくべきかな。彼なら主の悪いようにはしないだろうから。
 僕らには見えているけれど、主の目には映らない弓の娘。いや、もしかしたら主にも見えるようになっているかもしれないか。だって、あの大広間での娘の姿は僕にしか見えていなかったのに、後になって御手杵クンには見えるようになったんだから。こうも悩むことになるとは。
 僕は答えの出ないまま大阪城への出陣を迎えた。戦っているあいだは娘のことを考えることはなかった。そして帰城したのが夜更けだったこともあり、蜂須賀の元を訪れるのは翌朝にして眠りに就いた。
 夜が明ける頃、恵みの雨は人知れず里を静かに潤して過ぎていった。
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刀剣弓箭譚 4 ー薬降るまでー
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 僕は、夕餉を終えて皆がそれぞれの部屋で過ごす頃合いを見計らって厨へ向かった。母屋の刀影が疎らになったところで握り飯でも調達し、娘の様子を見てこようと思ったからだ。もし誰かに不審に思われたとして、言い訳を考えるにはたくさんの刀がいないほうがいいからね。もう日もすっかり暮れて辺りは闇に包まれているから、夜目の利かない大きな刀の目には付き難い……はずだったのだけど、厨に近付くに連れ、何やら母屋が騒がしいことに気付く。いつもならこの時間、厨を含め母屋はひっそりしているはずだ。今夜は宴席も予定もなかったよなあ、などと思い巡らせながら進むが、ふと鼻を掠めた血の匂いにハッとして、僕は脱兎の如く駆けだした。直後、小さな影が暗がりの中を一目散に駆けてくる。
「誰かー! 手を貸してくださーい!」
 まるで小天狗の如く一本歯の下駄で地を蹴ってくるのは今剣、源義経の守り刀だという短刀だ。
「あ、にっかりさん! 早く通用口に……僕は大きな刀を呼んできます!」
 立ち止まることなく風のように僕の脇を過ぎながら叫ぶ今剣の、そのただならぬ様子に僕は通用口へと急いだ。
「誰か、手を貸してくれないか! 俺だけでは運びきれん」
「ちょ、ちょっとこの傷、どういうこと!? やっぱり薬研、呼んでこないと」
 母屋を抜けた勝手口では今まで僕が見たことのない光景が広がっていた。夕餉のあとに大阪城の地下探索へ出陣していた部隊の隊員を介抱しながら、駆けつけた刀たちに指示しているのは蜂須賀だ。その蜂須賀も傷を負っている。竈番で厨にいた乱藤四郎が蜂須賀を助けながら今剣を庫院へと走らせ、手当に奔走している。でも一体どうしたことだ。今までも重傷者が出て途中で帰還することはあった。でも今、僕が目にしているのはこれまでの損害とは比べものにならない。一部隊のほぼ全員が負傷。それも決して軽い怪我ではない。この夜の出陣先は大阪城深部、遡行軍も地上近くと異なり強力で、編成は太刀や大太刀が主力だ。短刀や脇差といった機動や身軽さを武器とする僕らと違って、彼ら太刀や大太刀の攻撃はひとつひとつが重く、力強い。だが、その力と引き換えなのか、一度傷を負うとその手入れに掛かる時間は僕らの比ではない。でも調査が主な責務となっている主の元に集っている僕らの出陣先は、比較的戦力の余裕を持たせて選定される。負傷し帰還することがあっても、傷の重い刀から順に手入れに入り、手入れ部屋が空くのを待つのは軽傷であることがほとんどだ。こんなに重傷者が出ては、手入れ部屋へ入るまでどれだけ待つことになるのか想像もつかない。通用口の札によれば、空いている手入れ部屋はひとつ。蜂須賀が介抱している刀が一番危険な状態なのは一目でわかる。
「蜂須賀、彼をすぐに手入れ部屋にーー」
 そう口にしてから僕は気が付いた。そんなことはその場にいる誰もが言わずとも明らかなことだったのだ。皆、わかっていても手を貸す余力はない。そして、自力で立つこともできないほどの傷を負った刀は、手入れ部屋へ運ぼうにも脇差である僕には手に余ることを。
 僕はただ立ち尽くし、今剣が大きな刀を連れてくるのを待つしかなかった。
 庫院から集まった刀で、通用口は一時騒然とした。間の悪いことに、主は昼間僕らと会話を交わした後、仕事で現世へ出掛けたまま不在。それでも初期刀である蜂須賀は落ち着いて行動していた。落ち着いたというのは正しくないかもしれない。自身も傷を負っている。主が不在の今、この本丸の秩序を保つために蜂須賀は努めて冷静であろうとしているように僕には見えた。それでも、いつも身なりに気を配り、塵一つ纏うことも許さないような蜂須賀の血塗れの装束も自身の傷も厭わず立ち振る舞う姿は気高く美しいとさえ思えた。ああ、彼もやはり刀なのだな。そんなことを思いながら僕は駆けつけた薬研を手伝っていた。
 一通りの応急手当が済んだところで、蜂須賀が集まっている皆に告げた。
「明日の午後には今の出陣先は閉ざされて、また異なる時代の大阪城地下に進軍が始まる。短刀は庫院に戻り、明日の夜の出陣に備えよく休んでくれ。脇差も同様だ。打刀以上で下層部への出陣要件を満たしている刀剣は茶の間に集まってくれ。次の大阪城深部攻略について話し合いたい」
 誰もが蜂須賀の指示を受け入れ、それぞれの役目を果たすべく足早に通用口から立ち去ったが、僕はしばらくその場に留まっていた。
「君は戻らないのか」
 皆の様子を見守っていた蜂須賀が僕に気付き声を掛ける。
「僕は脇差だからね、本来なら明日に備え庫院へ戻るべきなんだろうけど……様子を知っておきたいんだ。すぐに戦力にはなれなくてもね。それに僕はもともと宵っ張りだから、まだ休むには早いんだ」
 蜂須賀は少し考え込んでから、いつものように柔らかな笑みを返した。
「それじゃあ、君の偵察能力から何か思うところがあれば遠慮なく発言してくれ。いずれ手を貸してもらうことにだってなるだろうから」
 そう言うと、蜂須賀はそのまま茶の間へと歩き出した。僕は何も言わず、ただ頷いて蜂須賀の後に続いた。
 主不在の集いとは言え、身なりにうるさい蜂須賀が手入れも受けずにその姿のまま皆を集めて軍議なんて、今までならちょっと考えられない光景だ。そういえば、今夜の部隊長は蜂須賀だったんだっけ。気を張っていても隠しきれるものじゃない。毅然としたその背中にはわずかに疲れが見て取れる。それだけの出来事だったということか。
 この本丸は通常の戦闘を他の本丸同様行うものの、調査任務も同時に担う事情がある。斥候というより、戦闘がある程度収束してから歴史改変の有無や後世への影響に関する調査が多いから、既に別本丸の部隊の戦闘報告に基づき僕らの部隊が編成される。だから今までは僕らの手に余るとわかりきっている戦地へ赴くことはまずなかった。それはつまり、僕らの本丸は負け戦というものをあまり経験したことがなかったということに繋がる。もちろんそれでも出陣先で負傷はするし、重傷と引き換えに戦果を得ることだって度々あった。ただ、負傷者が続出して進軍を諦めざるを得ない状況下で撤退を余儀なくされたのは、これがこの本丸始まって以来、初めてのことだった。
 大阪城「地下に眠る千両箱・易」と名付けられたこの作戦、一週ごとに異なる時代の大阪城に出陣するのだが(それが日付程度の違いなのか時代そのものが異なるのか、詳しいことは主にもわからないらしい)、易とあるもののなかなか手強い。この春、発足したばかりの本丸の僕らには手に余る相手だった。(ああ、でも戦闘に特化した本丸なら練度も僕らより遙かに高いからそれほど苦戦していないらしいけどね。)この任務はすべての本丸への通達されているが出陣義務はない。ただ、今回はその名を冠した千両箱の他に、城内地下の敵を一掃することで、一定の練度に達した短刀に新たな力を与えるための道具が無償で提供されると政府から通達があり、この本丸も来るべきときに備えるため任務の完遂を目標にしていた。そして先週は何度か戦略的撤退を余儀なくされつつも、なんとかすべての敵を排除することができた。だが、今週、僕たちに立ちはだかったのは最下層まであとふたつに迫った階の遡行軍だ。それも本陣にまだ辿り着く前の。先週の出陣では交代で手入れをしながらもなんとか退けることができ、本陣へと進軍することができた。だが今回は、敵の本陣へ辿り着くまでに複数の刀が重傷を負い、やむを得ず撤退することを繰り返していたらしい。そもそも大阪城の調査自体は初めてではない。既に一度経験していたがここまで苦戦したとは記憶していない。敵も僕らを攻略すべく研究してきているということだろうか。
