刀剣乱舞にっかり青江で文字書き中。創作審神者(♂)と弓箭女士がいる独自本丸+ときどき他所さまの本丸でにかさに。基本シリアスで独自本丸ものはファンタジー色強めになると思います。

遠い昔に一次創作していた文字書きで、2年前、黒バス伊月くんで突然二次創作に目覚めて創作活動をン十年ぶりに再開しましたが、こちらは当面とうらぶ専用。
#にっかり青江版創作60分一本勝負への投稿は今まで通りぷらいべったーですが、加筆修正したものを順次こちらで公開する予定です。

投稿日:2019年04月22日 00:17    文字数:23,993

刀剣弓箭譚 1 ー旧暦卯月廿十六日、守り神の帰還ー

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とある男性審神者の本丸で出会った、にっかり青江と弓の娘の物語。
前章が出陣だったのに対して、こちらは本丸での日常を。この章からようやく弓の娘が登場します。
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    門土蔵の通用門を抜けほっとしたのも束の間、目の前の通用口で長谷部クンが鬼の形相で立ちはだかっているのに気付いて皆が凍り付いた。
「あれ? なんで長谷部クンがここにいるのさ」

僕は臆することなく横をすり抜け、靴を脱ぎながら声を掛ける。長谷部クン、もといへし切長谷部は黒田家に家宝として伝わった刀だ。こう紹介すると長谷部クンは機嫌が悪くなるけど、かといって元の持ち主の名前を出したところで彼の眉間の皺がなくなるわけじゃあないしねえ。刀の時代の終焉、そのときに誰が僕らを所有していたのかで語られるのは特に珍しいことじゃあない。長谷部クンと僕は大雑把にほぼ同年代南北朝生まれでしかも境遇が似ている大磨り上げされているから、結構気が合うんだ。
「般若の形相で待ち構えているのは歌仙クンだとばっかり思っていたよ」
「歌仙はこんな遅くに帰還したお前たちのために厨だ」
 「それは有り難いねえ」
長谷部クンの視線が僕に逸れてるあいだに、皆が通用口で履き物を脱ぎ始める。歌仙クンはこの本丸で、厨房の両雄と名を轟かせる名刀だ。その雅やかな「歌仙」という名に相応しく、由来はかなり物騒な刀だけど、人の身を得た彼はこの世の雅を追求するのに夢中だ。
 「まったく、歌仙が自ら進んでしていることだとしても、いつなんどき出陣の命が下るかわからんのに、こんな夜中に厨房に立たせるとはお前たちは自分たちの使命をなんと心得――」
「っていうか、長谷部は主と現世じゃなかったの?」
乱の無邪気な問いは長谷部クンの怒りに火を注いでしまった。
「どうしてだと!? 現世に赴く主の警護で俺は部隊を外れたというのに、戻ってきてみればとっくに任務を終えているお前たちが帰還していなかったからだ! 一体、「どこで」、「何を」していてこんな時間になったのか、全員でしっかりと説明してもらおう!」
「はいはい、長谷部クン。僕へのお小言はあとでね。まずは主に報告が先だよ。あ、彼らは先に手入れ部屋へ行ってもらってもいいかい?」
僕は小夜クンと五虎退を見た。
「ん? 何故負傷している。今回の任務は調査だろう?」
長谷部クンが怪訝な顔をする。
「出たんだよ」
僕は素っ気なく答えると、早く手入れ部屋に行くよう小夜くんと五虎退の背に手を添えて促した。
「まさか、遡行軍か!」
長谷部クンは僕らの前へ出て道を塞ぐ。
「それなら、尚更詳細な報告を――」
乱が眉間の皺が更に深くなった長谷部クンの腕を取って横へと押し戻す。
「だ・か・ら、戦闘の負傷者は帰還次第、順に手入れって主の言い付け、守らない気? 主命だよ、長谷部」
主命という言葉に長谷部クンがぐっと口を噤む。
「大丈夫だよ。五虎退はにっかりと、小夜はボクと一緒に戦ってたから、二刀がいなくても報告に支障はないから。ほら、ボクらは主の部屋にさっさと行く」
乱は有無を言わさず長谷部を追い立て歩き出す。さすがこの本丸古参の一刀だ。こういう采配は彼に任せるに限る。長谷部クンもそれ以上何も言わず、素直に主の部屋へと歩き出している。僕は小夜クンと五虎退に手入れ後はすぐに厨にいって歌仙クンから夜食をもらうように言うと、鳴狐と同田貫とを伴って乱たちの後を追った。