 大阪城地下深くの戦場を僕は知らない。出陣し始めた頃は僕もよく出陣していた。でも最下層に近づくにつれ敵は力でねじ伏せる傾向を強めてきた。だから練度が高いとはいえ短刀や脇差では深手を負うか押し負けて戦線から離脱せざる得なくなる。その結果、深くなればなるほど太刀や大太刀といったこの本丸では後発の刀が出陣するようになっていく。それは前回も同様ではあったけど、それでもなんとか凌げた。この本丸に初めて加わった大太刀である蛍丸はそれなりの練度に達しているから軽傷程度で踏み留まっているが、石切丸と太郎太刀はどうしても遅れを取りがちだ。それはこの本丸に顕現した順番なのだから仕方がないことだ。もちろん打撃向上に特化して育成する方針だってあったろうし、そうしている本丸もある。でも主はそうはしなかった。それぞれに得意な戦い方が在るとして出陣させる刀種を偏らせることなく、どの刀もなるべく等しく戦場で経験を積めるようにしていた。そして、稼働して半年にも満たないこの本丸において、練度が高いのは初期から顕現していた短刀や脇差、そして打刀に偏りがちだ。立ち上げ時に政府から支給された太刀もいるが、一部隊を編成するには太刀、大太刀の練度のばらつきがありすぎた。
そもそもこの本丸は、基本的に戦闘は他の本丸同様行うものの、調査任務も同時に担う事情がある。斥候というより、戦闘がある程度収束してから歴史改変の有無や後世への影響に関する調査が多いから、既に別本丸の部隊の戦闘報告に基づき僕らの部隊が編成される。だから今までは僕らの手に余るとわかりきっている戦地へ赴くことはまずなかった。それはつまり、僕らの本丸は負け戦というものをあまり経験したことがなかったということに繋がる。もちろんそれでも出陣先で負傷はするし、重傷と引き換えに戦果を得ることだって度々あった。ただ、負傷者が続出して進軍を諦めざるを得ない状況下で撤退を余儀なくされたのは、これがこの本丸始まって以来、初めてのことだったのだ。もちろん撤退したことは数知れない。でもそれは進軍するか撤退するか検討の末に部隊長が選択したことであって、今回のように刀剣破壊を防ぐために撤退せざるを得ないようなことはなかったのだ。
 太刀、大太刀が座す茶の間の囲炉裏端はなかなかの迫力だ。それを囲むようにして打刀が後方に控えている。 茶の間の明かりが漏れる土間で蜂須賀が一度立ち止まる。呼吸をひとつ置いて表情を引き締めると、蜂須賀は茶の間の明かりの中へと進んでいった。僕は茶の間には上がらず、入り口の土間の壁にもたれて全体を見渡していた。茶の間の空気は重い。母屋の中で僕らが一堂に会すことができるのは大広間だが、そこは主と主に仕える僕らが対面するための場だ。だから主が不在の際に勝手に使っていいような空間ではない、だから茶の間に集まってもらったと蜂須賀は言う。茶の間といっても囲炉裏を中心にかなりの広さがあり、隣り合う部屋の襖を取り払えば全員が会するのに問題はない。まあ、実際には全員というのは正確ではない。部隊の中で最も痛手を被った石切丸は、駆けつけた刀たちの手であれからすぐに手入れ部屋へと運ばれた。残りの負傷者は手入れ部屋が空き次第すぐに手入れに向かえるよう奥の戸口近くに集まって座している。手入れに時間が掛かる刀がこうも立て続けに負傷し、重傷者が茶の間で手当を受けながら手入れ部屋が空くのを待つ姿は僕らにかつてない焦りを容赦なく突きつけた。
「皆、夜も遅いのに集まってくれてありがとう」
 いつもの少し堅さを含んだ張りのある蜂須賀の声が茶の間に響き、軍議が始まった。まず蜂須賀が今夜の大阪城での進軍状況を報告し、それからこの状況をどうするか皆に意見を求めたが主不在の軍議はいつになく紛糾した。もちろん主を非難するような声は上がらなかったが、戦力の拡充、育成方針については様々な意見が上がった。曰く、出陣する機会を均等にするより練度の低い刀を優先的に出陣させて練度を揃えるべきではないかとか、刀種別に優先育成枠を設けてはどうかとか。主が僕らに優劣を付けることを躊躇うのであれば自分達で決めて進言すればいいのではないかという声も上がった。でも、これからの方針についての提案はいくらでも出たが、今夜の戦場を突破する妙案は遂に出ることはなく、いつしか茶の間は沈黙に包まれた。
「私が……私がもう少し皆さんのお役に立てる練度だったら」
 囲炉裏に掛かる鉄瓶の中で湯が沸く音だけが響く中、太郎太刀がふと小さく口にした。
「太郎太刀、それは違う。お前は持てる力を十分に発揮しこの大阪城でも貢献している。戦果もあげているじゃないか」
 打刀の中で現在も出陣部隊の交代要員に名を連ねている長谷部クンが静かに告げる。
「そうだよ、僕らだけじゃここまで進軍できなかった。それは太郎太刀だってわかるだろう?」
「ですが……」
 透かさず続いた燭台切クンの言葉にも太郎太刀の歯切れは悪い。燭台切クンはこの本丸古参の太刀の一振だ。この大阪城でも頻繁に出陣しているから、太郎太刀の働きも実際に目に為ている。
 ひとり神妙ながらも涼しい顔をしているのは蛍丸、この本丸が最初に得た大太刀だ。なんでもこぼれた刃を蛍が集まって直したという伝説からその名が付いたそうだが、愛くるしい見た目に反してその打撃力はえげつない。その蛍丸を戦場で見つけてきたのが燭台切クン、燭台切光忠だ。長船派が祖、光忠による太刀。元の持ち主である伊達政宗の面影を宿したその彼が、重傷を引き換えに蛍丸をこの本丸へと連れて帰ってきた。それからほどなくして石切丸がやってきた。長いこと神社に居て病魔を切り伏せてほしいと願う人に接してきたから、遡行軍のような存在を相手にその刃を向けることには慣れないとよく言っているらしい。そうは言ってもその破壊力は蛍丸にも引けを取らない威力だと聞いているけどね。刀の在り方にもいろいろあるらしい。そして三番目にやってきた太郎太刀も長いことご祭神をしていた刀だ。人が扱えるとは思えないほどのその刀身故、人以外のものを斬るために作られたのかもしれない。ある意味、文字通り神々のための刀なのかもしれない。僕の遠縁とも言われている。僕の縁者って何気に神社に奉納されてたりするんだよ。実戦刀として歩んできた僕は、それはそれで充実した刃生だったと思ってるけどね。まあ、そういう見方をされることも多い派閥なんだよ、青江派ってさ。蛍丸がやってきてほどなくして石切丸、太郎太刀と立て続きに大太刀がやってきたから、大太刀の間ではそれほど練度に開きがあるわけじゃあない。でも……。
 力及ばず撤退したことに忸怩たる思いがあるのは大太刀だけじゃない。比較的早くから顕現していた打刀も同様だ。本来なら暗く狭い地下で有利なのは短刀、脇差。そして比較的動き回れて僕らより打撃力があるの打刀だ。それに後発の太刀や大太刀と比べれば練度は高い。でも、先手で打ち損じたとき相手の反撃を躱しきれずに負傷する率が高く、実際に大阪城深部に出陣の交代要員に名を連ねることができる打刀は限られている。練度が高いことで満たされていた打刀の自尊心に影が落ち始めていた。もっと自分たちが強ければ、強くなっていたなら、と。本丸内で最も練度が高い刀種なはずの短刀、脇差もそれは同じ……いや、それ以上に堪えてる。暗がり、ほぼ室内戦に等しい得意なはずの条件下にも関わらず活躍できないのだからね。
「これまでのことを否定しても始まらないよ。今までがあって、これからどうするかを話し合いたい」
 様々な思いが交錯しざわつき始めた茶の間だが、蜂須賀の声がそれを制した。練度のばらつきについては今までにも幾度となく主と話し合い結論は出ているのだそうだ。それに、今からではどうあがいても一日二日で上げられる太刀や大太刀の練度はたかが知れている。であれば、次の時代の大阪城で同等の強さの敵を相手にどう戦えばいいのか。重苦しい静寂が茶の間を覆う中、蜂須賀は続けた。
「皆が動揺するのはわかる。だが、それもわかった上で主は今まで皆に均等に出陣する機会を与えてくださっていたんだ。俺が皆に集まってもらったのはこれまでのことを後悔するためじゃない。大阪城地下への出陣は明日また一から始まる。次に最深部に到達するまでに何をすべきか、それを考えてもらうためだ」
 その言葉に和泉守兼定が声を絞り出す。
「んだよ……今の時代は本当にもう諦めるのかよ。次の時代に移動するまでまだ半日残ってるじゃねーか……なあ、どうにかして突破する方法をーー」
「和泉守。手入れのための資材ももうぎりぎりなんだ。この本丸の寿命を縮めるような無理な進軍はしない。これは常に主が口にしていることだ。皆もわかっているだろう。確かに、俺たちも政府からの出陣要請には応えなければならない。だが、主には何より優先させるべき調査任務がある。その指令にいつ、どんな時代にも対応できるよう備えておく必要がある。だからこそ、どの刀種も分け隔てなく育成し、負傷者を極力出さずにすぐ出陣できる体制を維持しているんだ。主力の半数以上を手入れ部屋待機に回すつもりか。調査要請はいつくるか主にもわからないんだぞ。それでも今夜、出陣を強行しようとする刀があればまずこの俺をこの場で説得しろ」
 静まりかえった茶の間で、囲炉裏の炭がぱち、と小さく爆ぜた。毅然と居並ぶ刀を見渡す蜂須賀の表情は硬いが、それ以上言い返す刀はいなかった。和泉守兼定、新撰組土方歳三の愛刀として後の世にも伝わる刀。若いよねえ、まっすぐで文字通り情熱迸るって感じだ。蜂須賀とはずいぶんと雰囲気が違う。そこに長谷部クンが割って入った。
「確かに、このままでは政府が準備した大阪城の報償はひとつ諦めざるを得ない。だが、まだもうひとつ残っている。三つのうち二つを確実に手に入れるために何をすべきか話し合うのだ。不服か?」
有無を言わせぬ圧がある。長谷部クンはいつもこうだ。でも、意外にも長谷部クンが単独でそういう態度を取ることは滅多にない。初期刀である蜂須賀が話を進めやすいようにわざと斬り捨てるような口調を取るんだよね。
「いや、別に主に背こうなんて了見じゃあねえよ……」
 和泉守が頭を掻きながら口ごもる。端から見ていて、蜂須賀はこの本丸全体を取り仕切りっているけど、長谷部クンは軍議に関わる割合が多い。蜂須賀が政治的な表向きの役割を担っているなら、長谷部クンは……そう、参謀とでも言うべき立場のように見える。表面的には蜂須賀を差し置いて口を挟むような印象を受けるけど、実は蜂須賀が進めやすいようにその場を軌道修正したり、とかね。
「俺たちの主は、功を急ぎ分不相応な戦場へ俺たちを追い立てたりはしない。それは、繰り返しになるが、主が調査という任を担っているからに他ならない。そして俺たちはそれらに対して成果を出してきた自負がある。だが、今回のように戦闘に特化している本来の本丸業務にも携わる以上、今までと同じでは遅かれ早かれいつか行き詰まるだろう」
 先ほどとは打って変わって、蜂須賀の穏やかな張りのある声が茶の間に広がった。それはまるで自分に言い聞かせるかのような口ぶりでもあり、同時に主への揺るぎない信頼に裏打ちされた故に導き出された決意でもあったのだろう。その蜂須賀の言葉に長谷部クンが続く。
「そのことに、こんなに早くに気付くことができて、戦略を練り直す機会を得たんだ。俺たちは幸運だと、そうは思えないか?」
「確かに、闇雲に突進するだけじゃ能がねえ……くそっ、もっと強くなりてえな」
 諭すような長谷部クンの言葉を継いで和泉守が零したのは小さな呟きだったが、それをきっかけにここに集っている男士たちが次々と声を上げ始めた。練度を上げる戦略だけでなく、負傷者が出ても進軍に支障を来さないように潤沢に資源や手伝い札を備蓄するための目標だとか、具体策が続々と堰を切ったように挙げられていった。要は資源や手伝い札が有り余るほどあれば、運悪く負傷しても瞬時に手入れを終えて出陣できるからね。戦略上、最下層部に出陣できない刀であっても、資源や札のための遠征でこの戦を支えることが可能だ。主力部隊には配属されない刀たちにも役割に応じて練度を上げようと、具体的な目標が定まってくるに従い、再びこの場に集った皆の士気が高まってきた。それまでどちらかといえば余力を残し切羽詰まっていなかったこの本丸に、いい意味で緊張感が生まれた夜だった。これからいくらでも強い敵に遭遇することはあるだろう。そんなときにもこうやって乗り越えてみせるとでもいうような熱気に辺りは包まれていた。その中心にいる蜂須賀も肩の荷を少しだけ下ろせたように見えた。
「皆、こんなに遅くまでありがとう。主が不在にも関わらず、俺の招集に応えてくれて心から感謝する。今夜、皆からあった提案は明日、改めて主に進言するとして、より具体的な計画についても短刀、脇差も交えて明日に行うことにしよう」
 自らも負傷し戦装束に乱れが残るにも関わらず、蜂須賀の姿はいつも以上に凜々しく毅然と輝いて見えた。その蜂須賀が立ち上ろうとしたとき、僕は茶の間の向かいに大きな影が揺れる気配を感じた。いや、しばらく前からそこ居ることには気付いていたんだ。中の様子を窺うも、中へ踏み出すのは躊躇われて、何度も行きつ戻りつしていた影。
「石切丸」
 立ち上がった蜂須賀の次の言葉を待つために皆が静まりかえっている隙を突いて、僕は声を落としつつも部屋にいる皆に届くだけの声量でその名を呼んだ。皆の視線が一斉に開け放たれた引き戸の先へと注がれる。戻ろうとしていたのだろうか、静かに揺れたその影はしばし逡巡した後に、こちらへとその一歩を踏み出した。
「話がまとまったところで口を挟むのはどうかと思って……声を掛けそびれてしまってね」
皆の視線が一斉に石切丸に注がれる。手入れ途中で部屋から出てきたのだろうその姿は痛々しい。
「まだ手入れが終わっていないじゃないか。大阪城のことで急ぎ伝えることでもあったのかい? ああ、まだ酷い傷だ。手を貸そう、すぐに手入れ部屋へーー」
 蜂須賀が慌てて石切丸のほうへ足を踏み出したのと同時に、やおら石切丸がその場に膝をつくと両手を揃えて頭を垂れた。その流れるような所作とは裏腹に、ぴりりと張り詰めた気配に目を見張る。普段は実に穏やかな印象の石切丸だけに意外だ。まあ、一緒に出陣したことのある刀から、その打撃力の凄まじさは日頃の石切丸からは想像できないよと聞いたことがあるから、案外これが彼本来の姿なのかもしれないなどと思ったりもした。石切丸が顔を上げて蜂須賀を見た。水を打ったかのように茶の間が静まりかえった。ただじっと張り詰めたその面持ちは、これから口を出ようとしている言葉が正しく音となるまでを待たざるを得ないもどかしさと、口にすべきかどうか逡巡しているような躊躇いとが交差していた。
「蜂須賀虎徹よ」
 石切丸が蜂須賀に向かって躙り出ると、改めて両の拳を膝脇に突き深々と頭を下げた。
「どうかもう一度、今夜もう一度出陣させてほしい」
 瞬く間にざわめきが茶の間に広がった。
「私がいた手入れ部屋にも、ここでの話し合いの声は届いていたよ。どのような結論がでたのかも知っている。けれどね、先週は最深部まで進軍できたんだ。まだ諦めるべきじゃあない。わたしは居ても立ってもいられなくてね、途中で手入れ部屋を飛び出したんだ」
「石切丸」
 蜂須賀は立ったまま目を閉じて天井を仰いだ。
「確かに先週も同じ階層で苦戦し、そして俺たちは接戦を制した。だが、今回はより深手を負って撤退している。石切丸、君だけじゃない。他の刀もだ。今夜、最深部を目前にして、早々に切り上げざるを得なかったのは、重傷を負ったことが理由じゃない。次々と負傷する刀に手入れが追いつかなくなったからだ」
「それはわかっているよ。だが、出陣先が改められるまでまだ半日もある。中傷の刀ならもう一度出陣するのに手入れをしても間に合うだろう」
 蜂須賀が首を振るが、石切丸は続ける。
「わたしはね、ずっと人の願いを聞いてきたんだ。病魔を斬り、人の喜ぶ顔を見るのが何よりの励みだったんだよ。ただ、あの頃のわたしはただ人がわたしの元を訪れるのを待つことしかできなかった。もっと言えば、病魔を斬ることができないことだって……でも、今は違う。短刀に新たな力を授けられるかどうかが掛かっているんだよ。お願いだ。どうかもう一度、もう一度だけわたしを出陣させて欲しい」
 石切丸が手を突き深々と頭を下げる。蜂須賀は小さく息を吐いた。ぴりり、と場の雰囲気が揺れる。ああ、蜂須賀のそれは溜息ではなく自分を制するために吐く一呼吸なのだけど、ちょっとわかりにくいんだよね。いつの間にか強く握りしめられた石切丸の拳が小刻みに震えている。一方の蜂須賀は俯きがちに目を閉じて何かを考えているようだった。しばしの沈黙の後、石切丸が声を絞り出す。
「わたしが不甲斐ないせいで進軍を止めてしまうなどあってはいけないよ。主が我々を大切に扱ってくれているのはよくわかる。だから、なおのこと主が言い出せないのであれば、私は自ら進んで出陣しようと思ったんだ。重傷と引き換えに報償を賜れるなら、わたしは何度でも出陣する。ただ傍に仕えるだけでは主の願いを叶えてはやれないだろう。政府からの通達では敵の強さは先週と同じだと言うじゃないか。だからもう一度、わたしを出陣させてほしい。わたしは主に願うことを躊躇わせたくない」
 その言葉を聞くや蜂須賀は何かに打たれたかのように勢いよく頭を振り上げた。開かれたその瞳には怒りとも悲しみともつかない何かが満ちていた。蜂須賀はその目で石切丸を一瞥するが、唇を引き結び何も言わずに視線を足元に落とした。
「主のため、か。だが、それは自惚れだ」
 蜂須賀のその小さな呟きに、茶の間は水を打ったように静まりかえった。蜂須賀は部屋に集う刀たちを一通り見渡してから、いつものように声を張り上げた。
「今夜、皆と話し合った通り、今回の撤退は誰かの失策でも弱さでもない。これはーー」
「お願いだ、蜂須賀。先週のように戦えればーー」
「初期刀の言葉を遮るな、石切丸」
 長谷部クンが低い声で石切丸の言葉を遮った。温厚な石切丸が食い下ったのも珍しいが、長谷部クンが特定の男士をこんな風に制するのは実は稀だ。いや、いつも怒鳴っているような印象を持たれてはいるけど、怒りというより呆れついでに怒鳴る場面が多いから、こんな風に静かに言い切られると逆に怖い。蜂須賀が目立たぬよう深く息を吸い、改めて口を開いた。
「もう一度言う。今回の撤退、俺たちの練度、資材や札の備蓄、いずれも主の計画に従い滞りなく進めていたにも関わらず起きてしまったことだ。誰が悪いわけでもない。これがーー」
 蜂須賀の言葉が途切れたが、誰しもが無言でその続きを待っている。蜂須賀の拳に力が入ったのがわかる。それから、囲炉裏の鉄瓶から立ち上る湯気を見上げるように天井を仰いで瞼を閉じると、苦しそうに声を絞り出した。
「これが今の俺たち――この本丸の実力なんだ」