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「つまり、翌日の池田屋襲撃のために何か細工をしていた痕跡がある……ということだね」
主は僕らの報告に真剣な面持ちで何か考え込んでいた。
「僕らが見てきたことからすれば、主がそう考えるのに不思議はないよ」
僕は肯定とも否定とも取れない、当たり障りのない返事をする。仕方ないよね、僕らに課せられているのは遡行軍との戦闘であって、歴史の解釈ではない。僕らはただ起きたことを受け入れるだけだ。
「政府へ報告しておこう。ありがとう、今夜はもう休むといい」
主は何か書き付けた後、顔を上げて僕らにそう言った。
「主、あの時代の人間と接触したことへの吟味がまだです」
長谷部クンが口を挟んだ。やれやれ、長谷部クンが絡むとやっかいだねえ。主は少し苦笑いをすると、もう一度居住まいを正して僕らの方へと向き直る。
「その商人は君たちの素性を詮索するようなことはしないと言ったんだろう?」
僕らはまるで合図でもあったかのように全員揃って頷いた。そこに嘘はない証だよ。
「あの時代のものに何か書き付けたりしたりもしなかったろう?」
「貸本に落書きしたりなんかしないよ」
主の問いに乱が返事をした。
「ほら、これなら大丈夫だろう? へし切長谷部は心配性だね。いや、それはそれで僕は助かっているよ。でも、今夜の件は恐らく問題にはならないだろうと僕が判断しているんだ。だから、もういいだろう?」
長谷部クンは苦虫を噛み潰したような顔をしているが、主がそう言っている以上、更に蒸し返すことはなかった。
「そうだ、せっかくだからちょっといいかい?」
主が思いついたように僕に笑顔を向けた。主は何かを知りたくて仕方がないときこういう顔をする。
「その商人の目に、君たちはどんな風に映っていたんだい?」
僕らの風貌を主が自分の意思で制御できない以上、どのように見えていたのかを調査して次に生かせるようにしたいのだと、主が言っていたのを僕は思い出し、なるべく詳しく説明しようと試みた。
「僕と打刀の二刀ふたりは護衛、つまり帯刀して見えてたみたいだね。短刀は幼い兄弟というか……」
僕はちらりと乱を見た。
「ボクは大店のお嬢さんだと思われてたよ! つまり、三人姉弟さんにんきょうだいにその用心棒!」
「なんでそんなことがわかるんだ」
はしゃぐ乱に、長谷部クンが額に手を遣る。
「だって、あの人がボクに見せてくれたのは『都風俗化粧伝』みたいな本だったもん」
乱の誇らしげな姿に呆れる長谷部と楽しそうに聞いている主が対照的だ。
「あとの二刀ふたりは御伽草子みたいな絵物語で……そういえば、ボクのところからは見えなかったけど同田貫や鳴狐たちは剣術の指南書とかだったの?」
突然、乱に話を振られた同田貫が固まる。
「あ? ああ、まあ……その、なんだ……」
「わたくしめは猫に思われたようだったのでおとなしく隅で丸まっておりましたが」
口籠もる同田貫にお供の狐が横から口を挟む。あ、これはまずい。慌てて視線を上げたところで鳴狐と目が合った。
「お三方には錦絵をお見せくださいました。殿方向けでそれはそれは――! ぐむぅっ」
鳴狐が慌ててお供の狐の口を塞いだ。                               
「殿方向けの何だと言うんだ」
長谷部がぎろりとこちらを睨むから、仕方なく僕が口を開く。
「錦絵だと言っただろう? えほんのようなものだよ」
えほん絵本だと? はっ立派な殿方にか」
ほんと、こういうの、さらりと聞き流してくれれば丸く場が収まるのに。それができない刀なんだよねえ、長谷部クン。
「そう、えほん艶本
念押しの言葉を口にしながら横目で主を見ると、主が必死に笑うまいと肩を震わせている。ほら、これ以上吟味せずとも主はお見通しだよ。
「長谷部殿、ご安心ください! 短刀の方々の目には触れぬようわたくしめが尾で隠しておりま――」
口を塞いでいる手を振りほどいたお供の狐がまた話に割り込んだところで、鳴狐はやおら立ち上がるとお供の狐を上着の中に押し込んだ。
「狐を休ませたい。雨に打たれたから、熱でも出したらいけない」
「ああ、もういいよ。僕の好奇心から引き留めてすまなかった。皆も部屋へ戻るといい」
主が僕らにそう告げると、滅多に声を発しない鳴狐がこんなにも喋るのに驚いたからか、それとも主命の前には黙るしかなかったのか、長谷部クンもそれ以上何も言わなかった。
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 主の部屋を出て渡り廊下を厨へと歩く。刀の世にはなかった、庭と廊下を隔てる大きな硝子に、自分の姿がぼんやりと映し出されている。刀剣男士は概ねその刃長に従って人の姿に寄せている。短刀が幼い姿をしているのは、つまりそのためだ。この世に存在する長さに依らないのが人との最大の違いだろうか。僕は南北朝時代生まれだからこの世に生を受けてからの時間を当てはめたとして、まあここに集う刀たちの中で中堅どころの見た目であっても当たらずと雖も遠からず、ではある。まだ成長しきっていない若者の瑞々しい姿は少しばかり面映ゆいねえ。そっと自分の姿に手を伸ばすと、硬質なひんやりとした冷たさが指を通して伝わってくる。この世に存在した時間の長さならそんなに若くもないと思うんだけどねえ。俊敏さを生かせるこの身は悪くない。でも僕は生まれてこの方、この姿だったわけじゃあない。これでも元は大太刀さ。そういうと怪訝な顔を向ける刀もいるけど、あの当時は僕だって大太刀の括りだったんだ。後に大磨上の末、今の僕になったわけだ。
「おい、本当に作戦中、やましいことはなかった、と誓って言えるんだろうな?」
渡り廊下の入り口から長谷部クンがつかつかと近付いてくる。僕は気付かれないよう小さく肩を竦めた。
「っていうかさ、長谷部クンは出陣してもいないのになんであの場にいたかなあ」
僕は振り向くと、両の掌を上に向けて大袈裟に肩を竦めて見せた。
「何か問題でも? 本来、俺があの部隊の隊長だからな。部隊で起こったことはすべて把握しておく必要がある。主も俺がいることに異は唱えなかったろう? 当然だ」
そりゃそうだけど、……ねえ。
「大体お前が俺の代わりに隊長など……まして夜戦が初陣の短刀がいるというのに。お前に慣れていない初心な五虎退に悪い影響を与えないか気が気ではなかったぞ」
「失礼だねえ。僕だってちゃんと隊長くらい務められるし、そもそも君は主の警護のために現世へお供してたんだろう? 任務中に他のことに気を取られるなんて、感心しないなあ」
「っ、何を」
 一瞬、長谷部クンは言葉に詰まったけどコホンと小さな咳払いを一つ挟むと猛烈な勢いで捲し立て始めた。「任務に専念するのは言うまでもない。警護中とは言え、主のご都合で俺がひとりになることもある」
「はいはい」
「そもそも、お前に隊長を任せることに俺は反対だったんだ。いや、戦場ではお前を頼りにしているし、采配も安心して任せられる」
へえ、そんな風に思ってくれてたんだ……でもさ、そこだけ急に口籠もるように小声にならなくてもいいんじゃないかなあ。でもその長谷部クンの言葉を好意的に受け止めようとしていた僕の気持ちはすぐに続いた強い口調に消し飛んでしまったよ。
「だが、いいか! 何を考えているのかわからんようなお前の物言いや行動はだな、この本丸の風紀を乱しかねない。そして、それを許すような空気が蔓延しては、それこそ主、我が本丸の審神者の品格を貶めることに繋がりかねん! 大体、なんなんだ。そのお前の脇差らしからぬ態度といい――」
僕は自分の足先に視線を落として小さく溜め息を吐く。
「おい、はなしをしているときはちゃんとこっちを見ろ! お前の常日頃の言動がそんなだから余計に俺を不安にさせるんだ。さっきも主がああおっしゃるから追求しなかったが、お前たちは本当に短刀たちの前で広げるに似つかわしくないものを見たりしていなかったんだろうな」
おやおや? 短刀に似つかわしくない……ねえ。長谷部クンは何考えてるのかな。
「ッフフ……言っただろう? 錦絵だって。それとも長谷部クン、何か疚しいえほん艶本とやらに心当たりでもあるのかい?」
長谷部クンが言葉に詰まる。その表情が面白くてつい揶揄からかいそうになるが、ふと硝子に映る長谷部クンの姿に目が留まった。君だって僕同様、同じ刀種の中ではどちらかというと老けて見えるだろうに。
「ねえ、長谷部クン……君は、もし自分が磨上前の姿で顕現していたら……そう考えたことはあるかい?」
「な、なんだ唐突に」
突然話題を変えられて長谷部クンが眉を顰める。僕は長谷部クンの背後に回り両肩に手を置くと、硝子の長谷部クンに正対させた。僕より少し上背があるのが癪だねえ。
「長谷部クンは僕よりは成熟した成人男性の型だけど、でもさ」
僕は長谷部クンの肩越しに、耳元で思わせぶりに囁く。
「磨上前なら君は太刀だろう? 今よりもう少し体格が良くて、打撃ももっと強かったかもしれないよねえ」
硝子の表面に映る長谷部クンの瞳がわずかに揺れたような気がした。が、長谷部クンはふいに頭を振って咳払いをする。
「俺は主によってこの姿を得て、この姿だからこそ今ここに存在する。他に何を望むというんだ」
少しばかり呆れたような溜め息が長谷部クンの口端に混じる。
「だってさ、焼けた刀たちと違って僕らは磨上前の姿がここに残っているだろう?」
僕は長谷部クンの肩から心の臓の前へと左の掌を滑らせた。
「君も僕も、腕に物言わせて戦場を駆けていたのはその頃だ。僕なんかこの姿(脇差)になってからはすっかり置物扱いさ。それでも脇差として戦っているとき、ふとここにあの頃の高揚感のような炎が揺らめくことがあるよ。この身に押し止めておくにはあまりに熱く昂ぶる衝動をさ。持て余す、とも言うかもしれないねえ。ねえ、君はないのかい? そんな風に感じること。そしてもし、その熱が突き動かすこの身が、完成された肉体を持つ成人男性のそれだったら……」
長谷部クンは黙ったまま、硝子に映る己の姿を微かな戸惑いを隠しきれずに凝視している。
「ねえ、長谷部クン……?」
僕は長谷部クンの胸の上に置いた手を、丹田に向かってゆっくりと下ろしていった。
「もっと違う自分がそこにあるんじゃないかって……」
僕が丹田でその掌にぐっと力を込めると、長谷部クンがハッと我に返ったように身を退き僕の手を払った。
「巫山戯るな! お、お前は主から頂戴したこの身に不満でもあるのか!」
戸惑いを含んだ長谷部クンの言葉に僕はあっさりと答えてみせる。
「ないよ?」
たぶん、予想外だったろう僕の返事に、長谷部クンは拍子抜けしたようだった。僕はその長谷部クンの顔から、硝子に映る自分の姿に視線を移す。
「確かにあの頃の戦い方とは違うけどねえ、実際手にしているこの身に合った姿なわけだし。若返ると気持ちが華やぐというか、そうそう、若さに任せて衝動に身を委ねるなんてのもこの僕の見目なら美徳にさえなるかもしれないじゃないか」
ご機嫌な笑顔を向けた僕に長谷部クンは苛立ちを隠そうともせず、みるみる眉間の皺を深くしている。
「だからあ? お前は何がいいたいんだ」
「つまり、さ。今、僕らと共に在るこの身のこと、よーくわかっていたほうがいいだろう? 知らないということはたまには強さとなって吉と出ることもあるけど、往々にしてそこから生じる恐怖に飲み込まれて自滅するのが常だ。成人男性たる人の身にどんな機能があってどんな変化があるのかを把握しておくことは人の形を纏って暮らしている以上、大切なことだと思わないかい?」
にこにこと笑いかける僕に、長谷部クンが肩を震わせている。おや? 長谷部クンは達してしまったのかな……苛立ちが。
「全く、おまえの話はまどろっこしい」
長谷部クンはすごい剣幕で捲し立てた。
「ここに話が辿り着くまで、どれだけ回り道すれば気が済むんだ! おまけになんだ、その言い草は。そんなことが春画を見ていた言い訳になるとでも――」
「なんだ……ちゃんとわかってたんじゃないか、長谷部クンも」
意味ありげに横目で見遣ると、長谷部クンは忌ま忌ましいものを見るような目で僕を睨んだ。
「まあまあ、主も見当がついてたようだし……。あれ? そんながっかりした顔しないでくれよ」
僕の言葉に、自分だけが把握できていなかったのかと長谷部クンががっくりと項垂れた。長谷部クンの名誉のために言っておくが、元来長谷部クンは感情的な刀ではない。その名はかの織田信長がへまをやらかした茶坊主を棚ごと圧し斬ったことから付いたとされているけど、頭に血が上ったのは信長であって長谷部クンではない。冷静沈着でなにより主命を全うすることを一番に、最良の選択ができる刀だと思ってるよ。でもさ、僕にはこんな風に喜怒哀楽を見せてくれるってことは許してくれてるんじゃないかなあ。彼の気心をさ。
「あ、そうだ」
僕は自分の掌を拳でぽんと打つと、長谷部クンの肩に腕を回して声を落とした。
「今度一緒に江戸市中に調査に行くことがあったら大きな刀だけで薬研堀のほうへ足を延ばしてみないかい? 面白い店があるんだよ、四ツ目屋っていって――」
「いい加減にしろ! 不謹慎にも程があるぞ」
「あ、知ってるんだ。どんな店か」
おっと、余計な一言だったかな。別にいいじゃないか、自分が賜った人の身に興味を持つのはちっとも悪いことじゃないだろうに。
「いいか、俺たち刀剣男士はだな、主に仕え歴史を守るためにこの世での人の身を賜ったんだぞ」
長谷部クンが烈火の如く怒り出し、いつものお説教が始まってしまった。これ、始まるとなかなか止まらないんだよねえ。長谷部クンの声が渡り廊下に響く。もう夜も遅い、皆の部屋まで届かないでいるといいけれど。そんなことを考えながらまた硝子に映る自分の姿を横目に捉える。長谷部クンの演説はまだ止まりそうにない。
「おい、聞いているのか! 主命以外に俺たちがすべきことなど――」
僕は長谷部クンの口元にすっと人差し指を立て、その言葉を遮ってその先を引き取った。
「主命だよ、主が僕に言ったんだ」
「何? 主命だと?」
長谷部クンが怪訝な顔をする。
「そ、主命。間違いなく。この本丸に人の身を以て顕現してすぐに、主が僕に言ったんだよ。面白いよねえ、長いこと人の世に存在しているけど、まさか自分が人の欲を、それも学ぶだけじゃなく実践することになるなんてさ。僕は人の欲を実現するために創られた道具のはずなのにね」
長谷部クンは言い返すことなく僕の言葉の続きを待ってくれているようだったから、そのまま僕はしゃべり続けた。
「僕は戦場で拾われた刀だからね。ここに持ち帰られたその日は刀の姿のまま、ただ主の部屋に在るだけだった。宿るべきこの身を意識できたのは翌日。主が僕を顕現させて、まず僕に望んだのは人の欲を学ぶことだったんだよ。最初に教わったのは食欲」
「そうだ、全く食べなければこの身の維持に支障が出るらしいからな」
「次に睡眠欲」
長谷部クンもここに最初に来たときのことを思い出しているのか、先ほどの怒りはその様子からもう感じられない。
「俺も最初はわからなかった。成すべき事が山のようにあるのに、何故休まねばならないのか、と。だが、戦果を上げるためには休息も大切だということを主は教えてくれた。そして俺も今ではその重要性を理解している」
「そして性欲」
「ちょっと待て、俺たちに必要なのは戦う肉体を維持することだぞ。それを言うなら排泄欲だ」
長谷部クンの言うことは尤もだ。主命だと言ったことが幸いしたのか、長谷部クンは怒り出したりはせずにただ呆れたように額に手を当てて天井を仰いだ。
「ああ、僕も同じことを主に言ったよ。僕は戦のための刀だからね。主はこの僕に花街に通えと言ってるわけじゃあないことくらいわかるさ。だから人の欲とはなんなのか、これまでに仕えた主のことを思い出すだけでなく書庫に籠もったりして、そりゃあまじめに調べたんだ。人の三大欲求だっけ? それを伝えたらさ、ちょっと考え込んでから僕に言ったんだよ。<いや、やっぱり性欲でいいんじゃないかな、君の場合>って、さ」
長谷部クンがよそ見しているうちにと、僕は厨に向かって歩き始めたけど、案の定、長谷部クンの怒ったような声が追ってきた。
「おい、待て! 話はまだ済んでないぞ」
僕は背を向けたまま答えた。
「言っただろう? 主命なんだからさ」
どん、と乱暴に踏み出した長谷部クンの足音と同時に、よく通る清廉な声が廊下に響いた。
「長谷部、ちょっといいか」
主の部屋へ続く戸の前で蜂須賀虎徹が立っていた。贋作が多いとされる虎徹――その中で真作であり大名差しでもある彼は常に凛とした佇まいに静かな光を放っている。長谷部クンは政府への用向きといった対外的な補佐に従事することが多いのに対して、蜂須賀はこの本丸内の運営面で主を補佐している。それだけでなく、彼は主が選んだ第一の家臣、いわゆる初期刀と呼ばれる刀であり長谷部クンでも彼には一目置かざるを得ない。
「何か用か」
ほら、長谷部クンがすっかりよそ行きの声で物腰も柔らかく蜂須賀へ向き直ってる。
「政府から、預かった刀をすぐに取りに来いと連絡があってね。主がお呼びだ」
「勝手な。素性を改めてからでないと本丸への持ち込みは許さんと言って預けさせたのは政府の方だぞ」
長谷部クンはぶつぶつ言いながら蜂須賀と主の部屋へ入っていった。
 刀? 本丸に“持ち込む”と言っていたがどういうことなのだろう。新しい刀剣男士ならそんな言い方はしないだろうに。僕は少し不思議に思いながらも、その場を離れた。
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 この本丸は僕らが置物になる前、刀がまだ武器として活躍していた時代と比べてもさほど違和感なく作られている。が、この廊下のガラス戸のように実はあの頃になかったものや仕掛けがふんだんに施されている。主曰く、「あの頃の誂えでは、とてもじゃないけど僕らは健やかに暮らせないから」だそうだ。機能としてあの頃僕らが仕えていた「人」と主のあいだにさしたる違いがあるとも思えないのだけどと僕が不思議がったら、主は「冬になったらわかるよ」と笑っていたっけ。建物だけでなく、日々の暮らしも同様だ。母屋では火を熾して炊事や風呂の支度をしているけど、それは任務中に過去に取り残されたりしたときに迎えが来るまで生き延びるために当時の暮らしに日頃から慣れ親しんでおくのが目的だからだ。だから母屋でなく僕ら刀剣たちが暮らす庫院には陽の光を動力とする様々な道具が揃っている。そして母屋に施されている摩訶不思議な仕掛けのひとつはこれだ。玄関や勝手口に限らず、母屋から外へ出られる場所には蓋の付いた箱が備え付けてあって、脱いだ履き物はそこへ入れることになっている。どういうわけかその箱は次から次へと履き物を飲み込み、それがいっぱいになることはない。そして外へでるときには箱の蓋にある鏡の部分に自分の紋を映してから開けるとそこにはちゃんと自分の履き物が入ってるんだ。例えさっき脱いで入れたのとは違う場所の箱でもね。
 僕は廊下の突き当たりで厨へは向かわずに表へ出た。さっき入った玄関とはほぼ対角線上の出入り口だけど、この箱のおかげで履き物を取りに戻らずに済む。便利だよね。こんな夜更けに出歩いている刀はなく庭は静まりかえっていた。帰還したときに鼻を掠めた芳しい植物の気配を求めて池の畔を歩くが、どうやらここにはないようだ。社(やしろ)のある山側に視線を動かせば、木立の隙間からちらりちらりと光が揺れる。参道を仄かに照らすあの明かりも実は蝋燭ではなく、昼間に陽の光を集めたものだ。火の心配がないのはいいことだよ。あの香りはあの山にだけ咲く花なのだろうか。今度、主に尋ねてみようと思いふと母屋に目を向ければ、主の部屋の明かりがちょうど消えた。さっきのはなしだと長谷部クンとまた向こうに出掛けたのかもしれないな。
 今夜、月はまだ出ていない。闇に沈んだ庭で僕は神経を研ぎ澄ます。変わったところはなし、と。それじゃ、厨で軽く腹を満たすとしようか。
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 僕が厨の引き戸を引くと、そこには腕を組んで眉間に皺を寄せた歌仙クンが待ち構えていた。
「遅い……」
おや、機嫌が悪そうだね。どうしたんだろう。
「失礼するよ」
僕は何食わぬ顔で歌仙クンの横をすり抜ける。見渡した茶の間には誰もいない。
「あれ? 君の心を癒やしてくれる今宵のお相手はもう部屋へ戻ってしまったのかい? 随分と品行方正だねえ」
「いつまで俺を待たせるつもりだったんだい? もう冷や飯を置いて戻ろうとしていたところだぞ」
「おや、歌仙クンは僕では満足してくれないのかあ。せっかく今まで待っていてくれたというのに」
「こんなに待たされるのなら書物でも持ってきておくのだったと後悔するくらいには待ちぼうけを食らったんでね。僕はもう休ませてもらうよ」
それでも僕の夜食は用意してくれるらしい。歌仙クンが蓋を開けた釜からは湯気が立ち上っている。
「うん? 小夜左文字が夜食をもらいに来ただろう。ゆっくりはなしがしたいっていつも君が言ってたからさ、ふたりっきりで過ごせるように気を利かせたつもりだったんだけど」
 歌仙兼定と小夜左文字はかつて同じ家にあったことがある。この本丸には小夜クンのほうが先に顕現していて歌仙クンとは練度の差から一緒に出陣することはない。そのせいで話す機会がなかなか持てないと、ことあるごとに歌仙クンが嘆いていたのだ。
「ああ、来たよ。五虎退と一緒に。ここで食べて行けばいいと言ったんだが、五虎退が兄弟たちが心配して待っているから部屋へ持って行くと言って。それなら僕も部屋でと、お小夜も行ってしまったんだよ」
歌仙クンは目を伏せ、がっかりしているのが手に取るようにわかる落胆の溜め息を吐きながら、目の前の小鉢から好きなものを選べと盆を僕に向けてくる。ちょっと我が儘を言ってみる。
「蕗味噌がいいなあ。もしまだあるなら」
「ああ、まだあったはずだよ。そんなに気に入っているのかい?」
「初めて口にした味なんだ。だからたまに食べたくなる」
「そうだったのかい」
なんだかんだ言いながら歌仙クンはわざわざ棚から小さな壺を出してきて蕗味噌の握り飯を作って、茶の間の縁に腰掛けている僕に持ってきてくれた。
「引き留めればよかったのに」
茶を入れに戻る歌仙クンの背中に僕が声を掛けると、歌仙クンは立ち止まって向こうを向いたまま努めて明るい声で返してくる。
「どう引き留めろ、と? お小夜にも待っている兄たちがいる。他愛のない昔話のために兄弟の団らんの邪魔をするのは無粋だろう」
「何度目だろうねえ、君のその話。いいじゃないか、向こうはいつも一緒に過ごしているのだし。何をそんなに気に病む必要があるかなあ。その度に僕に八つ当たりするのはどこの誰だい? ほんと、三十六人も手討ちにした御刀とは思えないよ」
「手討ちにしたのは僕の主であってだな」
歌仙クンは僕の脇に入れてきてくれた茶をどんっと置いた。
「ッフフ……。雅を追求する茶もいいけれど、今夜はそのくらい激しいほうが好ましいよ。しおれてるよりはね」
「おまえのその物言いはなんとかならないのか」
歌仙クンが額に手をやり、苦虫を噛み潰している。一方で僕は口にした蕗味噌の独特の苦味に満たされていく。落ち込んでいるより怒るくらい元気があったほうがいいじゃないか。さ、こんな夜更けまで待ってくれていたことは素直に感謝を伝えないとね。
「ごちそうさま、美味しかったよ。湯飲みは僕が洗っておくから、歌仙クンは先に戻るといい」
「残念ながらそうはいかないんだよ」
気を利かせたつもりで湯飲みを手に立ち上がった僕にそう言うと、歌仙クンは湯飲みをひょいと取り上げてすたすたと洗い場へ戻っていく。不思議そうに見ている僕に歌仙クンが背を向けたまま伝える。
「有り難い申し出だが、今夜はかまど番なんでね」
「へえ……さっき待ちくたびれて戻ろうと思ってた、なんて僕に言ったくせに。さては、僕の気を引こうとしたのかな?」
「黙れ、さもないと腕尽くで黙らせるぞ」
その勢いで小夜クンも誘えばいいだろうにねえ。でもそれは口にせず、ありがとう、おやすみとだけ告げて僕は通り土間を歩き出した。
「そう言えば」
歌仙クンが改まって僕を呼び止める。
「帰還後、主と話をしていたのだろう? 屋敷のことで主は何か言っていたかい」
「何か……って?」
出陣先のことで盛り上がってはいたけれど、屋敷のことについては特に話題になった記憶はない。
「いや、主が戻ってから……僕らも夕餉が済んでいたし、すっかり日が暮れたあとのことだよ。君たちが帰還する前のことだが、奇妙な音がしてね」
「音?」
「ああ、鋭い笛の音のような……花火を打ち上げる音だという刀もいたね。規則正しく数回聞こえたかな」
「まだ夏祭りには早いよねえ」
「それに遠くでというより、音がしたのは庭先のような近さだったんだ。主は、風が何かの拍子に音のするような場所をすり抜けたんじゃないかって笑ってはいたけど。心配するものもいてね、一応本丸の警備状況を担当部署に問い合わせると言っていたんだ」
「特にそういった話題は出なかったから、問題なかったんだろうと思うよ」
「そうか、それならいい」
「もしかしてそんなことがあったから、小夜クンを引き留めずに兄弟のところへすぐに帰したのかい?」
「竈番がここを離れるわけには行かないからね。送っていけないのなら五虎退と一緒に庫院に戻ったほうがあんしんだろう?」
「ふ~ん、それなのに僕に八つ当たりだなんて……そんなに僕に――」
言いかけたけど、歌仙クンがすごい形相で睨んでいるのに気が付いたから、僕は歌仙クンに微笑むと手をひらひらと振ってその場を離れた。
 自称「風流を愛する文系名刀」で、そのくせ心の機微を表現するのが不器用な武闘派、それが歌仙クン。多少なりとも共に過ごす時間が増えればああやって軽口を叩くほどに気さくな面もあるのに。ま、他の刀には彼は奥ゆかしいからとでも言っておこう。
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 母屋の通り土間を抜けて庫院へと向かおうとした先で何やら騒ぎが起きている。母屋の軒を伸ばして雨に濡れずに済むようになっている通路の下で、数刀がたむろしているのが見えた。
「俺たちは風呂からまっすぐここに歩いてきた。だが、そんなものは見てないしな。なあ、厚」
「ああ。第一、この本丸は侵入者がいればすぐにわかるようになってるんだ。何かを見間違えたんじゃないか?」
不自然に明るい声は薬研藤四郎と厚藤四郎だった。薬研クンは短刀のなかでも練度が高く、短刀だけの部隊を率いて夜戦に出ることも多い。傍の薬研は真っ二つにするほどの切れ味なのに、持ち主の腹は切らない。それが彼の名の由来だ。厚クンは薬研クンほどではないが押されがちな局面での踏ん張りを持ち味にこのところ頭角を現している。鎧通しとしてのその厚みがそのまま名になったのだろう。
「で、でも……あの白い影は山姥切さんの布じゃあなかったです……どちらかというと、その……白い着物というか」
「そ、そうだよ! ぶわ~っと翻るようには見えなかったし、それこそ白い着物姿の女の人みたいな」
「呼んだかい?」
僕は薬研クンと厚クン、両藤四郎背後からぬっと顔を覗かせた。おっと、いけない。静まりかえった本丸に悲鳴が響くところだった。叫び出しそうになった薬研クンと厚クンの口を慌てて塞ぐ。二刀ふたりの向かいにいたのは乱クンと五虎退クンといえば一瞬ぎょっとした顔を向けたければすぐに僕だと気付いていて自分で自分の口に手を遣って声を押し止めた。
「すまない、僕だよ。僕」
「お、脅かさないでくれよ。にっかりの旦那」
薬研クンは平静を装っているが声が裏返りそうになっていた。厚クンのほうはというと、胸に手を当てて肩でしている息を整えようと必死だ。五虎退クンはまだ落ち着かないのか口をぱくぱくさせているが声にならない。
「もう、脅かさないでよ。そうじゃなくてもにっかりのその白装束が効果的すぎて洒落にならないよ」
乱クンの目が笑ってないから、冗談で返すのは止めておこう。そう、僕の戦装束には経帷子が備わっていて、左肩上で片流しになってるんだ。
「で、なんの騒ぎだい? こんな夜更けに」
「ゆ、幽霊をみたんです……」
五虎退クンがやっとのことで口にした。ほぉ、幽霊ねえ。
「明日の朝でも良かったんだけど、今夜は歌仙が竈当番だっていうから、これ返しに行こうと思って五虎退と母屋へ来たんだ」
なるほど、乱クンと五虎退クンの手にあるのは夜食の盆だ。
「ちょうど母屋の渡り廊下の手前まで来たところで……に、庭のほうからこう、裏手に向かって白い何かが横切って、この角で消えたんです」
「それが見えたのは五虎退クンだけなのかい?」
「ボクも見たよ。それで驚いてすぐに追い掛けたんだ。だけどこの角のところで見失って。いくら僕らの夜目が利くっていっても、まだ月も出ていないからはっきりとは見えてなかったけど、あの背格好……この本丸に思い当たる男士はいないよ」
「で、君たちは?」
僕は薬研クン、厚クンに向き直って尋ねた。
「それが……」
厚クンは薬研クンと目を見合わせた。
「特に怪しいものは見てない。俺たち、出陣から戻ってそのまま風呂場に直行したんだ。で、風呂から上がって、通り土間じゃなく外を通ってここまで来たらこいつらがこの場で固まっててさ」
薬研クンの説明に厚クンが頷く。
「もし何者かがいたのなら、君達二刀(ふたり)とすれ違ってるはず、か」
「や、止めてくれよ。にっかりの旦那。こっちに曲がったとは限らないだろう?」
薬研クンの瞳が眼鏡の奥で彷徨っている。
「でも、もし反対側に行ったなら。おふたりから背中が見えていた……はず、ですよね」
五虎退クンがおずおずと申し出る。確かにここから庫院までは平だから見通しはいい。
「ちょ、落ち着けよ、五虎退。そのまま真っ直ぐ裏の森へ入っていったのかもしれないじゃないか」
厚クンが声を上擦らせる。
「森に、って、こんな時間に何しに?」
乱クンの決定的な一言に二刀ふたりは顔を見合わせた。うん、そうだね。こんな時間に森に用事がある男士がいるとは思えない。
「いいや、この本丸に幽霊だとかそんな妖の類いが入り込めるわけがない。夕餉のあとに怪しい音がしたと騒いでいた奴もいたが、ありゃ何か実態のあるものが風を切る音だった。白い何かも正体がわかればちゃんと説明がつくものに違いねえ」
薬研クンが頭を振って自分に言い聞かせるように言い切った。
「そ、そうだな。誰かが俺たちを驚かそうとしただけかもしれないぜ。よし、とっ捕まえてやる」
ふ~ん、想定できる何かがあると俄然落ち着きを取り戻すし、正体を突き止めるの躊躇わないんだね。
「で、でも、ひゅ~るるるぅって聞こえたって僕、聞いたんだけど」
五虎退クンがおずおずと申し出る。
「ッフフ……安心しなよ、五虎退クン。ひゅ~どろどろどろ~なんて音と一緒に幽霊が出てくるなんてのは歌舞伎の中だけだよ」
「じゃ、じゃあお化けの心配なないですね」
五虎退クンがはにかんだ笑みを僕に向けた。
「ねえ、にっかり。そうは言ってもやっぱり正体はすぐにでも調べたほうがいいかなあ」
この本丸を支えているという自負があるからか、少し尻込みしながらも調べようと提案するのが乱クンらしい。でも、さっき厚クンが言ったとおり、この本丸は侵入者があればすぐにわかるようになっている。
「半鐘も鳴ってないことだし、不審者が入ってきたわけではないんだろうとは思うよ。僕がちょっと見回ってみるよ。もし誰かのいたずらだったりするなら、あまり大人数で騒ぐと逆に出てきにくいだろうからね」
実際、この本丸には、悪気はなくても結果的に質の悪いいたずらになるようなことをしでかす刀もいる。
「そうだね、でもお願いしちゃっていいのかなあ……本当に手伝わなくていい?」
「僕だって夜目は利くしね。それに」
僕は乱クンににっかり笑ってみせた。
「僕は幽霊にはちょっとうるさいんだ、任せて損はないよ。きっと、ね」
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 僕は茶の間の屋根に座っていた。ここは母屋で一番高いから本丸の敷地を一望できるんだ。僕は庭から裏手へと母屋と庫院のあいだをずっと窺っていた。おかしいなあ。僕がこの騒動の首謀者として目星を付けた刀は太刀だ。つまり夜目が利かない。だから様子を窺っていれば足元を照らす明かりを見つけられると思っていたんだ。なのに待てど暮らせど蛍火ひとつ見つからない。この本丸に侵入者がいて半鐘が機能していなかったとしたら大事だが、ここの警戒設備は敵襲に備え政府が二十四時間監視していると主から聞いている。まさか実態のない何か――本当に幽霊でも出たんだろうか。
 さっき僕は半鐘がなっていないから侵入者はいないと言った。それは半分本当で、半分は嘘だ。政府のお役人や訪問者など、この本丸に登録されていない人間がここに足を踏み入れればそれはすぐに察知される。また人ならざるものでも、人――審神者――や僕ら刀剣男士に害を為すもの、つまり傷付けることができる存在に対しても機能する。だが、そうでないものがある。里や森に住む鳥や獣は言うに及ばず、目に見えぬものがここを行き来しているのを僕は感じる。それはすでに生を終えている生き物の念だったり、木々や草花、虫たちの声を持たぬものの息遣いや気配といった、僕でもどう表現したらいいのかわからないものでこの世界は満ちている。特に夜はそうだ。昼と違って目に見えぬ気配が濃密過ぎて却って神経が研ぎ澄まされてしまう。この人の身というのは、夜眠らなければ良い状態を維持できない。それを知ってからは努めて眠るようにしているけれど、実は夜のほうが自分が纏う命という存在を身近に感じたりするんだ。面白いよね。
 そんな思いが過ったときだ。帰還したときに一の鳥居で嗅いだ香りが鼻先を掠めた。どこからだ。僕は風上を仰ぐ。社だ。参道は本丸の脇から続くが、本殿は本丸裏手をまっすぐに登ったところに位置する。でも妙だな。木立の隙間からちらちらと灯りが揺れているのは参道だ。中腹でより明るく見えるのが本殿……のはず、なのに。まるで花明かりのように朧気な光を放っているのはそれよりも山頂寄りだ。禍々しい気配は感じないし、あそこは本丸の外だ。でも、だからと言って見過ごすことはできないな。僕は屋根から飛び降りると本丸を出て参道を駆け上がった。

  ――どうしてこんなに賑わっているんだろう――

 ふとそう思った瞬間、僕は息を呑んだ。僕は何を言っているんだ。目の前に続く参道を頼りない灯りが足元を照らしているが そこに人影はない。だが、本殿に近付くに連れてそこにある気配が増えている。立ち止まって目を閉じる。木々の葉を揺らす風、その風がふわりと纏う花や緑の香り、そして森の命。ゆっくりと目を開いたとき、そこに広がっていたのはまるで鳥獣戯画の如く集う動物たちだった。いや、動物だけではないから動植物と言うべきかな。それが実際に瞳に映っているのかどうかはどうでもいいことだ。ただ僕はそこに多くの命が息づいていることを感じている。もしかしたらそれは、かたちないものを僕が知っている姿へ投影しているだけなのかもしれない。それでも僕は目に映るまま、それを受け入れている。そうだよ、古よりこの世は命に満ちている。目に見えるものも見えないものすべて等しく存在していたことを僕は思い出していた。この身を得てからというもの、人が作りし物に慣れ過ぎたのかもしれないね。何しろすべてが物珍しくて目を奪われていたのだから。
 ただ、此処へは今までにも何度も足をはんこでいる。意識していなかったにしてもこれだけの気配に気付けなかったとは思えない。静かに様子を窺えば、どこなく高揚した喧噪に祭りらしき雰囲気を感じ取った。ああ、それならこの華やいだ感じも不思議はないね。今夜は人とは別の、この鎮守の杜の庇護下のいきものたちの祭りなのだろう。そこに在ると感じるものに実態があるかどうかは別として、僕はそれらの邪魔にならないよう気配を消してより明るい本殿の裏手へと向かった。
 急な斜面を見上げる。本殿の脇へは前に祭りで本丸の皆と来たことがある。でもその奥へ足を踏み入れたことはなかった。確か主は本殿の奥には磐座いわくらがあると言っていた。薄ぼんやりとしてはいるが、そこには大きな岩がいくつか見えた。みだりに立ち入ってはならぬ場所であることは言われずとも伝わってくる、そんな場所だ。霧が出るほど登ってきたわけでもないのに、白く靄が掛かっている。いや、こんな深夜に明るく見えるのがおかしいのだ。本殿のほうを振り向けば、そこはたき火か提灯のような橙に染まっている。でもここは違う。不思議だ。そう思えば思うほど吸い込まれるように目が離せなくなる。気が付けば僕は磐座のすぐそばの木の根元まで足を踏み入れていた。
 から、かららん。どこからか乾いた音が零れる。突然、静寂が降り立った。本殿の喧噪が嘘だったかのように辺りは静まりかえっている。ほどなくして木立の隙間から一筋の光が磐座を照らし、それは徐々に広がっていった。ああ、月が昇ったんだ。振り仰げば梢の先から柔らかな弧を描く月が顔を覗かせている。白く霞んでいた世界が月明かりで染め上げられていく。その光の輪の中心に人影があった。白拍子? いや、違う。似ているけれど手にしているのは……木の枝か。からん。乾いた音がその手から零れる。乾いた木の実の中で種が転がるような、控えめな音だ。その影は腰を屈めたままじっと動かずにいる。からん。木の実が揺れた瞬間、白い袖が翻る。枝を持つ手が大きな弧を描き、まるで光の中で空を舞うように浮かび上がる。そしてまた静かに低く頭を垂れじっと佇む。何かに耳を傾けているかのように。またしばらくしてからん、と音が零れる。屈んだ身体がしなやかに解き放たれる。その手は虹を架けるかの如く光の中を駆けゆく。これは巫女舞なのだろうか。高らかに鳴り響く鈴の音もなく、またその舞は歌舞音曲にほど遠い素朴なものだ。それなのに、ただ静かに四方を拝むようなその動きから目を離せない。振り仰ぎ天の声を。ひれ伏して地の声を。かの女人が受ける神託は如何なるものなだろう。
 どのくらいの時間が経ったか僕にはわからなかった。舞を終えたのか、女人はもとの位置に戻ったところで両の手で木の実を小さく揺らし、深々と一礼する。かららん。もう一度、小さく音がした瞬間、静寂は破られ本殿の神楽が耳に飛び込んできた。僕はハッとして目を見開く。が、そこに女人の姿はもうなかった。ただ、つい今し方、その手の中にあった枝がその場に挿してあるのを見て僕は我に返った。
 おかしい。出ている月は二十六夜。森をあれだけ照らすほどに明るいはずがない。僕は本殿へと斜面を駆け下りる。社殿の先に白い人形(ひとがた)が見え隠れする。どうやらここに集うものたちに歓待されているらしい。わからない。僕はここでは異端のはずだろう? なのに神楽を楽しんでいたものたちは僕にも同じように輪へ加わるよう招き入れ酒を振る舞おうとする。ここは主が設えた神社だ。神々だろうが異形だろうが、ここで争いをおこすわけにはいかない。僕は無碍な扱いにならないよう気を配りながら先を急ぐ。どっと沸いた笑い声の先には恵比寿が釣り竿を手に神楽を舞っている。ああ、行ってしまう。僕は確かめなくてはならないんだ。例えそれに実態があろうとなかろうと。本丸を歩いていたのは君なのかい?