 異論は認めない。そんな強さを秘めた蜂須賀の言葉は、まるで納得がいかない自分自身に言い聞かせているかのようだった。石切丸がハッとして蜂須賀を見上げたが、何も言い返すことなく項垂れた。その表情は僕のところからは窺うことができない。
 蜂須賀は大股で茶の間を横切って出口に向かったが、石切丸の脇を行き過ぎたところで立ち止まった。皆、無言で二刀を見守っていた。
「もう一度の出陣、勝算はあるのか」
 蜂須賀の声は小さかったが、遮るものがないせいかはっきりと聞こえている。石切丸が何か応えたようだけど、床板に向かって零れたその言葉は僕のところまでは届かない。
「そうか……空手形を振り出すのなら認めるつもりはなかったんだが……主から預かっている手伝い札がある。使うかどうかは私に任せると言われている」
 皆が固唾を呑んで見守る中、蜂須賀は出口を向かったまま声を張り上げた。
「石切丸は手伝い札を使いすぐに手入れを終わらせろ」
 それから茶の間に向き直り、その場の全員へ宣言した。
「今夜の話し合いについては明日、主が戻り次第すべて報告し今後の方針を正式に決定する。その上で、これからもう一度だけ大阪城へ出陣する。但し、三振負傷者が出た時点で即、撤退する。たとえそれが軽傷でも、だ。これに関しては異論は認めない。俺の裁量で使える手伝い札はあと二枚ある。手入れがまだでも構わない。出陣を希望する刀はこのまま第一部隊待機部屋へ集合してくれ」
 そう告げると、蜂須賀はもう振り向くことなくそのまま部屋を出て行った。
「んだよ、手伝い札が残ってんなら……最初っからもう一度だけは出陣できるって言やあよかったじゃねーかよ……」
 蜂須賀の背中に向かって和泉守が拗ねてみせた。
「まあそう言うな」
 労るような口調で、長谷部クンがぽんと和泉守の背を叩く。
「そうそう、彼は彼で、ここに居る誰かさんとは違った意味で馴れ合わないようにいつも気を遣っているんだよ。札を使うにしても彼の判断でしていいものか迷っていたんだろうしね」
 燭台切がそう言いながら彼の隣で無表情を貫いている打刀をちらりと見る。その腕に倶利伽羅竜を従えている彼は、燭台切と同じく伊達家伝来の刀だ。
「お前たちの言うとおりだ」
 穏やかな声が茶の間の後ろのほうから聞こえてきた。三日月宗近だ。打ち除けがまるで三日月のように並ぶことから三日月と称されるその刀は、美しさもさることながら天下五剣たる堂々の風格を称えながらも、打たれた時代が古いだけに自ら「じじい」を名乗っている。普段、本丸で見かける三日月は、その美しさに似合わず好々爺然と振る舞っているが、なんだ、じじいが聞いて呆れるよ。その堂々たる佇まいは文句なしに「筆頭」だ。僕はこれまで三日月と一緒に出陣したことがなかった。それとなく感じてはいたが、実際に目の当たりにすると格の違いを感じずにはいられない。まあ、格といってもそれはあくまで人の世の話で、ここでは僕らが何かしら引け目を感じる類いのものとは違うんだけどね。
「初期刀たる蜂須賀の言葉は決して軽くはないぞ。悪く取るな。何しろーー」
 三日月は中央に進み出ながら続ける。
「自ら負傷し、撤退を余儀なくされる。それを本丸で最初に経験するのが初期刀だ。それも」
 三日月は部屋を出るべく石切丸が座す側へと向かう。そしてひらりと装束を翻しこちらを向くと、部屋に残る面々に諭すように語りかけた。
「本丸に顕現し、こんのすけに促されるまま武勲を立てるべくただひとり勇んで出陣するも、為す術もなく破れ帰還し、主の前で敗戦の報告をせねばならない。その任を担うのが初期刀、則ちこの本丸では蜂須賀虎徹なのだ」
 僕たちに向けられたのは慈愛に満ちた笑みを湛えているようで、決して真意を露わにしない、そんなまなざしだった。
「さて、俺も第一部隊待機部屋へと向かうかな。給料分は働かないとここに置いてもらえなくなるかもしれないからな。はっはっは……」
 踵を返した三日月は、よく聞こえなかったが去り際には石切丸に声を掛け、共に部屋を出て行った。和泉守と燭台切、大倶利伽羅もその後を追った。気が付けば茶の間は閑散としていた。何故か僕の隣で長谷部クンが不機嫌そうに足を投げ出し座っている。
「言ってることはもっともだが、相変わらず食えないじじいだ」
 そう呟く長谷部クンに僕は驚いた。何故って、長谷部クンなら真っ先に待機部屋に向かっていると思うじゃないか。
「食えない、って……君にそんな趣味があったとは知らなかったなあ」
「喩えだ、喩え」
 言い返す長谷部クンにいつもの勢いがない。
「どうかしたのかい? いつもの君なら真っ先に、というか蜂須賀より先に待機部屋に向かってそうだけど」
 僕は思わず長谷部クンに尋ねた。
「お前が含みのある物言いとしないということは、よほど驚いているんだろうな」
 長谷部クンが自嘲気味に笑った。僕だって、常に長谷部クンのこと揶揄うわけじゃあないよ。でも僕は反論せず、黙って長谷部クンの言葉を待った。
「今回の大阪城は……三十八階層目の遡行軍は先制すれば勝てる、という相手ではない。一撃で倒せなければ、致命的な反撃を食らう」
 長谷部クンは後ろに手を突き天井を仰いだ。
「俺は刀装をふたつしか持てないからな」
 僕たちは人の身を得て、本来の姿である刀を手に戦う。だがこの容れ物を使うには人が設けた制限が伴う。今、長谷部クンが言った刀装もそのひとつだ。あらかじめ設けられた僕らの能力を補う道具。だが刀によって戦場に持参できる数が違う。僕はひとつ、長谷部クンはふたつだ。ちなみに三日月は三つ持っていくことができる。多く持っていけばいいってもんじゃないけどさ、僕らに得意不得意があるように戦場に応じて適材適所ってものがあるからね。今夜の戦いで必要とされているのは文字通り「力」であり、その上乗せ分である刀装を多く持てる刀のほうが有利なのだ。
「全く以て冷静な見立てだね」
 蜂須賀の言うとおりだよ。己の力を冷静に判断、分析して挑まなければ確実な戦果は得られない。
「でもわからないなあ。実際、主の指示は可能な限り進軍はすれども無理はするな、だろう? 最下層到達の報償だってそれほど重視していないって聞いていたし。どうして頭を下げてまでもう一度戦おうとするんだろうね。それに、なんで蜂須賀はもう一度出陣するなんて言い出したんだろう。彼、最初は否定的だったじゃないか」
 僕の言葉に長谷部クンはいつものように怒ったり呆れたりはしなかった。
「お前、前に主から「人の欲」を学べと言われていたのだろう?」
「うん」
 長谷部クン、ちゃんと覚えてたんだ。
「そういうことなんだろう」
 長谷部クンの返事は実に曖昧だ。
「どういうことさ」
「お前が欲を知ったとき、それがわかるんだろうよ」
 僕にはぴんとこない。
「へえ……じゃ、長谷部クンは知ってるってことなのかい?」
 僕がそう聞くと長谷部クンはのそりと立ち上がった。
「どうかな。それを貫き通せるなら、今夜だって俺は出陣部隊に志願しただろうがな」
 そう言うと、長谷部クンは茶の間を出て行った。いつもみたいにお小言のひとつもないとなんか変な感じだ。
 日頃から、大きな刀たちには大きな刀たちなりの絆があることは感じていた。今夜ここに集っていた刀のうち、僕が一緒に戦地に赴いたことがあるのは長谷部クンを始めとする打刀だけだ。もちろん本丸で共に暮らしている以上、様々な当番で一緒になることはある。でもそこで見せるのは戦とは別の顔だ。推し量ることはできても本当のところはやはりわからないものだ。戦場での顔は別として、あんな長谷部クンを本丸の中で見たのは初めてだった。意気込みだけでは戦えないなんてわかりきったことだと思っていたけど、自由になる人の身を持つというのはなかなかやっかいなものらしい。欲ねぇ……主がそう望むのだから、身につけるべきなのだろうけど、僕にはまだよくわからない。
 さて、僕も自室に戻ろうかと立ち上がったときだ。柱の陰から僕を手招きする刀に気付く。御手杵クンだ。僕は残っている刀の目を避けるようにそっと御手杵クンのほうへと近付くと、御手杵クンは屈むようにして僕に尋ねた。
「なあ……なんか食いもん持って行くか?」
 すっかり忘れてた……わけじゃあない。御手杵クンが気にしているのは僕たちのように人の身を得たのに、主には見えないあの弓の娘だ。この騒ぎで抜け出す暇のないままもう夜中近くになってしまっていた。
「もう夜中だしねえ……あの娘が実際にはいくつなのかは知らないけど、まあ年頃の娘を訪ねるには憚られる時間かな」
「そうかあ? 腹が減るほうが大事じゃないか?」
 御手杵クンが真顔で尋ねてくる。本気で娘の腹具合の心配してるのはわかる。
「竈番以外にも手入れ部屋に出入りする刀がまだいるし……主に伝える前に皆に知られるのだけは避けたいしね」
「あー、確かに俺が動くと目立つよな……」
 御手杵クンががっくりと首を折る。
「役に立つって、難しいな」
 力なく笑う御手杵クンにいつものような快活さはなかった。そう、御手杵クンも発言こそしなかったけど今夜や茶の間で見せていた表情はいつも僕に見せているものとはちょっと違ったんだよね。本丸で雛鳥のように僕を追いかける御手杵クンではなくて……うん、やっぱり君は槍なんだなあと僕は思ったんだ。そろそろ本丸での生活についての教育係は卒業かな。