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 あれから白い人影を追って本殿から脇に入り、獣道に分け入った。できたばかりの足跡を追うが、これって実態があるということだよね? 社の山にこんな道があるなんて聞いたことはない。でも木々の間からは確かに先を行く白い衣が見え隠れしている。後ろを気にする様子はないから、僕に気付いてはいないのだろう。あまり起伏のない森の中をどのくらい進んだろうか。ふと茂みを抜けたところで突然視界が広がった。
 僕は思いも寄らない展開に混乱していた。ここは本丸の母屋裏じゃないか。どういうことだ。本殿があるのは小さいとは言え山の中腹だ。斜面を下った覚えはない。なのに、目の前にあるのはさっき短刀たちと談笑した一角だ。ぞくりと背筋に冷たい何かが走る。辺りを見回しても追っていた影はない。
  あの感じは人とも思えないけど僕らと同じで人の身そのものはここに存在しているようだった。果たして、僕が幽霊を見間違うだろうか。それはないと思いたい。何故って、そういうの、僕の沽券にかかわるってもんだよ。なら、獣に化かされた? よし、怪しいものが入り込んでないか今夜は徹底的に本丸の中を探そうじゃないか。こんなことでむきになるなんてちょっと僕らしくないなあと思いながらも、歩き出した僕はどこかわくわくしていた。あのとき、あの場所は神々の気配で満ちていた。人が社殿に奉るだけが神じゃあない。元来、人はそこかしこに神を見ていたじゃないか。それが時を経て儀式として整えられ、神との会話さえ形式的なものが辛うじて伝わっているのが今の世だと主は言っていた。それなら、物に憑いた存在とはいえ、神と名の付く僕らがこうして姿を現し人と会話をするなんてのは一周回って逆に先進的なのかもしれないよね。あの山に住む小さな命に神が宿る。まるで人のように集い神楽を舞い、酒を酌み交わし、笑って。どんな神さまに奉納していたんだろう。だって、本殿で目にした光景を思い浮かべれば、高揚するのも無理ないと思わないかい。その輪の中に紛れた僕は、排除されることなく歓待されたんだよね。まあ、すぐにお暇させてもらったけどさ。悪い気はしなかった……というか、うれしかったのかな。僕はふと立ち止まって考える。うれしかった? 何がだろう。
 ひゅるるるるるるー。そのとき耳慣れない音が天を駆けた。僕はすぐさま音がしたほうへと駆け出した。
そこは僕らが耕す畑の先、果樹園の更に奥だ。さっき、耳慣れないとは言ったけど、それはこの本丸では今まで聞いたことがないというだけで、この音には聞き覚えがある。もし僕の予想が当たっていればそれはさほどこの本丸に害をなす存在ではないはずだ。問題は何故こんな時間にそれが鳴るかということなんだ。僕は葉の生い茂る果樹に身を隠すように音の鳴ったほうへと近付く。そこには果樹園の端を本丸の敷地の縁に添って歩く白い装束姿。その背格好は……間違いない、磐座で舞っていたあの巫女だ。ゆっくりと、まるで散歩でもしているかのように歩いている。ならば、と、僕は行く手にある屋敷林の枝の上で様子を窺うことにした。のんびりと草を踏む音が辺りに零れる。目を凝らせば、予想通りその手には弓が握られているのが見えた。やっぱりね。さっきの音は鏑矢だよ。多分、今夜聞こえた怪しい音というのはこれのことなんじゃないかな。合戦の合図に使われたこともあるけど、時代が下ればそれは邪気を払い、魔を退散させる矢だ。それをここで射るということは少なくとも本丸に害をなそうとはしていないと考えていいはずだ。仮に敵に合図を送っているとして、残念ながらこの本丸と外ではこんな方法で音が筒抜けになったりはしないんだ。でも、この本丸に女人がいるはずないしねえ。それに、幽霊というと足がないと思われている時代があったようだけど、実際にはそんなことないからね。そして人に害為す存在ばかりじゃない。そんなことを考えながら木の上で待つ僕に向かってゆっくりと歩いてくるその姿が月明かりに照らされて浮かび上がる。磐座では白拍子みたいに水干姿に烏帽子を纏っていたはずだけど、今は簡素な白い長着ながぎ姿だ。髪は僕より短そうだ。さすがによくはわからないけど、ふわりと結わえてあるようで、弓を持つ手とは反対の肩で揺れている。烏の羽にようにしっとりと濡れた艶はおそらくそれが黒髪であることを教えてくれる。
 さて、どうしようかな。あれがここに危害を加えるつもりはなくても無闇にうろつかれては問題だし、仮に主に縁ある存在だとしたらそれこそ斬り伏せるわけにもいかないだろう。成仏できずに当ても無く彷徨っているだけならいっそ斬られたほうが楽になれるだろうけど。そうではなくて獣が人を化かそうとしてるなら、二度とそんなことをしないよう、お灸を据えてやらないといけないし。
 あれこれ考えながら僕は鍔に指を掛ける。用心するに越したことはない。万が一、不測の事態あらば迷わず斬ってあげようじゃないか。僕がぐっと指に力を入れたときだ。それはぴたりと足をとめた。じっと正面を見据えている。目線は上向きだ。まさか気付かれたのか? そんな馬鹿な。敵から身を隠し様子を窺う能力については僕はこの本丸でも一、二を争うんだ。月を背にしているせいでこちらに向けられた表情まではわからない。それでもじっと見つめられているような気がして、息を飲んだ瞬間だ。
 素早く番えられた矢がまっすぐ僕に向けられたかと思うと、何かが風を切る音が僕の耳に届く。目を見開けば見知らぬ娘が眼前に迫る。風にはためく髪や衣の勢いでそれがとてつもない速さで向かってきていることがわかるのに、僕は鯉口を切るので精一杯だ。娘の頬の脇で鏃が輝羅と光る。瞬間、鈴のような声が闇に零れた。
「違う、お前じゃない」
 まるで旋風のように身を翻して僕を避けたそれは……。全身が泡立つのを感じ、僕はハッとして瞬きをする。目の前に広がるのは何事もなかったかのように静まりかえる夜の里山の風景だ。そして今し方立ち止まった場所で身動ぎもせず弓を構えている人影。それじゃあ今、僕の目の前を掠めたのは何だったのか。乱クンよりは年嵩で、人の身としての外観だったら、そうだなあ僕と同じくらいの娘だった。でもその娘にこの僕が気圧されたって? 抜刀すらできなかった自分に対して静かな怒りが込み上げてくるが、それと同時にまるで戦場に降り立ったかのような高揚を覚えた。睨みつける僕を知ってか知らずか、娘は静かに弓を下ろすとすたすたと元来た道を戻り始めた。
 あの社は主が個人的に寄進したと聞いている。そこでご神託を受ける存在なら尊重しなきゃいけないかもしれないと思い始めていたけど、僕ら刀剣男士に弓を引くというなら話は別だ。僕は木から飛び降り、その後をつけた。もう身を隠す必要はない。僕が付けているのがわかるようにわざと大袈裟に草を踏み歩く。始めはこちらを無視するかのように歩いていた娘だけど、そのうち気になったのかちらりちらりとこちらを振り向きだした。でもおかしい。反応がこちらが期待したのとはまるで違う。怯えたり焦ったりする様子はなく、何故か自分の身なりを気にするような素振りを繰り返す。歩きながら自分の長着を引っ張ってみたり袖を摘んで広げてみたり。自分が見えていないはずだとでも思っているのかな? いや、このくらいの月明かりなら丸見えだよ。そうやって腕を広げて月明かりに衣を翳せば体の輪郭が透けて見えるくらいには明るいんだからさ。まあ、夜目の利く僕だから見える、ってのはあるかもしれないけどね。
 僕は一定の距離を保ってついていく。娘が立ち止まれば僕も立ち止まり、再び歩き出せば僕も歩き出す。次第にそわそわとし始め、落ち着かない様子が見て取れる。そろそろ潮時だろうか。そう思ったときだ。
「もしかして、見えてるの?」
 娘の呟きが風に乗って僕の耳まで届く。娘が恐る恐るこちらを振り向こうと身を捩り出したそのときには、僕はもう既に草を蹴って娘のすぐ後ろまで距離を詰めていた。
「ああ、とてもよく。月明かりで衣が透けて見えるほどにね」
僕は弓を持つ娘の腕ごと胴を抱え込んでその動きを封じるや否や、振り向いた娘のうなじに刃をあてがった。
「迂闊だったね……そんな無防備な態(なり)でここに忍び込むなんてさ」
耳元で囁いてみせると僅かに身体を強張らせる。残念だな、見下ろして凄みを利かせてみたかったんだけど、ちょうど僕の目の高さくらいが娘の頭のてっぺんだ。
「忍び込んだなんて……失礼ね。わたし、ここへは主さまに連れてこられたのよ?」
まっすぐな瞳がこちらに向けられた。まったく、肩透かしを食らった気分だ。まるで怯える様子がないじゃないか。
「そんな言い訳で僕を誤魔化そうっていうのかい? 嘘をつくならもう少しまし――」
「貴方、主さまに仕える剣士さまのおひとりなのでしょう? 主さまがなさったこと、ないがしろにするおつもり?」
娘は強い口調で僕の言葉を遮った。
「主さまはここには名だたる剣士さまが集まっているとおっしゃっていたけれど、名だたるが聞いて呆れるわ。一体どこのどなたなのかしら」
多分、娘の言う剣士というのは僕ら刀剣男士のことだろうとは見当が付く。いや、そうではなくて、主さまってどういうことなんだ。ここで主といえば唯ひとりしかいないはずだ。本当に主の縁者なのか。こんな状況下にあって捉えられたままにも関わらず、怯むことなく毅然と相対する娘の態度は好ましくさえあった。少しばかり僕は態度を軟化させる。
「君が僕らのことを主から聞いているとして、僕らは主からここに仲間が加わるとは一切聞いていないんだ。不審者にはそれ相応の対応を取って然るべきだろう?」
娘は少し思案するような素振りを見せた。
「自分から名乗ったらどうだい、僕に尋ねる前にさ」
僕がそう言うと、娘が目を伏せた。少しは自分の立場を理解したのかと思ったが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「ごめんなさい。わたしには……わたし自身を指す呼び名がないの、まだ」
そう言うと娘は顔を上げ、少し哀しそうに僕に笑いかけた。ああ、一体どうしたらこんな状況下でそんなふうに笑えるんだい。でも、名がないだって? それは合点がいかないよねえ。まあいいか。
「仕方ないね。君に名乗る名がないのなら今夜は特別に教えてあげようか、僕のこと」
僕は娘を解放し刀を鞘に収めながら名乗りを上げる。
「僕はにっかり青江。元は大太刀の大脇差さ」
「? に、にか……?」
娘はうまく聞き取れなかったようだ。
「うんうん、君も変な名前だと思うだろう?」
僕は今一度娘に詰め寄る。
「でもさ……」
僕はまだ鞘に収まりきってない刃を娘の目の前に突きつける。ほら、月明かりに冷たく光ってきれいだろう?
「にっかりと笑った女の幽霊を斬ったのが由来、と聞いて、まだ君は笑っていられるかな?」
言い終えると同時に、刃を完全に鞘に収めれば娘が思わず息を呑む。最初が肝心だからね。無碍に脅かすつもりはないけど、まあ、牽制だよ。
「そう……わたし、刀のことは実はよくわからないの。でも、さっき失礼なことを言ってしまったことはわかるわ。立派な刀……貴方のような刀がここにはたくさんいらっしゃるのね」
僕のような刀、か。その口ぶりは主のいう剣士というのが刀の付喪神だとわかってるみたいじゃないか。
「そうだねえ」
娘が何を指して僕のようなと言ったのかわからないから、僕はどうとでも取れる返事をしておく。
「あの……いきなり矢をむけてごめんなさい。改めてお詫びします」
娘は弓を右手に持ち替え、居住まいを正して頭を下げた。
「可哀想な魂が迷い込んできたから御山へ追い払おうとしたの。矢を番えるまで貴方に気付いてなくて。それにわたしを迎えに来た主さまだけでなく護衛の剣士さまもわたしのこと、見えていなかったから、わたしはそういう存在なんだって思ってて。それでも、迎えにきてくださったとき、主さまはわたしにこの地を守って欲しいから連れて行くのだとわたしに向かって言ったの。だから、わたしの姿は見えていなくても、せめて魔を払うとかできることはしようって」
そこまで一気に捲し立てたのに、娘の声から覇気が消える。
「だって、主さまは護衛の剣士さまに気休めでもいいんだとおっしゃってたの。ああ、本当にわたしのことが見えていないんだって思ったらちょっと悲しくなったわ」
そう言うと、娘は一度空を仰いでから僕へと向き直った。
「でもね、わたしはこうしてここにいるんだもの、気休めでなく本当にお役に立ってみせようって、お部屋を抜け出したの。なのに……あ~あ、貴方のような刀がいらっしゃるなら、わたしなんて本当に気休めにしかならないのね」
娘は自嘲気味に笑った。
「主がどんなつもりでそう言ったのかは僕にはわからないからねえ、慰めようがないけど」
僕の脳裏に、磐座で舞う娘の姿が浮かぶ。
「主がわざわざここへ君を連れてきたのなら、どんな形であれ、主は君を必要としているってことなのだろう?」
僕はそう言いながら手にしていた鞘を右手に持ち替えた。娘は少し驚いたように瞬きをして、それからにっこりと微笑んだ(ニッカリじゃあなく、ね)。
「そうね。それに今こうして姿が見えてるってことは、明日、主さまもわたしに気付いてくださるかもしれないし。そしたら何でもいいから主さまに呼び名を付けていただくのはどうかしら? ね? えっと……に、にか……」
「にっかり青江。呼びにくかったら青江でいいよ」
娘の言うことをすべて信じたわけじゃない。かといって疑うわけでもない。まだそれを確かめようがないから一旦棚上げだ。それに、少なくとも娘から主に仇為すような不穏な気配は感じない。今夜はそれで十分だ。そのかわり余計なお世話をひとつ焼いておこう。保険だよ。
「君にひとつ忠告しておくよ。無闇に本丸内をうろつかないほうがいい。言ったろう? ここにはたくさんの刀が集まってる。君はそのことを知っているけど、僕らは君のことを聞いていない。君、数刻前に鏑矢を放ったろう?」
 娘はちょっとぎくりとして、小さく頷いた。
「聞き慣れない音がした、幽霊を見た、ってね。ちょっとした騒ぎになってたんだよ」
「ごめんなさい」
娘はすっかり恐縮している。
「明日の朝、主さまがわたしをみなさまに紹介くださるはずなの。だから、それまでは出歩かずに大人しくしてるわ」
「それがいいよ、約束だ」
何故か今夜の僕は、娘の正体を突き止める気にはなれなかった。神を降ろす姿を見たからかな。まあ主から何らかの説明があるまで、娘がどこかに引き籠もっていてくれさえすれば問題は起きないだろうし、もし約束を違えるようなことがあれば、そのときは躊躇うことなく斬ればいいだけさ。
「それじゃ、今夜は失礼するわ」
娘は礼儀正しく一礼すると、母屋へ向かって歩き出した。その背中を見送っていると、ふと娘が立ち止まって振り向いた。
「青江さまー、斬らずにいてくれてありがとう。でも、もしわたしが主さまを害するような存在になることがあったら、躊躇わずに斬ってくれていいわ」
娘は物騒なことを叫びながら無邪気にこちらに手を振ってみせる。僕は少し手を上げてみせた。
 遠ざかる娘の姿が月の光に溶けていく。そのくせ、草を踏みしめる音はいつまでも僕の耳に残っていた。
「まるで、夢でもみていたようだね」
僕は柄にもないことを口にした。
 ここは山間(やまあい)にある本丸の外れ。二十六夜の月はいつの間にか西へと巡り行き、里ではまだ青々とした麦の穂が風で揺れていた。