「まあ、君が目立つのは仕方ないさ。それが生かしてこその槍だろうからね。だから、ここは隠蔽値の高い僕に任せてよ」
 茶の間に満ちていたあの熱気はすっかり失せて静けさを取り戻していた。それでも竈番や手入れ部屋を出入りする刀が行き来している。僕は翌朝、何か食べるものを持って必ず様子を見に行くと御手杵クンに告げた。御手杵クンは娘の様子をちゃんと報告するよう僕に念を押し、ようやく自分の部屋へと戻っていった。
 さて、御手杵クンに任せてよと大見得を切ったからにはそれだけの働きはしないと僕の沽券に関わる。
 僕は翌朝の算段をつけてから自分の部屋に戻ったものの、眠りに落ちそうになるとあの娘の顔が浮かんでは現に引き戻されていた。あの娘が笑ってみせたその頬は、幾筋もの涙で濡れていた。泣くことを止めることができないほどなのに、あの娘は何故笑ってみせたのだろう。納得のいく理由が見つからないまま僕は朝まで天井を眺めていた。それでも夜は明ける。僕は娘への差し入れを調達しようと訪れた厨で、昨夜、大阪城へ出陣した部隊のその後を聞かされた。
 結局、あれから出陣した部隊は、挑んだ階層の本陣へ辿り着くことなく、重傷者を出し帰還した、と。[newpage]]
 早朝の鎮守の森は実に清々しい。石段を登り社の前まで来て僕ははたと首を捻った。あの娘、社で過ごすとは言ったけどまさか社殿の奥にいるのだろうか。初めてここで見たあの娘の姿を思い出す。あの娘、神が降り立ったと言うよりは、あれは神託を受けた巫女のようだった。そうだとするとここに祭られている神に仕える身で拝殿奥へ上がり込むことはないだろう。ならば社殿脇の社務所はどうかと目を向けるが、戸は閉まっていて中は窺い知れない。用心に鍵は掛けているが、たまに境内の掃除に来たりしていれば鍵の在り処はすぐにわかるようになっている。ちょっと探せばみつかるだろうし、なんとなくあの娘はこの社のことは既に知っているように思えて、ここで夜を明かしたのだと思えて仕方なかった。ただ、黙って押し入るのもねえ……。
 社務所に向かって歩いて行くと、ふと戸の前に木の実や果実が置かれているのが目に入った。偶然落ちたにしてはきれいにひと処にまとまっている。どうしてこんなところにと不思議に思っていると、一羽の鳥が目の前を横切り赤い実をそこへ落としそのまま飛び去った。まるでわざわざ運んできたみたいだと感じていると、今度はカサと草むらが揺れる。鹿がこちらの様子を窺っている。何か口に咥えているものがある。僕はあの晩のことを思い出す。あの夜、この里山に住む動物がここに集っていた。厳密には本丸の施設ではないこの場所は、本丸の時空と里との緩衝地帯のようなものだ。動物は自由に出入りできるが、こんなにも生き物の気配がこの山にあったろうか。どちらかというと僕は生き物から警戒されていた気がするのだけど。
 目を閉じて深く息を吸う。濃密な命の気配が肺に広がり、僕の全身を駆け巡った。ああ、そうか。あの晩、この山が総ていた数多の生命が僕らの時空に解き放たれたんだ……。突拍子もないことを思いついた自分に思わず苦笑いする。まあ、仕方ないよね。あんな光景を見ちゃったらこの山には僕の知らない何かが存在している、って思ってしまうだろう? 怪異には慣れている僕でもさ。
 僕は持ってきた握り飯の包みを木の実、果実の山の傍らに置いた。
「巫女姫へのお供えだよ。ちゃんと食べてくれるかな」
 誰にともなく小さく告げると、僕は社を後にした。石段を下りる僕の背中には、たくさんの生き物の視線が注がれていたけれど、僕は振り返ることなく本丸へと戻っていった。
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 昨晩の大阪城出陣について報告が行われた大広間は、主を前にたいそう重苦しい空気に包まれていた。何しろ主の命に背いたとまでは言わないが、無理な進軍は無用とする方針にも関わらず重ねて出陣した上、重傷者を出してその任を全うすることなく撤退したのだから。主が本丸に戻ったのは僕らが朝餉を済ませた頃だった。蜂須賀が事の一切を報告した後、主は昨晩の出陣部隊に加えすべての男士を広間に集めた。ただ一振、重傷を負い手入れ中の石切丸を除いて。 その場で主は改めて蜂須賀に昨晩の報告をさせた。軍議に参加していなかった短刀や脇差にも経緯を知っておいて欲しいからだ、と主自らが望んだことだ。そして報告後に主は改めてこの本丸では負傷してまで無理に進軍する必要はないと僕らに宣言した。この本丸の存在意義は一義的に他の本丸では為し得ない調査を遂行することであり、戦績は二義的である、と。それぞれの男士には刀として負っている歴史やその時代に生きた人間の願いがあり、誰が欠けても任務の遂行に支障がでる。だから必ず全員が折れることなく帰還すること。それがこの本丸の主の元に集い、戦う男士に課せられた使命なのだ。主はきっぱりと僕らにそう告げると、何かを考えるように目を伏せ口を閉ざしてしまった。重苦しい沈黙がしばし大広間を支配するが、僕ら刀剣男士は誰一振として自ら口を開くものはいなかった。
 どのくらい経ったろう。主の両の膝の上にあった手にぐっと力が入る。主は顔を上げ、しっかりと前を見据え僕らに改めて言い渡した。
「君達が武勲を上げるために日々努力を重ね、そして果敢に出陣してくれることに感謝する。そして、今回のことも僕は決して功名心に駆られて先走ったとは思っていない。だが、僕のためにその身を危険に晒すような真似は以後、慎んでくれ。僕は……君達がその存在を賭すに値しない」
 場の空気が戸惑いに揺らいだ。主は覚悟していたという表情でそれを見ると、場が落ち着くのを待って静かに口を開いた。
「僕は、審神者として必要な力を総て満たしてはいない。それでも政府が僕に審神者としての任を与えたのは、事務方だけでなく実行部隊にも歴史研究者が必要とされたからなんだ。僕より優秀な歴史学者なんて世の中にはたくさんいる。むしろ研究者としては僕はまだ駆け出しだ。そして審神者としては、政府から特別な技術支援を受けているこの本丸があって初めて、君達を召喚することができた。つまり、僕は……」
 一瞬、主が言い淀んだ。それでも僕らから視線を逸らすことなく主は言葉を続けた。
「僕は研究者としても、審神者としても、中途半端な存在だ。それでも、その両方を持つ者が他にいないのであればと僕はこの任を受けた。そして引き受けた以上、自分の能力の低さを言い訳にはしないと決めた」
 主は一段、声を張り上げた。
「けれど、政府の力添えあってここに集う君達を、自分の功を急いたために失うわけにはいかないんだ。君達は 僕が政府から預かり賜ったこの国の、この時代の宝だからだ。どうかそのことをわかってほしい」
主は立ち上がると蜂須賀の前に出て、懐から何かを出して手渡した。蜂須賀はうやうやしくそれを受け取り頭を垂れた。
「任せきりで……済まなかったな。今、僕ができるのはこれくらいだ」
 蜂須賀にそう告げると、主はそのまま自室へと戻っていった。
 主が去った後の大広間で、僕らは動揺を隠せないでいた。
「政府のお力添えあると言えも、僕をここへと導いたのは間違いなく主君です。僕は主君に、主君は時の政府に、それぞれがお仕えする身。わかっていたはずなのに、僕たちが未熟なせいで……主君に、気を遣わせてしまったようですね」
 加賀は前田家に伝わることから前田籐四郎と呼ばれる粟田口吉光作の短刀は、肩を落として項垂れた。守り刀として警護の任に就くことが多かった彼は、いつも主が気持ちよく本丸で過ごせるよう心を砕いていた。その主が吐露した胸の内を慮っているのだろう。
「政府がどうとか関係ねーよ。誰がなんと言おうと、俺たちの主さんは主さんだろ?  主さんのために戦ってこその俺たちじゃねーか」
 茎に不動明王が刻まれている、二字国俊作の愛染国俊が拗ねたような声を上げた。
「ていうか、僕ら政府の人になんか会ったこともないしー」
 愛染と兄弟刀の蛍丸は両手を頭の後ろに不満げにふんぞり返った。
「よく修理にいろんな機械持ってくる人は政府の人じゃないのか?」
「政府から言われて来てるって言ってたから、政府の人とは違うんじゃない?」
 刀身こそ短刀と大太刀とでまるで異なるが、顕現した姿では愛染のほうが少し上背が高い。ひと月ほど早くにやってきていたこともあり、愛染が蛍丸の世話を焼く姿をよく見かけた。戦場でなければ、子犬がじゃれ合うようにいつも一緒にいる、仲の良い兄弟だ。
「俺たちの覚悟が伝わってないわけじゃあないと思うんだがな」
「おかしな主ですね……僕たちをどう扱うかなんて、主の好きにしたらいいのに。一体、何に遠慮してるんでしょう」
 共に織田信長の元にあった薬研と宗三左文字が言葉を交わす。広間に集っていたそれぞれが胸に抱いた戸惑いは、言葉というかたちをとって近しい刀の間を漂った。蜂須賀は主が自室に退いてからずっと、微動だにせず黙ったままじっと座っていて動く気配すらない。辺りを見回した長谷部クンが小さく溜息を吐いておもむろに立ち上がった。