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刀剣弓箭譚 1 ー旧暦卯月廿十六日、守り神の帰還ー
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    門土蔵の通用門を抜けほっとしたのも束の間、目の前の通用口で長谷部クンが鬼の形相で立ちはだかっているのに気付いて皆が凍り付いた。
「あれ? なんで長谷部クンがここにいるのさ」

僕は臆することなく横をすり抜け、靴を脱ぎながら声を掛ける。長谷部クン、もといへし切長谷部は黒田家に家宝として伝わった刀だ。こう紹介すると長谷部クンは機嫌が悪くなるけど、かといって元の持ち主の名前を出したところで彼の眉間の皺がなくなるわけじゃあないしねえ。刀の時代の終焉、そのときに誰が僕らを所有していたのかで語られるのは特に珍しいことじゃあない。長谷部クンと僕は大雑把にほぼ同年代南北朝生まれでしかも境遇が似ている大磨り上げされているから、結構気が合うんだ。
「般若の形相で待ち構えているのは歌仙クンだとばっかり思っていたよ」
「歌仙はこんな遅くに帰還したお前たちのために厨だ」
 「それは有り難いねえ」
長谷部クンの視線が僕に逸れてるあいだに、皆が通用口で履き物を脱ぎ始める。歌仙クンはこの本丸で、厨房の両雄と名を轟かせる名刀だ。その雅やかな「歌仙」という名に相応しく、由来はかなり物騒な刀だけど、人の身を得た彼はこの世の雅を追求するのに夢中だ。
 「まったく、歌仙が自ら進んでしていることだとしても、いつなんどき出陣の命が下るかわからんのに、こんな夜中に厨房に立たせるとはお前たちは自分たちの使命をなんと心得――」
「っていうか、長谷部は主と現世じゃなかったの?」
乱の無邪気な問いは長谷部クンの怒りに火を注いでしまった。
「どうしてだと!? 現世に赴く主の警護で俺は部隊を外れたというのに、戻ってきてみればとっくに任務を終えているお前たちが帰還していなかったからだ! 一体、「どこで」、「何を」していてこんな時間になったのか、全員でしっかりと説明してもらおう!」
「はいはい、長谷部クン。僕へのお小言はあとでね。まずは主に報告が先だよ。あ、彼らは先に手入れ部屋へ行ってもらってもいいかい?」
僕は小夜クンと五虎退を見た。
「ん? 何故負傷している。今回の任務は調査だろう?」
長谷部クンが怪訝な顔をする。
「出たんだよ」
僕は素っ気なく答えると、早く手入れ部屋に行くよう小夜くんと五虎退の背に手を添えて促した。
「まさか、遡行軍か!」
長谷部クンは僕らの前へ出て道を塞ぐ。
「それなら、尚更詳細な報告を――」
乱が眉間の皺が更に深くなった長谷部クンの腕を取って横へと押し戻す。
「だ・か・ら、戦闘の負傷者は帰還次第、順に手入れって主の言い付け、守らない気? 主命だよ、長谷部」
主命という言葉に長谷部クンがぐっと口を噤む。
「大丈夫だよ。五虎退はにっかりと、小夜はボクと一緒に戦ってたから、二刀がいなくても報告に支障はないから。ほら、ボクらは主の部屋にさっさと行く」
乱は有無を言わさず長谷部を追い立て歩き出す。さすがこの本丸古参の一刀だ。こういう采配は彼に任せるに限る。長谷部クンもそれ以上何も言わず、素直に主の部屋へと歩き出している。僕は小夜クンと五虎退に手入れ後はすぐに厨にいって歌仙クンから夜食をもらうように言うと、鳴狐と同田貫とを伴って乱たちの後を追った。