「とにかく、夕刻には大阪城に向けて開門の手筈が整うはずだ。当番はそれぞれの持ち場に戻れ。それと……主の望み通り、無茶をせずに勝ち続けるためにはもっと強くなるしかないぞ。ここで無駄口を叩いているくらいなら鍛錬でもしたほうがずっとためになる」
 広間を早足で後にする長谷部クンの口調はいつもより静かで、だからこそすとんと腑に落ちたのか、皆、顔を見合わせるとそれもそうだと次々に長谷部クンの後を追って部屋を出て行く。それに続こうと立ち上がろうとしたとき、ふと上げた目線の先に違和感を覚える。長押に弓がない。昨日、御手杵クンが戻したはずなのに。あの娘が自分でそこに戻すように言ったのだ、黙って持って行くことはしないだろう。僕は気に掛かりながらも皆に続いて大広間を後にした。
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 しばらくして、僕は母屋へとやってきた。主にどうしても確かめておきたいことがあるからだ。僕は辺りに誰かいないか確かめようと廊下から大広間の様子を窺うとぽつんと一振、床の前の軸の前で微動だにしない刀の姿を認めた。蜂須賀だ。そう言えば昼餉の時間、庫院でも茶の間でも見かけた覚えがない。まさかあれからずっとこうしていたのだろうか。蜂須賀はじっと前を見詰めている。確か床の間には「只管打坐」と書かれた掛け軸が掛かっていたはずだ。何か声を掛けようか迷っていると、大広間の反対側から明るい声が響く。
「はーちっすか!」
 乱クンの声だ。う~ん、彼には僕が気配を消しても気付かれてしまうかもしれないな。僕は仕方なく廊下の奥へと下がった。
「みんな、心配してるよ」
 蜂須賀は黙ったままだ。
「蜂須賀のせいじゃないって、みんなちゃんとわかってるし……」
「主に……」
 絞り出すような蜂須賀の声が大広間にぽとりと落ちた。
「何? 主さんから何か言われたの? 僕がちゃんと説明し――」
「違うんだ、乱」
 声の響き方から、恐らく蜂須賀が乱のほうへと振り向いたんだろう。乱は言葉を呑んで蜂須賀が続けるのをじっと待っている。しばし沈黙が流れる。
「主に……謝らせてしまった。それも、皆の前で……俺は、まだまだだな」
 乱に向けた最後の台詞だけ、肩の力が抜けたような本音を滲ませた声色だった。
「蜂須賀のせいじゃない。僕だってーー」
 この本丸最初に顕現した刀、蜂須賀虎徹。そして主がその蜂須賀と共に鍛刀した乱藤四郎。以降、どれだけの刀が顕現しようともこの二振が主にとって特別であることに変わりはない。それは主が特別に目を掛けているとかではなく、僕らが彼らに一目置いているという意味においてだ。もちろん、主にしても一から本丸を立ち上げるのに奔走した彼らを何かと頼り気に掛けているのはわかる。でも、それをなるべく表に出さないようにしているのも伝わってくる。それは彼らも同様だ。だけど、彼ら二刀だけのときにはそんな気負いから少しは解放されるのだろう。
 僕はできればこのまま立ち去りたかった。でもうっかり主の部屋とは反対側に身を隠してしまったものだから、不本意ながら立ち聞きせざるを得なかった。大広間の引き戸が開いている以上、向こう側へ歩き出せば気付かれてしまう。まあ、こっちに出てこられたら鉢合わせするしかないのだから、あんまり隠れている意味もないのだけどね。
「さ、お昼済ませよ。歌仙が残しておいてくれてる」
 乱が蜂須賀を促す。うん、昼餉に向かうならこちらとは反対側から出て行くだろう。僕はほっとしてゆっくりと控えの間に向けて足を踏み出した。
「趣味悪いなあ、立ち聞き?」
 背後で揶揄うような声がした。やっぱり気付かれてたかあ……。僕は肩越しに乱に視線を送り応える。
「主に用があって来たんだよ。蜂須賀の邪魔をしちゃ悪いと思ってさ」
 乱が上目遣いに僕を凝視する。
「ふ~ん……ま、信じてあ・げ・る」
 乱はくるりと裾を翻した。
「青江はなかなか本音を掴ませないけど、嘘も吐かないこと、僕、知ってるから」
 振り向き様に思わせぶりな視線を送ってくるとそのまま立ち去っていく。
「そうそう、あと主さんを困らせたりもしないよね」
 振り向きもせず、上機嫌で釘を刺してくる乱クンのなんと頼もしいことか。僕は肩を竦めると乱クンの背中を見送ってから主の部屋へと向かった。
 今し方無人になった大広間、そして主の部屋に続く控えの間、誰もいないことを確認して僕は主の部屋の外から声を掛けた。
「主、いるかい? ちょっといいかな」
 入り口の札は在室。声を掛けるべからずとはなっていないから、少しなら中座してくれるはず。ところが意外な言葉が返ってきた。
「いいよ、入ってくるといい」
 僕は驚いた。任務や執務についてであれば僕らは主の部屋に集う。でもそれ以外のちょっとしたやりとりでは僕らや無闇に主の部屋に立ち入らない、この控えの間で済ませるのが常だったのだから。僕は戸惑いながら扉に手を掛けた。
「やあ、ちょうどよかった。茶でも入れようとしてたところだ」
 主は脇机の前に立って茶器を手にしていた。
「僕の分はいいよ、聞きたいことがあって。すぐ失礼するから」
 主は茶の支度を代わろうする僕をやんわりと遮り、茶をふたつ用意してくれた。控えの間は和室だが、この主の部屋は洋室だ。主は茶を手に、窓の横に立つと僕のほうへと向き直った。
「何を、聞きたいんだい?」
 明るい窓を背に立っているからだろうか、主は少し疲れているように見えた。
「うん、あの大広間にあった弓のことなんだけど……」
 僕の言葉に主が勢いよく振り向いた。よほど驚いたのか眼鏡の奥の瞳が大きく見開き、何かを言おうと開いた口はただぽかんとそのまま主の顔に乗っている。
「っふふ……君のそんな顔を見るのは初めてだね。それを僕なんかがもらってしまっていいのかな」
 ちょっと軽口を叩いて場を和ませようとしただけだったんだけど、それでも主はまだ固まったままだ。
「知らなかったなあ、君のそんな顔
「え? あ、ああ……」
 主は鼻先に落ちかけた眼鏡を直すと決まり悪そうに笑った。
「てっきり、さっきのことを聞かれるのかと思ったよ」
「先刻のこと?」
「僕の審神者として能力について」
 そうか、だから誰でも入れる控えの間ではなくここに招いたのか。
「僕にとってそのはなしはあまり重要じゃない、かな。僕は主のために僕ができることをするだけだよ」
 それを聞いて主はふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「そうだね、にっかり青江はそういう刀だった」
 主はゆっくりと椅子に腰を下ろすと少し屈んで、立ったままの僕を見上げるように首を傾げてみせる。
「でも、君は敏いから。僕の嘘なんてすぐに見抜いてしまうだろう?」
「主は嘘は吐いていない。それに、僕は君にどう使われようと構わないんだ。使われないほうがきっと辛い」
 僕がそう言うと、主はしばらく僕をじっと見詰めた。それから深呼吸をひとつ。少し項垂れてから頭を掻くとすっくと背筋を伸ばした。
「ありがとう」
 主の声は穏やかで、深く、少しだけ愁いを含んでいた。
「あの弓、槍掛けに置いたのがよくなかったね。もう実際に使わなくなってからはああやって家に置いてあったからうっかりしていたよ」
 そう言えば、御手杵クンが戻したはずの弓の姿が長押になかった。まあ、あの娘が今いるのは本丸ではなく社だけどね。とは言え、主が弓が元の場所になかったことを僕が気にして訊ねてきたと勘違いしてくれたのは都合がよかった。そんな僕をよそに主が続ける。
「注文している弓立てが届くまでは申し訳ないけどここに居てもらうことにしたんだ」
 主が向けた視線の先、部屋の角にはあの弓が立て掛けてあった。
「手入れもちゃんとしなきゃいけないんだろうけど、何しろ古いものだから下手に触れて痛めてしまってもいけないしね」
 主の弓に向ける眼差しはとても優しい。社に居るあの娘に、この主の声は届いているだろうか。
「ねえ、主」
 主が弓から僕のほうへ向き直る。
「君は僕ら……つまり刀剣男士を実際こうして目にしているわけだけど」
 僕は躊躇いがちに口を開いた。
「ほかにも付喪神って宿ると思うかい? たとえば……主の家に伝わるあの刀や弓に」
 主は少し考え込んでから、静かに切り出した。
「興味深いね。実は君たちのような名刀でもないのに、何故ここへ持ち込むのにあんなに検分が必要だったのかいまだに詳細が知らされていなくてね。さっき言い掛けたが……例外ながらも審神者である以上、必要な力が全く備わってないわけじゃないんだ。ぼくの場合、特筆すべきとされたのは物に宿る想いを励起する力、とでもいうのかな。だけどそれを具現化する能力が基準に満たなくてね。あくまで噂なんだけど、力のある審神者の中には政府登録の刀剣男士以外にも物に宿る力を呼び起こし同じように使役できる者もいるとかいないとか。そして我々の戦況に有利に働く限り政府はその存在を黙認するわけだが、実際には快く思わない者もいる、とね」
 主はどことなくうれしそうに目を細めた。
「僕が不完全な審神者であることで君たちに迷惑を掛けるのが心苦しいのだけど、もし僕が政府登録刀剣男士以外の存在を惹起させたら面白いだろうね。まあ、持ち込み許可がでたということはそんな兆しはなかったということだろうけど。でも残念だなあ、もしそうであったとして、僕はお目に懸かれないから」
「えっ」
 僕は思わず声を上げた。もしかしてあの娘の存在を感じていたのか、と思ったのだ。でもそうではなかった。
「さっき言ったろう? 僕はその姿を具現化する能力に劣ると。もし本当に僕の家の刀に付喪神が顕れて、君たちにはそれがわかるのに僕にはわからなかったら……主失格かなあ」
 悪ふざけしてるわけではない主の、その冗談めかした言葉が突き刺さる。
「そんな風に言うもんじゃあないよ、主」
 主の言葉の端々に窺える自嘲の気配に(それでも、これまで任務を完遂せずにやむを得ず撤退することなんてなかったじゃないか)と言おうとして僕は口を噤んだ。今回のこと、主に責はないとこの本丸でどんなに僕らが思っても、政府に仕える審神者としては何かしら思うところはあるのだろう。
「ねえ、主」
 僕はゆっくりと立ち上がった。
「もし、付喪神が姿を顕したら……僕らが主に代わって歓待するよ。彼らにとっても、君が主であることに変わりない」
「ああ、ぜひそうしてくれ」
 僕に向けた主の表情は、少し残念そうで、同時にどことなく寂しそうに思えて、僕は弓の娘のことには触れずにそのまま部屋を出て行った。
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 母屋と出ると通り土間で所在なさげにしている御手杵クンが僕に気が付き手を上げた。
「どうだった?」
 御手杵クンが声を落として僕に聞くことと言えば、今はひとつしかない。
「うん、朝早くに行っておいてよかったよ。今日はもう本丸を留守にできるような雰囲気じゃないからね。たぶん、夕餉の前には出陣になるんじゃないかな。いつ声が掛かってもいいようにしておかないと」
「元気してた?」
 心配そうな御手杵クンに、僕は目にしたことを正直に伝える。直接は会えなかったこと、たくさんの動物たちに見守られていること。
「出陣の詳細さえ決まれば落ち着くだろうから、夕方に食べるものくらいは届けてくるよ」
「わかった……今日は青江に任せるよ」
 御手杵クンにも思うところはあるようだけど、それ以上は言わずに立ち去った。
 陽が山の端さしかかる頃、出陣時刻も決まりそれまでは待機となった僕はもう一度、社へ足を運んだ。朝と違って辺りには生き物の気配はなく、境内は静まりかえっていた。ただ、社務所の入り口に積まれていた野山の幸はきれいに片付けられていた。獣や鳥が食べ散らかしたのならこうはならない。「人」の手で持ち去られたようにしか見えなかった。
 ここへ供えたものはおそらくあの娘の手に渡っている。そう確信した僕は手にした包みをそっと足元に置いた。
「ほうほう」
 頭上で声がした。目を凝らすと梟が一羽、梢の上でこちらをじっと見据えている。
「君が今夜の見張り役かい? よろしく頼んだよ」
 僕はうやうやしく挨拶し、本丸へと下っていった。
 翌日、僕が社を訪れたのは陽も高くなってからだ。第一階層からの探索が再開した大阪城は、負傷率が上がるまでは短刀と脇差、打刀が交代で出陣する。僕は今朝の第一陣に名を連ねることが昨夜の内に決まっていたから、今朝の娘への差し入れ調達は御手杵クンが買って出てくれた。僕が帰還する頃合いで、御手杵クンが部屋まで朝餉を持ってきてくれる寸法だ。それを娘に届ければいいと思っていたのだけど、僕の部屋にはなぜか僕のお膳とそれとは別に包みがひとつ用意されていた。
「へへっ、青江が出陣している間にって、俺、畑当番を粗方終わらせたんだ。働き過ぎて腹減った~ってぼやいてたら、こびる用意してくれたんだ」
 僕の部屋でくつろいでいた御手杵クンがにこにこしながら迎えてくれる。なかなかの策士だねえ、自覚はないのだろうけど。
「じゃあ、行ってくるよ」
 立ち上がって障子戸に手を掛けた僕を御手杵クンが子犬のような見上げる。
「やっぱり俺が行ったら……駄目だよな?」
「その体格は嫌でも目立つからねえ」
「だよな」
 御手杵クンはがっくりと項垂れる。
「君が怪しまれずに行ける方法、何か考えてみるよ」
「俺も、何ができるか考えてみる」
「大丈夫だよ、君の機転でこうして届けにいける。大助かりだ」
御手杵クンが持ってきてくれた包みを掲げて、にっかりと笑いかける。御手杵クンはぐっと拳を上げてちょっと照れ笑いを見せてくれた。
「じゃ俺、自分の部屋に戻ってるわ」
 まだ本丸での生活に慣れていない刀剣男士と教育係が共に行動するのはごく当たり前のことだから、僕と御手杵クンが一緒にいることを疑問に思う刀はいない。御手杵クンと一緒に部屋を出て、僕はひとり山へと向かった。
 今日の社は人の気配が残されていた。境内はきれいに掃き清められ、社務所もなんだかさっぱりと小綺麗になったように思う。昼間なら、様子を窺って声を掛けても差し支えないだろうと、そっと社務所の戸へと手を伸ばしたとき、ばさばさと鳥の羽ばたく音が響く。振り返った先に人の気配はない。でも、社殿の隅に何か白く積み上げられているのに気が付いた。
「何を集めているんだろう」
 近付いて見れば、それは小さな花だった。小鳥が集めたにはしてはその山はきれいに整えられていて、どうみても人の手で置かれたとした思えなかった。顔を近付ければなんとも言えない匂いが漂う。
「これは……香りをどうこうするものではなさそうだねえ」
 思わず顔をしかめたが、ふとその脇に僕が昨日差し入れを包んできた布が目に入った。きれいに畳まれて、猪目型の葉が一枚、小さな石の重しと共に置かれていた。
「この花の葉なのかな」
 どうしてわざわざ葉を置いたのか、そのわけは手に取るとすぐにわかった。
「へえ……」
 一体どうやって書いたのか、葉の裏にはていねいに文字が綴られていた。

 ごちそうさま
 おいしかったです
 でももう大丈夫
 ここには食べるものがたくさんあるから
 ありがとう

 僕は葉の茎を摘まんで目の前でくるくると回す。するとどこからか栗鼠がやってきて僕の手の中の葉を奪って肩で何やらごそごそとしている。あの晩も感じたことだけど、この山の生き物は僕を恐れないよね。自慢じゃないけど、どちらかと言えば嫌われているんじゃないかと思っている。畑当番でもたくさんの動物が行き来しているのを目にするが、多くの場合、遠巻きにこちらを見ていて近寄ってくる様子はない。恐る恐る肩の栗鼠に手を伸ばすと、栗鼠はぱっと葉を放って地面に飛び降りると、葉の周りをくるくると回り出した。僕はしゃがんで葉を取り上げてみる。おや、広げてみたもののさっきまで読めた文字がぐちゃぐちゃだ。きれいに伸ばしてみてももう文字は見て取れない。もしかして――僕は葉の端を爪で押してみた。ああやっぱり、強く押した部分だけ葉の色が濃く濁った。
「なるほど、強く押すと変色するんだ……」
 すると栗鼠がその場で何度も何度も飛び跳ねる。まさか人の言の葉がわかるわけじゃないだろうけど、でもそれを言うなら僕だって今でこそ人の身を纏っているけど元は刀だしねえ。 栗鼠はどこかへ行くでもなくその場で僕を見上げている。栗鼠だけじゃない、僕の様子を窺う生き物の気配はそこここに感じる。僕は花の脇に朝餉の包みを置き、紙と硬筆を忍ばせた。
「御手杵クンが気を利かせて用意しておいてくれたんだ。遅くならずに持ってこれてよかったよ。あと、何かあったらこれに書き付けておいてくれないか。葉の裏に文字を刻むより楽だろう? 僕と御手杵クン以外には見つからないほうがいいだろうから、そうだなあ……そこの神籤を結ぶ棚にでも括り付けてくれれば誰もわざわざ広げて読んだりはしないと思うよ」
 おかしな話だけど、僕は大真面目に栗鼠に語りかけていたんだ。
「結び文があれば、君たちがそれを教えてくれるんだろう?」
 僕が栗鼠に囁くと、栗鼠はひょこっと跳ねて藪の中へと消えていった。不思議と、僕の伝言はちゃんと娘に伝わる気がしている。まあ、声の届くところに娘が身を潜めてることがないともいえないしね。娘の気配を思い出そうとして、不思議に思う。本丸ではあまり意識せずにいたけど、ここでは僕に向けられる数多の命に娘の気配が紛れて、まるで雲を掴むような気分になる。鋼の僕らと、かつてどこかで根を張り生きていた竹の君との違いなのかな。
「理由はどうあれ、主が守る社の住人たちに好かれているのは良いことだよね」
 空を仰げば、梢の間は青く澄み渡り、絶え間なく鳥がさえずる。麓の本丸では御手杵クンが落ち着かない様子で僕を待っているだろう。あんまり焦らしたら申し訳ない。僕は御手杵クンが待つ庫院へと、早足で駆けていった。
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 次の日は僕の出陣と御手杵クンの遠征とですれ違いが続き、僕らがようやく顔を合わせたのはもう陽も傾き始めた頃だった。ひと月ほど前に、主と僕らは社である祭礼を行った。でもそのときにはまだ御手杵クンは顕現していなかったんだ。御手杵クンに社のこと、祭礼のことを伝える――いい口実じゃないか、と僕らは堂々と社へと来たのだった。