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「つまり、翌日の池田屋襲撃のために何か細工をしていた痕跡がある……ということだね」
主は僕らの報告に真剣な面持ちで何か考え込んでいた。
「僕らが見てきたことからすれば、主がそう考えるのに不思議はないよ」
僕は肯定とも否定とも取れない、当たり障りのない返事をする。仕方ないよね、僕らに課せられているのは遡行軍との戦闘であって、歴史の解釈ではない。僕らはただ起きたことを受け入れるだけだ。
「政府へ報告しておこう。ありがとう、今夜はもう休むといい」
主は何か書き付けた後、顔を上げて僕らにそう言った。
「主、あの時代の人間と接触したことへの吟味がまだです」
長谷部クンが口を挟んだ。やれやれ、長谷部クンが絡むとやっかいだねえ。主は少し苦笑いをすると、もう一度居住まいを正して僕らの方へと向き直る。
「その商人は君たちの素性を詮索するようなことはしないと言ったんだろう?」
僕らはまるで合図でもあったかのように全員揃って頷いた。そこに嘘はない証だよ。
「あの時代のものに何か書き付けたりしたりもしなかったろう?」
「貸本に落書きしたりなんかしないよ」
主の問いに乱が返事をした。
「ほら、これなら大丈夫だろう? へし切長谷部は心配性だね。いや、それはそれで僕は助かっているよ。でも、今夜の件は恐らく問題にはならないだろうと僕が判断しているんだ。だから、もういいだろう?」
長谷部クンは苦虫を噛み潰したような顔をしているが、主がそう言っている以上、更に蒸し返すことはなかった。
「そうだ、せっかくだからちょっといいかい?」
主が思いついたように僕に笑顔を向けた。主は何かを知りたくて仕方がないときこういう顔をする。
「その商人の目に、君たちはどんな風に映っていたんだい?」
僕らの風貌を主が自分の意思で制御できない以上、どのように見えていたのかを調査して次に生かせるようにしたいのだと、主が言っていたのを僕は思い出し、なるべく詳しく説明しようと試みた。
「僕と打刀の二刀ふたりは護衛、つまり帯刀して見えてたみたいだね。短刀は幼い兄弟というか……」
僕はちらりと乱を見た。
「ボクは大店のお嬢さんだと思われてたよ! つまり、三人姉弟さんにんきょうだいにその用心棒!」
「なんでそんなことがわかるんだ」
はしゃぐ乱に、長谷部クンが額に手を遣る。
「だって、あの人がボクに見せてくれたのは『都風俗化粧伝』みたいな本だったもん」
乱の誇らしげな姿に呆れる長谷部と楽しそうに聞いている主が対照的だ。
「あとの二刀ふたりは御伽草子みたいな絵物語で……そういえば、ボクのところからは見えなかったけど同田貫や鳴狐たちは剣術の指南書とかだったの?」
突然、乱に話を振られた同田貫が固まる。
「あ? ああ、まあ……その、なんだ……」
「わたくしめは猫に思われたようだったのでおとなしく隅で丸まっておりましたが」
口籠もる同田貫にお供の狐が横から口を挟む。あ、これはまずい。慌てて視線を上げたところで鳴狐と目が合った。
「お三方には錦絵をお見せくださいました。殿方向けでそれはそれは――! ぐむぅっ」
鳴狐が慌ててお供の狐の口を塞いだ。                               
「殿方向けの何だと言うんだ」
長谷部がぎろりとこちらを睨むから、仕方なく僕が口を開く。
「錦絵だと言っただろう? えほんのようなものだよ」
えほん絵本だと? はっ立派な殿方にか」
ほんと、こういうの、さらりと聞き流してくれれば丸く場が収まるのに。それができない刀なんだよねえ、長谷部クン。
「そう、えほん艶本
念押しの言葉を口にしながら横目で主を見ると、主が必死に笑うまいと肩を震わせている。ほら、これ以上吟味せずとも主はお見通しだよ。
「長谷部殿、ご安心ください! 短刀の方々の目には触れぬようわたくしめが尾で隠しておりま――」
口を塞いでいる手を振りほどいたお供の狐がまた話に割り込んだところで、鳴狐はやおら立ち上がるとお供の狐を上着の中に押し込んだ。
「狐を休ませたい。雨に打たれたから、熱でも出したらいけない」
「ああ、もういいよ。僕の好奇心から引き留めてすまなかった。皆も部屋へ戻るといい」
主が僕らにそう告げると、滅多に声を発しない鳴狐がこんなにも喋るのに驚いたからか、それとも主命の前には黙るしかなかったのか、長谷部クンもそれ以上何も言わなかった。
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 主の部屋を出て渡り廊下を厨へと歩く。刀の世にはなかった、庭と廊下を隔てる大きな硝子に、自分の姿がぼんやりと映し出されている。刀剣男士は概ねその刃長に従って人の姿に寄せている。短刀が幼い姿をしているのは、つまりそのためだ。この世に存在する長さに依らないのが人との最大の違いだろうか。僕は南北朝時代生まれだからこの世に生を受けてからの時間を当てはめたとして、まあここに集う刀たちの中で中堅どころの見た目であっても当たらずと雖も遠からず、ではある。まだ成長しきっていない若者の瑞々しい姿は少しばかり面映ゆいねえ。そっと自分の姿に手を伸ばすと、硬質なひんやりとした冷たさが指を通して伝わってくる。この世に存在した時間の長さならそんなに若くもないと思うんだけどねえ。俊敏さを生かせるこの身は悪くない。でも僕は生まれてこの方、この姿だったわけじゃあない。これでも元は大太刀さ。そういうと怪訝な顔を向ける刀もいるけど、あの当時は僕だって大太刀の括りだったんだ。後に大磨上の末、今の僕になったわけだ。
「おい、本当に作戦中、やましいことはなかった、と誓って言えるんだろうな?」
渡り廊下の入り口から長谷部クンがつかつかと近付いてくる。僕は気付かれないよう小さく肩を竦めた。
「っていうかさ、長谷部クンは出陣してもいないのになんであの場にいたかなあ」
僕は振り向くと、両の掌を上に向けて大袈裟に肩を竦めて見せた。
「何か問題でも? 本来、俺があの部隊の隊長だからな。部隊で起こったことはすべて把握しておく必要がある。主も俺がいることに異は唱えなかったろう? 当然だ」
そりゃそうだけど、……ねえ。
「大体お前が俺の代わりに隊長など……まして夜戦が初陣の短刀がいるというのに。お前に慣れていない初心な五虎退に悪い影響を与えないか気が気ではなかったぞ」
「失礼だねえ。僕だってちゃんと隊長くらい務められるし、そもそも君は主の警護のために現世へお供してたんだろう? 任務中に他のことに気を取られるなんて、感心しないなあ」
「っ、何を」
 一瞬、長谷部クンは言葉に詰まったけどコホンと小さな咳払いを一つ挟むと猛烈な勢いで捲し立て始めた。「任務に専念するのは言うまでもない。警護中とは言え、主のご都合で俺がひとりになることもある」
「はいはい」
「そもそも、お前に隊長を任せることに俺は反対だったんだ。いや、戦場ではお前を頼りにしているし、采配も安心して任せられる」
へえ、そんな風に思ってくれてたんだ……でもさ、そこだけ急に口籠もるように小声にならなくてもいいんじゃないかなあ。でもその長谷部クンの言葉を好意的に受け止めようとしていた僕の気持ちはすぐに続いた強い口調に消し飛んでしまったよ。
「だが、いいか! 何を考えているのかわからんようなお前の物言いや行動はだな、この本丸の風紀を乱しかねない。そして、それを許すような空気が蔓延しては、それこそ主、我が本丸の審神者の品格を貶めることに繋がりかねん! 大体、なんなんだ。そのお前の脇差らしからぬ態度といい――」
僕は自分の足先に視線を落として小さく溜め息を吐く。
「おい、はなしをしているときはちゃんとこっちを見ろ! お前の常日頃の言動がそんなだから余計に俺を不安にさせるんだ。さっきも主がああおっしゃるから追求しなかったが、お前たちは本当に短刀たちの前で広げるに似つかわしくないものを見たりしていなかったんだろうな」
おやおや? 短刀に似つかわしくない……ねえ。長谷部クンは何考えてるのかな。
「ッフフ……言っただろう? 錦絵だって。それとも長谷部クン、何か疚しいえほん艶本とやらに心当たりでもあるのかい?」
長谷部クンが言葉に詰まる。その表情が面白くてつい揶揄からかいそうになるが、ふと硝子に映る長谷部クンの姿に目が留まった。君だって僕同様、同じ刀種の中ではどちらかというと老けて見えるだろうに。
「ねえ、長谷部クン……君は、もし自分が磨上前の姿で顕現していたら……そう考えたことはあるかい?」
「な、なんだ唐突に」
突然話題を変えられて長谷部クンが眉を顰める。僕は長谷部クンの背後に回り両肩に手を置くと、硝子の長谷部クンに正対させた。僕より少し上背があるのが癪だねえ。
「長谷部クンは僕よりは成熟した成人男性の型だけど、でもさ」
僕は長谷部クンの肩越しに、耳元で思わせぶりに囁く。
「磨上前なら君は太刀だろう? 今よりもう少し体格が良くて、打撃ももっと強かったかもしれないよねえ」
硝子の表面に映る長谷部クンの瞳がわずかに揺れたような気がした。が、長谷部クンはふいに頭を振って咳払いをする。
「俺は主によってこの姿を得て、この姿だからこそ今ここに存在する。他に何を望むというんだ」
少しばかり呆れたような溜め息が長谷部クンの口端に混じる。
「だってさ、焼けた刀たちと違って僕らは磨上前の姿がここに残っているだろう?」
僕は長谷部クンの肩から心の臓の前へと左の掌を滑らせた。
「君も僕も、腕に物言わせて戦場を駆けていたのはその頃だ。僕なんかこの姿(脇差)になってからはすっかり置物扱いさ。それでも脇差として戦っているとき、ふとここにあの頃の高揚感のような炎が揺らめくことがあるよ。この身に押し止めておくにはあまりに熱く昂ぶる衝動をさ。持て余す、とも言うかもしれないねえ。ねえ、君はないのかい? そんな風に感じること。そしてもし、その熱が突き動かすこの身が、完成された肉体を持つ成人男性のそれだったら……」
長谷部クンは黙ったまま、硝子に映る己の姿を微かな戸惑いを隠しきれずに凝視している。
「ねえ、長谷部クン……?」
僕は長谷部クンの胸の上に置いた手を、丹田に向かってゆっくりと下ろしていった。
「もっと違う自分がそこにあるんじゃないかって……」
僕が丹田でその掌にぐっと力を込めると、長谷部クンがハッと我に返ったように身を退き僕の手を払った。
「巫山戯るな! お、お前は主から頂戴したこの身に不満でもあるのか!」
戸惑いを含んだ長谷部クンの言葉に僕はあっさりと答えてみせる。
「ないよ?」
たぶん、予想外だったろう僕の返事に、長谷部クンは拍子抜けしたようだった。僕はその長谷部クンの顔から、硝子に映る自分の姿に視線を移す。
「確かにあの頃の戦い方とは違うけどねえ、実際手にしているこの身に合った姿なわけだし。若返ると気持ちが華やぐというか、そうそう、若さに任せて衝動に身を委ねるなんてのもこの僕の見目なら美徳にさえなるかもしれないじゃないか」
ご機嫌な笑顔を向けた僕に長谷部クンは苛立ちを隠そうともせず、みるみる眉間の皺を深くしている。
「だからあ? お前は何がいいたいんだ」
「つまり、さ。今、僕らと共に在るこの身のこと、よーくわかっていたほうがいいだろう? 知らないということはたまには強さとなって吉と出ることもあるけど、往々にしてそこから生じる恐怖に飲み込まれて自滅するのが常だ。成人男性たる人の身にどんな機能があってどんな変化があるのかを把握しておくことは人の形を纏って暮らしている以上、大切なことだと思わないかい?」
にこにこと笑いかける僕に、長谷部クンが肩を震わせている。おや? 長谷部クンは達してしまったのかな……苛立ちが。
「全く、おまえの話はまどろっこしい」
長谷部クンはすごい剣幕で捲し立てた。
「ここに話が辿り着くまで、どれだけ回り道すれば気が済むんだ! おまけになんだ、その言い草は。そんなことが春画を見ていた言い訳になるとでも――」
「なんだ……ちゃんとわかってたんじゃないか、長谷部クンも」
意味ありげに横目で見遣ると、長谷部クンは忌ま忌ましいものを見るような目で僕を睨んだ。
「まあまあ、主も見当がついてたようだし……。あれ? そんながっかりした顔しないでくれよ」
僕の言葉に、自分だけが把握できていなかったのかと長谷部クンががっくりと項垂れた。長谷部クンの名誉のために言っておくが、元来長谷部クンは感情的な刀ではない。その名はかの織田信長がへまをやらかした茶坊主を棚ごと圧し斬ったことから付いたとされているけど、頭に血が上ったのは信長であって長谷部クンではない。冷静沈着でなにより主命を全うすることを一番に、最良の選択ができる刀だと思ってるよ。でもさ、僕にはこんな風に喜怒哀楽を見せてくれるってことは許してくれてるんじゃないかなあ。彼の気心をさ。
「あ、そうだ」
僕は自分の掌を拳でぽんと打つと、長谷部クンの肩に腕を回して声を落とした。
「今度一緒に江戸市中に調査に行くことがあったら大きな刀だけで薬研堀のほうへ足を延ばしてみないかい? 面白い店があるんだよ、四ツ目屋っていって――」
「いい加減にしろ! 不謹慎にも程があるぞ」
「あ、知ってるんだ。どんな店か」
おっと、余計な一言だったかな。別にいいじゃないか、自分が賜った人の身に興味を持つのはちっとも悪いことじゃないだろうに。
「いいか、俺たち刀剣男士はだな、主に仕え歴史を守るためにこの世での人の身を賜ったんだぞ」
長谷部クンが烈火の如く怒り出し、いつものお説教が始まってしまった。これ、始まるとなかなか止まらないんだよねえ。長谷部クンの声が渡り廊下に響く。もう夜も遅い、皆の部屋まで届かないでいるといいけれど。そんなことを考えながらまた硝子に映る自分の姿を横目に捉える。長谷部クンの演説はまだ止まりそうにない。
「おい、聞いているのか! 主命以外に俺たちがすべきことなど――」
僕は長谷部クンの口元にすっと人差し指を立て、その言葉を遮ってその先を引き取った。
「主命だよ、主が僕に言ったんだ」
「何? 主命だと?」
長谷部クンが怪訝な顔をする。
「そ、主命。間違いなく。この本丸に人の身を以て顕現してすぐに、主が僕に言ったんだよ。面白いよねえ、長いこと人の世に存在しているけど、まさか自分が人の欲を、それも学ぶだけじゃなく実践することになるなんてさ。僕は人の欲を実現するために創られた道具のはずなのにね」
長谷部クンは言い返すことなく僕の言葉の続きを待ってくれているようだったから、そのまま僕はしゃべり続けた。
「僕は戦場で拾われた刀だからね。ここに持ち帰られたその日は刀の姿のまま、ただ主の部屋に在るだけだった。宿るべきこの身を意識できたのは翌日。主が僕を顕現させて、まず僕に望んだのは人の欲を学ぶことだったんだよ。最初に教わったのは食欲」
「そうだ、全く食べなければこの身の維持に支障が出るらしいからな」
「次に睡眠欲」
長谷部クンもここに最初に来たときのことを思い出しているのか、先ほどの怒りはその様子からもう感じられない。
「俺も最初はわからなかった。成すべき事が山のようにあるのに、何故休まねばならないのか、と。だが、戦果を上げるためには休息も大切だということを主は教えてくれた。そして俺も今ではその重要性を理解している」
「そして性欲」
「ちょっと待て、俺たちに必要なのは戦う肉体を維持することだぞ。それを言うなら排泄欲だ」
長谷部クンの言うことは尤もだ。主命だと言ったことが幸いしたのか、長谷部クンは怒り出したりはせずにただ呆れたように額に手を当てて天井を仰いだ。
「ああ、僕も同じことを主に言ったよ。僕は戦のための刀だからね。主はこの僕に花街に通えと言ってるわけじゃあないことくらいわかるさ。だから人の欲とはなんなのか、これまでに仕えた主のことを思い出すだけでなく書庫に籠もったりして、そりゃあまじめに調べたんだ。人の三大欲求だっけ? それを伝えたらさ、ちょっと考え込んでから僕に言ったんだよ。<いや、やっぱり性欲でいいんじゃないかな、君の場合>って、さ」
長谷部クンがよそ見しているうちにと、僕は厨に向かって歩き始めたけど、案の定、長谷部クンの怒ったような声が追ってきた。
「おい、待て! 話はまだ済んでないぞ」
僕は背を向けたまま答えた。
「言っただろう? 主命なんだからさ」
どん、と乱暴に踏み出した長谷部クンの足音と同時に、よく通る清廉な声が廊下に響いた。
「長谷部、ちょっといいか」
主の部屋へ続く戸の前で蜂須賀虎徹が立っていた。贋作が多いとされる虎徹――その中で真作であり大名差しでもある彼は常に凛とした佇まいに静かな光を放っている。長谷部クンは政府への用向きといった対外的な補佐に従事することが多いのに対して、蜂須賀はこの本丸内の運営面で主を補佐している。それだけでなく、彼は主が選んだ第一の家臣、いわゆる初期刀と呼ばれる刀であり長谷部クンでも彼には一目置かざるを得ない。
「何か用か」
ほら、長谷部クンがすっかりよそ行きの声で物腰も柔らかく蜂須賀へ向き直ってる。
「政府から、預かった刀をすぐに取りに来いと連絡があってね。主がお呼びだ」
「勝手な。素性を改めてからでないと本丸への持ち込みは許さんと言って預けさせたのは政府の方だぞ」
長谷部クンはぶつぶつ言いながら蜂須賀と主の部屋へ入っていった。
 刀? 本丸に“持ち込む”と言っていたがどういうことなのだろう。新しい刀剣男士ならそんな言い方はしないだろうに。僕は少し不思議に思いながらも、その場を離れた。
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 この本丸は僕らが置物になる前、刀がまだ武器として活躍していた時代と比べてもさほど違和感なく作られている。が、この廊下のガラス戸のように実はあの頃になかったものや仕掛けがふんだんに施されている。主曰く、「あの頃の誂えでは、とてもじゃないけど僕らは健やかに暮らせないから」だそうだ。機能としてあの頃僕らが仕えていた「人」と主のあいだにさしたる違いがあるとも思えないのだけどと僕が不思議がったら、主は「冬になったらわかるよ」と笑っていたっけ。建物だけでなく、日々の暮らしも同様だ。母屋では火を熾して炊事や風呂の支度をしているけど、それは任務中に過去に取り残されたりしたときに迎えが来るまで生き延びるために当時の暮らしに日頃から慣れ親しんでおくのが目的だからだ。だから母屋でなく僕ら刀剣たちが暮らす庫院には陽の光を動力とする様々な道具が揃っている。そして母屋に施されている摩訶不思議な仕掛けのひとつはこれだ。玄関や勝手口に限らず、母屋から外へ出られる場所には蓋の付いた箱が備え付けてあって、脱いだ履き物はそこへ入れることになっている。どういうわけかその箱は次から次へと履き物を飲み込み、それがいっぱいになることはない。そして外へでるときには箱の蓋にある鏡の部分に自分の紋を映してから開けるとそこにはちゃんと自分の履き物が入ってるんだ。例えさっき脱いで入れたのとは違う場所の箱でもね。
 僕は廊下の突き当たりで厨へは向かわずに表へ出た。さっき入った玄関とはほぼ対角線上の出入り口だけど、この箱のおかげで履き物を取りに戻らずに済む。便利だよね。こんな夜更けに出歩いている刀はなく庭は静まりかえっていた。帰還したときに鼻を掠めた芳しい植物の気配を求めて池の畔を歩くが、どうやらここにはないようだ。社(やしろ)のある山側に視線を動かせば、木立の隙間からちらりちらりと光が揺れる。参道を仄かに照らすあの明かりも実は蝋燭ではなく、昼間に陽の光を集めたものだ。火の心配がないのはいいことだよ。あの香りはあの山にだけ咲く花なのだろうか。今度、主に尋ねてみようと思いふと母屋に目を向ければ、主の部屋の明かりがちょうど消えた。さっきのはなしだと長谷部クンとまた向こうに出掛けたのかもしれないな。
 今夜、月はまだ出ていない。闇に沈んだ庭で僕は神経を研ぎ澄ます。変わったところはなし、と。それじゃ、厨で軽く腹を満たすとしようか。
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 僕が厨の引き戸を引くと、そこには腕を組んで眉間に皺を寄せた歌仙クンが待ち構えていた。
「遅い……」
おや、機嫌が悪そうだね。どうしたんだろう。
「失礼するよ」
僕は何食わぬ顔で歌仙クンの横をすり抜ける。見渡した茶の間には誰もいない。
「あれ? 君の心を癒やしてくれる今宵のお相手はもう部屋へ戻ってしまったのかい? 随分と品行方正だねえ」
「いつまで俺を待たせるつもりだったんだい? もう冷や飯を置いて戻ろうとしていたところだぞ」
「おや、歌仙クンは僕では満足してくれないのかあ。せっかく今まで待っていてくれたというのに」
「こんなに待たされるのなら書物でも持ってきておくのだったと後悔するくらいには待ちぼうけを食らったんでね。僕はもう休ませてもらうよ」
それでも僕の夜食は用意してくれるらしい。歌仙クンが蓋を開けた釜からは湯気が立ち上っている。
「うん? 小夜左文字が夜食をもらいに来ただろう。ゆっくりはなしがしたいっていつも君が言ってたからさ、ふたりっきりで過ごせるように気を利かせたつもりだったんだけど」
 歌仙兼定と小夜左文字はかつて同じ家にあったことがある。この本丸には小夜クンのほうが先に顕現していて歌仙クンとは練度の差から一緒に出陣することはない。そのせいで話す機会がなかなか持てないと、ことあるごとに歌仙クンが嘆いていたのだ。
「ああ、来たよ。五虎退と一緒に。ここで食べて行けばいいと言ったんだが、五虎退が兄弟たちが心配して待っているから部屋へ持って行くと言って。それなら僕も部屋でと、お小夜も行ってしまったんだよ」
歌仙クンは目を伏せ、がっかりしているのが手に取るようにわかる落胆の溜め息を吐きながら、目の前の小鉢から好きなものを選べと盆を僕に向けてくる。ちょっと我が儘を言ってみる。
「蕗味噌がいいなあ。もしまだあるなら」
「ああ、まだあったはずだよ。そんなに気に入っているのかい?」
「初めて口にした味なんだ。だからたまに食べたくなる」
「そうだったのかい」
なんだかんだ言いながら歌仙クンはわざわざ棚から小さな壺を出してきて蕗味噌の握り飯を作って、茶の間の縁に腰掛けている僕に持ってきてくれた。
「引き留めればよかったのに」
茶を入れに戻る歌仙クンの背中に僕が声を掛けると、歌仙クンは立ち止まって向こうを向いたまま努めて明るい声で返してくる。
「どう引き留めろ、と? お小夜にも待っている兄たちがいる。他愛のない昔話のために兄弟の団らんの邪魔をするのは無粋だろう」
「何度目だろうねえ、君のその話。いいじゃないか、向こうはいつも一緒に過ごしているのだし。何をそんなに気に病む必要があるかなあ。その度に僕に八つ当たりするのはどこの誰だい? ほんと、三十六人も手討ちにした御刀とは思えないよ」
「手討ちにしたのは僕の主であってだな」
歌仙クンは僕の脇に入れてきてくれた茶をどんっと置いた。
「ッフフ……。雅を追求する茶もいいけれど、今夜はそのくらい激しいほうが好ましいよ。しおれてるよりはね」
「おまえのその物言いはなんとかならないのか」
歌仙クンが額に手をやり、苦虫を噛み潰している。一方で僕は口にした蕗味噌の独特の苦味に満たされていく。落ち込んでいるより怒るくらい元気があったほうがいいじゃないか。さ、こんな夜更けまで待ってくれていたことは素直に感謝を伝えないとね。
「ごちそうさま、美味しかったよ。湯飲みは僕が洗っておくから、歌仙クンは先に戻るといい」
「残念ながらそうはいかないんだよ」
気を利かせたつもりで湯飲みを手に立ち上がった僕にそう言うと、歌仙クンは湯飲みをひょいと取り上げてすたすたと洗い場へ戻っていく。不思議そうに見ている僕に歌仙クンが背を向けたまま伝える。
「有り難い申し出だが、今夜はかまど番なんでね」
「へえ……さっき待ちくたびれて戻ろうと思ってた、なんて僕に言ったくせに。さては、僕の気を引こうとしたのかな?」
「黙れ、さもないと腕尽くで黙らせるぞ」
その勢いで小夜クンも誘えばいいだろうにねえ。でもそれは口にせず、ありがとう、おやすみとだけ告げて僕は通り土間を歩き出した。
「そう言えば」
歌仙クンが改まって僕を呼び止める。
「帰還後、主と話をしていたのだろう? 屋敷のことで主は何か言っていたかい」
「何か……って?」
出陣先のことで盛り上がってはいたけれど、屋敷のことについては特に話題になった記憶はない。
「いや、主が戻ってから……僕らも夕餉が済んでいたし、すっかり日が暮れたあとのことだよ。君たちが帰還する前のことだが、奇妙な音がしてね」
「音?」
「ああ、鋭い笛の音のような……花火を打ち上げる音だという刀もいたね。規則正しく数回聞こえたかな」
「まだ夏祭りには早いよねえ」
「それに遠くでというより、音がしたのは庭先のような近さだったんだ。主は、風が何かの拍子に音のするような場所をすり抜けたんじゃないかって笑ってはいたけど。心配するものもいてね、一応本丸の警備状況を担当部署に問い合わせると言っていたんだ」
「特にそういった話題は出なかったから、問題なかったんだろうと思うよ」
「そうか、それならいい」
「もしかしてそんなことがあったから、小夜クンを引き留めずに兄弟のところへすぐに帰したのかい?」
「竈番がここを離れるわけには行かないからね。送っていけないのなら五虎退と一緒に庫院に戻ったほうがあんしんだろう?」
「ふ~ん、それなのに僕に八つ当たりだなんて……そんなに僕に――」
言いかけたけど、歌仙クンがすごい形相で睨んでいるのに気が付いたから、僕は歌仙クンに微笑むと手をひらひらと振ってその場を離れた。
 自称「風流を愛する文系名刀」で、そのくせ心の機微を表現するのが不器用な武闘派、それが歌仙クン。多少なりとも共に過ごす時間が増えればああやって軽口を叩くほどに気さくな面もあるのに。ま、他の刀には彼は奥ゆかしいからとでも言っておこう。
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 母屋の通り土間を抜けて庫院へと向かおうとした先で何やら騒ぎが起きている。母屋の軒を伸ばして雨に濡れずに済むようになっている通路の下で、数刀がたむろしているのが見えた。
「俺たちは風呂からまっすぐここに歩いてきた。だが、そんなものは見てないしな。なあ、厚」
「ああ。第一、この本丸は侵入者がいればすぐにわかるようになってるんだ。何かを見間違えたんじゃないか?」
不自然に明るい声は薬研藤四郎と厚藤四郎だった。薬研クンは短刀のなかでも練度が高く、短刀だけの部隊を率いて夜戦に出ることも多い。傍の薬研は真っ二つにするほどの切れ味なのに、持ち主の腹は切らない。それが彼の名の由来だ。厚クンは薬研クンほどではないが押されがちな局面での踏ん張りを持ち味にこのところ頭角を現している。鎧通しとしてのその厚みがそのまま名になったのだろう。
「で、でも……あの白い影は山姥切さんの布じゃあなかったです……どちらかというと、その……白い着物というか」
「そ、そうだよ! ぶわ~っと翻るようには見えなかったし、それこそ白い着物姿の女の人みたいな」
「呼んだかい?」
僕は薬研クンと厚クン、両藤四郎背後からぬっと顔を覗かせた。おっと、いけない。静まりかえった本丸に悲鳴が響くところだった。叫び出しそうになった薬研クンと厚クンの口を慌てて塞ぐ。二刀ふたりの向かいにいたのは乱クンと五虎退クンといえば一瞬ぎょっとした顔を向けたければすぐに僕だと気付いていて自分で自分の口に手を遣って声を押し止めた。
「すまない、僕だよ。僕」
「お、脅かさないでくれよ。にっかりの旦那」
薬研クンは平静を装っているが声が裏返りそうになっていた。厚クンのほうはというと、胸に手を当てて肩でしている息を整えようと必死だ。五虎退クンはまだ落ち着かないのか口をぱくぱくさせているが声にならない。
「もう、脅かさないでよ。そうじゃなくてもにっかりのその白装束が効果的すぎて洒落にならないよ」
乱クンの目が笑ってないから、冗談で返すのは止めておこう。そう、僕の戦装束には経帷子が備わっていて、左肩上で片流しになってるんだ。
「で、なんの騒ぎだい? こんな夜更けに」
「ゆ、幽霊をみたんです……」
五虎退クンがやっとのことで口にした。ほぉ、幽霊ねえ。
「明日の朝でも良かったんだけど、今夜は歌仙が竈当番だっていうから、これ返しに行こうと思って五虎退と母屋へ来たんだ」
なるほど、乱クンと五虎退クンの手にあるのは夜食の盆だ。
「ちょうど母屋の渡り廊下の手前まで来たところで……に、庭のほうからこう、裏手に向かって白い何かが横切って、この角で消えたんです」
「それが見えたのは五虎退クンだけなのかい?」
「ボクも見たよ。それで驚いてすぐに追い掛けたんだ。だけどこの角のところで見失って。いくら僕らの夜目が利くっていっても、まだ月も出ていないからはっきりとは見えてなかったけど、あの背格好……この本丸に思い当たる男士はいないよ」
「で、君たちは?」
僕は薬研クン、厚クンに向き直って尋ねた。
「それが……」
厚クンは薬研クンと目を見合わせた。
「特に怪しいものは見てない。俺たち、出陣から戻ってそのまま風呂場に直行したんだ。で、風呂から上がって、通り土間じゃなく外を通ってここまで来たらこいつらがこの場で固まっててさ」
薬研クンの説明に厚クンが頷く。
「もし何者かがいたのなら、君達二刀(ふたり)とすれ違ってるはず、か」
「や、止めてくれよ。にっかりの旦那。こっちに曲がったとは限らないだろう?」
薬研クンの瞳が眼鏡の奥で彷徨っている。
「でも、もし反対側に行ったなら。おふたりから背中が見えていた……はず、ですよね」
五虎退クンがおずおずと申し出る。確かにここから庫院までは平だから見通しはいい。
「ちょ、落ち着けよ、五虎退。そのまま真っ直ぐ裏の森へ入っていったのかもしれないじゃないか」
厚クンが声を上擦らせる。
「森に、って、こんな時間に何しに?」
乱クンの決定的な一言に二刀ふたりは顔を見合わせた。うん、そうだね。こんな時間に森に用事がある男士がいるとは思えない。
「いいや、この本丸に幽霊だとかそんな妖の類いが入り込めるわけがない。夕餉のあとに怪しい音がしたと騒いでいた奴もいたが、ありゃ何か実態のあるものが風を切る音だった。白い何かも正体がわかればちゃんと説明がつくものに違いねえ」
薬研クンが頭を振って自分に言い聞かせるように言い切った。
「そ、そうだな。誰かが俺たちを驚かそうとしただけかもしれないぜ。よし、とっ捕まえてやる」
ふ~ん、想定できる何かがあると俄然落ち着きを取り戻すし、正体を突き止めるの躊躇わないんだね。
「で、でも、ひゅ~るるるぅって聞こえたって僕、聞いたんだけど」
五虎退クンがおずおずと申し出る。
「ッフフ……安心しなよ、五虎退クン。ひゅ~どろどろどろ~なんて音と一緒に幽霊が出てくるなんてのは歌舞伎の中だけだよ」
「じゃ、じゃあお化けの心配なないですね」
五虎退クンがはにかんだ笑みを僕に向けた。
「ねえ、にっかり。そうは言ってもやっぱり正体はすぐにでも調べたほうがいいかなあ」
この本丸を支えているという自負があるからか、少し尻込みしながらも調べようと提案するのが乱クンらしい。でも、さっき厚クンが言ったとおり、この本丸は侵入者があればすぐにわかるようになっている。
「半鐘も鳴ってないことだし、不審者が入ってきたわけではないんだろうとは思うよ。僕がちょっと見回ってみるよ。もし誰かのいたずらだったりするなら、あまり大人数で騒ぐと逆に出てきにくいだろうからね」
実際、この本丸には、悪気はなくても結果的に質の悪いいたずらになるようなことをしでかす刀もいる。
「そうだね、でもお願いしちゃっていいのかなあ……本当に手伝わなくていい?」
「僕だって夜目は利くしね。それに」
僕は乱クンににっかり笑ってみせた。
「僕は幽霊にはちょっとうるさいんだ、任せて損はないよ。きっと、ね」
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 僕は茶の間の屋根に座っていた。ここは母屋で一番高いから本丸の敷地を一望できるんだ。僕は庭から裏手へと母屋と庫院のあいだをずっと窺っていた。おかしいなあ。僕がこの騒動の首謀者として目星を付けた刀は太刀だ。つまり夜目が利かない。だから様子を窺っていれば足元を照らす明かりを見つけられると思っていたんだ。なのに待てど暮らせど蛍火ひとつ見つからない。この本丸に侵入者がいて半鐘が機能していなかったとしたら大事だが、ここの警戒設備は敵襲に備え政府が二十四時間監視していると主から聞いている。まさか実態のない何か――本当に幽霊でも出たんだろうか。
 さっき僕は半鐘がなっていないから侵入者はいないと言った。それは半分本当で、半分は嘘だ。政府のお役人や訪問者など、この本丸に登録されていない人間がここに足を踏み入れればそれはすぐに察知される。また人ならざるものでも、人――審神者――や僕ら刀剣男士に害を為すもの、つまり傷付けることができる存在に対しても機能する。だが、そうでないものがある。里や森に住む鳥や獣は言うに及ばず、目に見えぬものがここを行き来しているのを僕は感じる。それはすでに生を終えている生き物の念だったり、木々や草花、虫たちの声を持たぬものの息遣いや気配といった、僕でもどう表現したらいいのかわからないものでこの世界は満ちている。特に夜はそうだ。昼と違って目に見えぬ気配が濃密過ぎて却って神経が研ぎ澄まされてしまう。この人の身というのは、夜眠らなければ良い状態を維持できない。それを知ってからは努めて眠るようにしているけれど、実は夜のほうが自分が纏う命という存在を身近に感じたりするんだ。面白いよね。
 そんな思いが過ったときだ。帰還したときに一の鳥居で嗅いだ香りが鼻先を掠めた。どこからだ。僕は風上を仰ぐ。社だ。参道は本丸の脇から続くが、本殿は本丸裏手をまっすぐに登ったところに位置する。でも妙だな。木立の隙間からちらちらと灯りが揺れているのは参道だ。中腹でより明るく見えるのが本殿……のはず、なのに。まるで花明かりのように朧気な光を放っているのはそれよりも山頂寄りだ。禍々しい気配は感じないし、あそこは本丸の外だ。でも、だからと言って見過ごすことはできないな。僕は屋根から飛び降りると本丸を出て参道を駆け上がった。

  ――どうしてこんなに賑わっているんだろう――

 ふとそう思った瞬間、僕は息を呑んだ。僕は何を言っているんだ。目の前に続く参道を頼りない灯りが足元を照らしているが そこに人影はない。だが、本殿に近付くに連れてそこにある気配が増えている。立ち止まって目を閉じる。木々の葉を揺らす風、その風がふわりと纏う花や緑の香り、そして森の命。ゆっくりと目を開いたとき、そこに広がっていたのはまるで鳥獣戯画の如く集う動物たちだった。いや、動物だけではないから動植物と言うべきかな。それが実際に瞳に映っているのかどうかはどうでもいいことだ。ただ僕はそこに多くの命が息づいていることを感じている。もしかしたらそれは、かたちないものを僕が知っている姿へ投影しているだけなのかもしれない。それでも僕は目に映るまま、それを受け入れている。そうだよ、古よりこの世は命に満ちている。目に見えるものも見えないものすべて等しく存在していたことを僕は思い出していた。この身を得てからというもの、人が作りし物に慣れ過ぎたのかもしれないね。何しろすべてが物珍しくて目を奪われていたのだから。
 ただ、此処へは今までにも何度も足をはんこでいる。意識していなかったにしてもこれだけの気配に気付けなかったとは思えない。静かに様子を窺えば、どこなく高揚した喧噪に祭りらしき雰囲気を感じ取った。ああ、それならこの華やいだ感じも不思議はないね。今夜は人とは別の、この鎮守の杜の庇護下のいきものたちの祭りなのだろう。そこに在ると感じるものに実態があるかどうかは別として、僕はそれらの邪魔にならないよう気配を消してより明るい本殿の裏手へと向かった。
 急な斜面を見上げる。本殿の脇へは前に祭りで本丸の皆と来たことがある。でもその奥へ足を踏み入れたことはなかった。確か主は本殿の奥には磐座いわくらがあると言っていた。薄ぼんやりとしてはいるが、そこには大きな岩がいくつか見えた。みだりに立ち入ってはならぬ場所であることは言われずとも伝わってくる、そんな場所だ。霧が出るほど登ってきたわけでもないのに、白く靄が掛かっている。いや、こんな深夜に明るく見えるのがおかしいのだ。本殿のほうを振り向けば、そこはたき火か提灯のような橙に染まっている。でもここは違う。不思議だ。そう思えば思うほど吸い込まれるように目が離せなくなる。気が付けば僕は磐座のすぐそばの木の根元まで足を踏み入れていた。
 から、かららん。どこからか乾いた音が零れる。突然、静寂が降り立った。本殿の喧噪が嘘だったかのように辺りは静まりかえっている。ほどなくして木立の隙間から一筋の光が磐座を照らし、それは徐々に広がっていった。ああ、月が昇ったんだ。振り仰げば梢の先から柔らかな弧を描く月が顔を覗かせている。白く霞んでいた世界が月明かりで染め上げられていく。その光の輪の中心に人影があった。白拍子? いや、違う。似ているけれど手にしているのは……木の枝か。からん。乾いた音がその手から零れる。乾いた木の実の中で種が転がるような、控えめな音だ。その影は腰を屈めたままじっと動かずにいる。からん。木の実が揺れた瞬間、白い袖が翻る。枝を持つ手が大きな弧を描き、まるで光の中で空を舞うように浮かび上がる。そしてまた静かに低く頭を垂れじっと佇む。何かに耳を傾けているかのように。またしばらくしてからん、と音が零れる。屈んだ身体がしなやかに解き放たれる。その手は虹を架けるかの如く光の中を駆けゆく。これは巫女舞なのだろうか。高らかに鳴り響く鈴の音もなく、またその舞は歌舞音曲にほど遠い素朴なものだ。それなのに、ただ静かに四方を拝むようなその動きから目を離せない。振り仰ぎ天の声を。ひれ伏して地の声を。かの女人が受ける神託は如何なるものなだろう。
 どのくらいの時間が経ったか僕にはわからなかった。舞を終えたのか、女人はもとの位置に戻ったところで両の手で木の実を小さく揺らし、深々と一礼する。かららん。もう一度、小さく音がした瞬間、静寂は破られ本殿の神楽が耳に飛び込んできた。僕はハッとして目を見開く。が、そこに女人の姿はもうなかった。ただ、つい今し方、その手の中にあった枝がその場に挿してあるのを見て僕は我に返った。
 おかしい。出ている月は二十六夜。森をあれだけ照らすほどに明るいはずがない。僕は本殿へと斜面を駆け下りる。社殿の先に白い人形(ひとがた)が見え隠れする。どうやらここに集うものたちに歓待されているらしい。わからない。僕はここでは異端のはずだろう? なのに神楽を楽しんでいたものたちは僕にも同じように輪へ加わるよう招き入れ酒を振る舞おうとする。ここは主が設えた神社だ。神々だろうが異形だろうが、ここで争いをおこすわけにはいかない。僕は無碍な扱いにならないよう気を配りながら先を急ぐ。どっと沸いた笑い声の先には恵比寿が釣り竿を手に神楽を舞っている。ああ、行ってしまう。僕は確かめなくてはならないんだ。例えそれに実態があろうとなかろうと。本丸を歩いていたのは君なのかい?