「手ぶらでいいのか?」
 鳥居を過ぎて、辺りを窺いながら御手杵クンが僕に尋ねる。
「厨からあんまり頻繁に持ち出しても怪しまれてしまうし、なにより本人が食べ物には困っていないそうだからねえ……とは言え」
 落ち着かない様子の御手杵クンの目の前に掌をぱっと広げてみせる。
「ッフフ……茶菓子だよ。前に遠征のお土産を残しておいたんだ」
 御手杵クンの顔がぱあっと明るくなる。
「なあんだ、それならそうと言ってくれよ~」
「誰かいるかもしれないところでは知らんぷり……だろ?」
 僕がそう言うと、御手杵クンはぶんぶんと首を大きく上下して頷いた。
「大丈夫、今ここには僕らのほかには誰もいないよ」
「脇差って偵察、得意だよな」
「まあね」
「俺は何ができるんだろうなあ」
「刺すのが得意なんだろ?」
「そうなんだけど……それをどこで生かせばいいのかまだわからないんだよなあ」
「まあまあ、焦らない焦らない。練度が上がればもっといろんな戦場にも行けるしさ」
 そうこうしている内に僕らは石段を登り切った。僕は一通り祭礼のこと、境内にある建物を簡単に案内した。
「この社務所にいるのかなあ」
「たぶんね、社殿はよほどのことがなければ開け放したままだし」
「呼んでみよーか」
 御手杵クンが大声を上げようとするから僕は慌てて制した。
「駄目だよ、風に乗れば本丸まで聞こえちゃうよ」
「あ、そ、そうか」
 御手杵クンが頭を掻く。その頭の上にどこからか小鳥が一羽、降りたって、僕をじっと見下ろしている。
「どうやら、お遣いが来たみたいだよ」
 でも僕が手を差し伸べると、小鳥はぷいと御手杵クンの頭から飛び立ってしまう。
「俺の頭、居心地悪かったのかなあ」
「いや、そうじゃないみたいだよ」
 飛び立った小鳥が向かったのは神籤の棚だ。
「文が届いているらしいから、行ってみようよ」
 訳がわからず不思議そうな顔をした僕は御手杵クンを神籤棚へと案内すると、思った通りそこには古びた和紙の中にひとつだけ真新しい白い結び文があった。
「昨日、君が用意してくれた食べ物と一緒に書くものを置いていったからね」
 僕はその紙片を棚から外す。

 君映す 水内鏡に 無き身なら
 居ぬ心こそ さざ波立つらむ

「へえ、歌をよこすとは……考えたね」
 連なる文字に思わず呟いた。
「どういうこと?」
 僕の手元を覗き込んで御手杵クンが尋ねてくる。
「万が一誰かに読まれても怪しまれない。誰に宛てたものかなんて詮索されないからね」「なるほどなあ。でもどういう意味?」
「う~ん……主に見えない自分は存在しないのと同じなのに、どうしてないはずの心が揺れるのか、ってことかな」
「存在しない、か」
 そう呟くと御手杵クンは黙り込んだ。何か思うところがあるのだろう。僕は何も言わず、娘への返事をしたため始めた。

 君が行き日長くなりぬ山たづね
 迎へ行かむ待ちにか待たむ ※1
  ※1 万葉集 磐之媛命より

 っふふ……まだ二日しか経っていないのに、ちょっと大げさだったかな。
「えっ、青江も歌詠むの? それ、刀剣男士に必要な教養なの?」
 書き終えた手紙を目にして狼狽える御手杵クンに、僕は少し言い淀む。
「いや……ちょうどこう……伝えたいことと似た内容の和歌があってさ。既に世にある和歌なら、もしほかの誰かが読んでしまっても言い逃れできる……と思って」
 御手杵クンはそれを聞くなり満面の笑みを浮かべた。
「そっかあ、青江も別に得意って訳じゃないんだな。よかった~」
「なんかすごくうれしそうだね?」
「だってさあ、いっつも眉間にしわを寄せて雅がどーの風流がどーの言ってる刀がいるだろう?」
 僕の脳裏に短冊と筆を持った歌仙クンが浮かぶ。
「俺もここでの暮らしが一通りわかったら、次は和歌を読む特訓とか受けなきゃいけなくなるのかなあ? って心配になったんだよー」
「そういうことか。仕えた主の影響とか時代柄、歌を詠むのに長けた刀も多いけど、別に男士必須科目とかじゃないよ」
 僕は畳んだ紙を神籤棚に結んで、社殿へ向かった。今日は白い花ではなく竹筒がいくつか並んでいる。
「これ、あの娘が作ったのかな」
「まあ、社務所に山仕事の道具は揃ってるけど」
「手伝ってやりたいけど、勝手に触っちゃだめだよな」
「そうだね、あの娘がこれをどうしたいかわからないと手の出しようがない。それに、長居できないからね」
 御手杵クンを案内すると告げて出てきてる以上、長々と本丸を留守にしてると誰かが探しにこないとも限らない。僕らは茶菓子を竹筒の脇に置くと参道を引き返した。
「ところでさあ」
 石段を下る僕の後ろから御手杵クンの声が降ってくる。
「結局、青江が書いたのってどういう意味なんだ?」
 僕は振り向かずに歩き続ける。
「まあ、要するに……戻っておいでよ、ってこと」
「そっかぁ」
 御手杵クンが足を止めた。振り返ると、御手杵クンは両手を洋袴の隠に突っ込んだまま社を見上げていた。
「そんな格好で歩いてると転んじゃうよ」
「あ、うん……」
 御手杵クンの生返事に、僕はまた前を向いて歩き出す。青く広がる空に向かって、戻っておいでよ、と呼びかけながら。
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 次の日、本丸を歩く僕の眉間にはきっと皺が寄っていたことだろう。別に、御手杵クンにいいところを見せようと和歌を書いたわけじゃない。ちょうど伝えたいことに沿った歌をたまたま知っていた、というだけだ。でももし僕が昨日送ったのが、和歌ではなく話し言葉だったら、返事は違っていたかも知れなかった。

 山里に 薬降るらし
 我が袖に 零れし露の
 集まりて 水之辺満つれば
 
 いざ行かむ 尚武たずさえ
 君待つ里へ

 尚武……しょうぶ……菖蒲かな。この辺りはまだ咲くには少し早いけど。水辺を満たすほど泣いていたのか。でも薬降る……薬が降ってくるとはどういうことなのか、皆目見当が付かない。山里に降るなら雨だろう。まさか雹や霰じゃないことを願おう。でないと花が駄目になってしまう。
「よお、にっかりの旦那。難しい顔をしてどうしたんだ」
 洗濯場に差し掛かったとき、薬研藤四郎が僕に気が付き声を掛けてきた。そうだ、もしかしたら彼なら何かしっているかもしれない。
「ねえ、薬が降るってどういうことか、君かわかるかい?」
「薬? 薬が空から降ってくるってか? そりゃずいぶん都合がいいな」
 薬研クンは手にした白い中衣をパンと張り衣紋に掛けた。
「だよね」
 僕は肩を竦めてみせた。
「まあ、今時分は何もしなくても食いもんは傷みやすいし黴も増える。それこそ雨が薬になってくれりゃあ楽でいい」
「ああ、そう言えば皐月って悪月とも言ったっけね。気を付けなきゃいけないなあ」
「腹を下すと大変だぞ、人の身は」
 娘の差し入れのことが気になってうっかり口にしてしまったが、薬研クンには怪しまれなかったようで何よりだ。
「それは……避けたいな。まだ大阪城出陣が控えている」
「全くだ。でも安心してくれ。簡単な薬なら用意できるぜ? 味は保証しないがな」
「良薬は口に苦し、だろ? ま、そのときは頼むよ」
 僕はそこで会話を終わらせて歩き出した。
「そうだ、にっかりの旦那」
 背中で薬研クンの声がした。
「端午の節句、五月五日のことを薬日とも言うな。何か関係あるかもしれん」
「へえ……」
 僕は驚いて振り向いた。
「歌仙の旦那から歌のお題でももらったか?」
 薬研クンが僕を面白そうに見ている。
「当たらずも遠からず、かな。気の利いたことを言ってみたくてね」
 僕はにっかり笑ってみせてその場を立ち去った。うまいこと誤魔化せたとは思う。
 御手杵クンが遠征で留守なので、僕は出陣まで部屋で過ごした。薬日か。薬が降ったら里に下りる。つまり五月五日か六日に戻ってくるということだろうか。明日、御手杵クンと迎えに行ってみようか。たぶん、娘がひとりで本丸に現れたりしたら大騒ぎだ。御手杵クンがあれだけはっきりと姿を見て言葉まで交わしたのだから、ほかの男士もわかるだろう。いや、その前に少なくとも蜂須賀には相談しておくべきかな。彼なら主の悪いようにはしないだろうから。
 僕らには見えているけれど、主の目には映らない弓の娘。いや、もしかしたら主にも見えるようになっているかもしれないか。だって、あの大広間での娘の姿は僕にしか見えていなかったのに、後になって御手杵クンには見えるようになったんだから。こうも悩むことになるとは。
 僕は答えの出ないまま大阪城への出陣を迎えた。戦っているあいだは娘のことを考えることはなかった。そして帰城したのが夜更けだったこともあり、蜂須賀の元を訪れるのは翌朝にして眠りに就いた。
 夜が明ける頃、恵みの雨は人知れず里を静かに潤して過ぎていった。
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