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 あれから白い人影を追って本殿から脇に入り、獣道に分け入った。できたばかりの足跡を追うが、これって実態があるということだよね? 社の山にこんな道があるなんて聞いたことはない。でも木々の間からは確かに先を行く白い衣が見え隠れしている。後ろを気にする様子はないから、僕に気付いてはいないのだろう。あまり起伏のない森の中をどのくらい進んだろうか。ふと茂みを抜けたところで突然視界が広がった。
 僕は思いも寄らない展開に混乱していた。ここは本丸の母屋裏じゃないか。どういうことだ。本殿があるのは小さいとは言え山の中腹だ。斜面を下った覚えはない。なのに、目の前にあるのはさっき短刀たちと談笑した一角だ。ぞくりと背筋に冷たい何かが走る。辺りを見回しても追っていた影はない。
  あの感じは人とも思えないけど僕らと同じで人の身そのものはここに存在しているようだった。果たして、僕が幽霊を見間違うだろうか。それはないと思いたい。何故って、そういうの、僕の沽券にかかわるってもんだよ。なら、獣に化かされた? よし、怪しいものが入り込んでないか今夜は徹底的に本丸の中を探そうじゃないか。こんなことでむきになるなんてちょっと僕らしくないなあと思いながらも、歩き出した僕はどこかわくわくしていた。あのとき、あの場所は神々の気配で満ちていた。人が社殿に奉るだけが神じゃあない。元来、人はそこかしこに神を見ていたじゃないか。それが時を経て儀式として整えられ、神との会話さえ形式的なものが辛うじて伝わっているのが今の世だと主は言っていた。それなら、物に憑いた存在とはいえ、神と名の付く僕らがこうして姿を現し人と会話をするなんてのは一周回って逆に先進的なのかもしれないよね。あの山に住む小さな命に神が宿る。まるで人のように集い神楽を舞い、酒を酌み交わし、笑って。どんな神さまに奉納していたんだろう。だって、本殿で目にした光景を思い浮かべれば、高揚するのも無理ないと思わないかい。その輪の中に紛れた僕は、排除されることなく歓待されたんだよね。まあ、すぐにお暇させてもらったけどさ。悪い気はしなかった……というか、うれしかったのかな。僕はふと立ち止まって考える。うれしかった? 何がだろう。
 ひゅるるるるるるー。そのとき耳慣れない音が天を駆けた。僕はすぐさま音がしたほうへと駆け出した。
そこは僕らが耕す畑の先、果樹園の更に奥だ。さっき、耳慣れないとは言ったけど、それはこの本丸では今まで聞いたことがないというだけで、この音には聞き覚えがある。もし僕の予想が当たっていればそれはさほどこの本丸に害をなす存在ではないはずだ。問題は何故こんな時間にそれが鳴るかということなんだ。僕は葉の生い茂る果樹に身を隠すように音の鳴ったほうへと近付く。そこには果樹園の端を本丸の敷地の縁に添って歩く白い装束姿。その背格好は……間違いない、磐座で舞っていたあの巫女だ。ゆっくりと、まるで散歩でもしているかのように歩いている。ならば、と、僕は行く手にある屋敷林の枝の上で様子を窺うことにした。のんびりと草を踏む音が辺りに零れる。目を凝らせば、予想通りその手には弓が握られているのが見えた。やっぱりね。さっきの音は鏑矢だよ。多分、今夜聞こえた怪しい音というのはこれのことなんじゃないかな。合戦の合図に使われたこともあるけど、時代が下ればそれは邪気を払い、魔を退散させる矢だ。それをここで射るということは少なくとも本丸に害をなそうとはしていないと考えていいはずだ。仮に敵に合図を送っているとして、残念ながらこの本丸と外ではこんな方法で音が筒抜けになったりはしないんだ。でも、この本丸に女人がいるはずないしねえ。それに、幽霊というと足がないと思われている時代があったようだけど、実際にはそんなことないからね。そして人に害為す存在ばかりじゃない。そんなことを考えながら木の上で待つ僕に向かってゆっくりと歩いてくるその姿が月明かりに照らされて浮かび上がる。磐座では白拍子みたいに水干姿に烏帽子を纏っていたはずだけど、今は簡素な白い長着ながぎ姿だ。髪は僕より短そうだ。さすがによくはわからないけど、ふわりと結わえてあるようで、弓を持つ手とは反対の肩で揺れている。烏の羽にようにしっとりと濡れた艶はおそらくそれが黒髪であることを教えてくれる。
 さて、どうしようかな。あれがここに危害を加えるつもりはなくても無闇にうろつかれては問題だし、仮に主に縁ある存在だとしたらそれこそ斬り伏せるわけにもいかないだろう。成仏できずに当ても無く彷徨っているだけならいっそ斬られたほうが楽になれるだろうけど。そうではなくて獣が人を化かそうとしてるなら、二度とそんなことをしないよう、お灸を据えてやらないといけないし。
 あれこれ考えながら僕は鍔に指を掛ける。用心するに越したことはない。万が一、不測の事態あらば迷わず斬ってあげようじゃないか。僕がぐっと指に力を入れたときだ。それはぴたりと足をとめた。じっと正面を見据えている。目線は上向きだ。まさか気付かれたのか? そんな馬鹿な。敵から身を隠し様子を窺う能力については僕はこの本丸でも一、二を争うんだ。月を背にしているせいでこちらに向けられた表情まではわからない。それでもじっと見つめられているような気がして、息を飲んだ瞬間だ。
 素早く番えられた矢がまっすぐ僕に向けられたかと思うと、何かが風を切る音が僕の耳に届く。目を見開けば見知らぬ娘が眼前に迫る。風にはためく髪や衣の勢いでそれがとてつもない速さで向かってきていることがわかるのに、僕は鯉口を切るので精一杯だ。娘の頬の脇で鏃が輝羅と光る。瞬間、鈴のような声が闇に零れた。
「違う、お前じゃない」
 まるで旋風のように身を翻して僕を避けたそれは……。全身が泡立つのを感じ、僕はハッとして瞬きをする。目の前に広がるのは何事もなかったかのように静まりかえる夜の里山の風景だ。そして今し方立ち止まった場所で身動ぎもせず弓を構えている人影。それじゃあ今、僕の目の前を掠めたのは何だったのか。乱クンよりは年嵩で、人の身としての外観だったら、そうだなあ僕と同じくらいの娘だった。でもその娘にこの僕が気圧されたって? 抜刀すらできなかった自分に対して静かな怒りが込み上げてくるが、それと同時にまるで戦場に降り立ったかのような高揚を覚えた。睨みつける僕を知ってか知らずか、娘は静かに弓を下ろすとすたすたと元来た道を戻り始めた。
 あの社は主が個人的に寄進したと聞いている。そこでご神託を受ける存在なら尊重しなきゃいけないかもしれないと思い始めていたけど、僕ら刀剣男士に弓を引くというなら話は別だ。僕は木から飛び降り、その後をつけた。もう身を隠す必要はない。僕が付けているのがわかるようにわざと大袈裟に草を踏み歩く。始めはこちらを無視するかのように歩いていた娘だけど、そのうち気になったのかちらりちらりとこちらを振り向きだした。でもおかしい。反応がこちらが期待したのとはまるで違う。怯えたり焦ったりする様子はなく、何故か自分の身なりを気にするような素振りを繰り返す。歩きながら自分の長着を引っ張ってみたり袖を摘んで広げてみたり。自分が見えていないはずだとでも思っているのかな? いや、このくらいの月明かりなら丸見えだよ。そうやって腕を広げて月明かりに衣を翳せば体の輪郭が透けて見えるくらいには明るいんだからさ。まあ、夜目の利く僕だから見える、ってのはあるかもしれないけどね。
 僕は一定の距離を保ってついていく。娘が立ち止まれば僕も立ち止まり、再び歩き出せば僕も歩き出す。次第にそわそわとし始め、落ち着かない様子が見て取れる。そろそろ潮時だろうか。そう思ったときだ。
「もしかして、見えてるの?」
 娘の呟きが風に乗って僕の耳まで届く。娘が恐る恐るこちらを振り向こうと身を捩り出したそのときには、僕はもう既に草を蹴って娘のすぐ後ろまで距離を詰めていた。
「ああ、とてもよく。月明かりで衣が透けて見えるほどにね」
僕は弓を持つ娘の腕ごと胴を抱え込んでその動きを封じるや否や、振り向いた娘のうなじに刃をあてがった。
「迂闊だったね……そんな無防備な態(なり)でここに忍び込むなんてさ」
耳元で囁いてみせると僅かに身体を強張らせる。残念だな、見下ろして凄みを利かせてみたかったんだけど、ちょうど僕の目の高さくらいが娘の頭のてっぺんだ。
「忍び込んだなんて……失礼ね。わたし、ここへは主さまに連れてこられたのよ?」
まっすぐな瞳がこちらに向けられた。まったく、肩透かしを食らった気分だ。まるで怯える様子がないじゃないか。
「そんな言い訳で僕を誤魔化そうっていうのかい? 嘘をつくならもう少しまし――」
「貴方、主さまに仕える剣士さまのおひとりなのでしょう? 主さまがなさったこと、ないがしろにするおつもり?」
娘は強い口調で僕の言葉を遮った。
「主さまはここには名だたる剣士さまが集まっているとおっしゃっていたけれど、名だたるが聞いて呆れるわ。一体どこのどなたなのかしら」
多分、娘の言う剣士というのは僕ら刀剣男士のことだろうとは見当が付く。いや、そうではなくて、主さまってどういうことなんだ。ここで主といえば唯ひとりしかいないはずだ。本当に主の縁者なのか。こんな状況下にあって捉えられたままにも関わらず、怯むことなく毅然と相対する娘の態度は好ましくさえあった。少しばかり僕は態度を軟化させる。
「君が僕らのことを主から聞いているとして、僕らは主からここに仲間が加わるとは一切聞いていないんだ。不審者にはそれ相応の対応を取って然るべきだろう?」
娘は少し思案するような素振りを見せた。
「自分から名乗ったらどうだい、僕に尋ねる前にさ」
僕がそう言うと、娘が目を伏せた。少しは自分の立場を理解したのかと思ったが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「ごめんなさい。わたしには……わたし自身を指す呼び名がないの、まだ」
そう言うと娘は顔を上げ、少し哀しそうに僕に笑いかけた。ああ、一体どうしたらこんな状況下でそんなふうに笑えるんだい。でも、名がないだって? それは合点がいかないよねえ。まあいいか。
「仕方ないね。君に名乗る名がないのなら今夜は特別に教えてあげようか、僕のこと」
僕は娘を解放し刀を鞘に収めながら名乗りを上げる。
「僕はにっかり青江。元は大太刀の大脇差さ」
「? に、にか……?」
娘はうまく聞き取れなかったようだ。
「うんうん、君も変な名前だと思うだろう?」
僕は今一度娘に詰め寄る。
「でもさ……」
僕はまだ鞘に収まりきってない刃を娘の目の前に突きつける。ほら、月明かりに冷たく光ってきれいだろう?
「にっかりと笑った女の幽霊を斬ったのが由来、と聞いて、まだ君は笑っていられるかな?」
言い終えると同時に、刃を完全に鞘に収めれば娘が思わず息を呑む。最初が肝心だからね。無碍に脅かすつもりはないけど、まあ、牽制だよ。
「そう……わたし、刀のことは実はよくわからないの。でも、さっき失礼なことを言ってしまったことはわかるわ。立派な刀……貴方のような刀がここにはたくさんいらっしゃるのね」
僕のような刀、か。その口ぶりは主のいう剣士というのが刀の付喪神だとわかってるみたいじゃないか。
「そうだねえ」
娘が何を指して僕のようなと言ったのかわからないから、僕はどうとでも取れる返事をしておく。
「あの……いきなり矢をむけてごめんなさい。改めてお詫びします」
娘は弓を右手に持ち替え、居住まいを正して頭を下げた。
「可哀想な魂が迷い込んできたから御山へ追い払おうとしたの。矢を番えるまで貴方に気付いてなくて。それにわたしを迎えに来た主さまだけでなく護衛の剣士さまもわたしのこと、見えていなかったから、わたしはそういう存在なんだって思ってて。それでも、迎えにきてくださったとき、主さまはわたしにこの地を守って欲しいから連れて行くのだとわたしに向かって言ったの。だから、わたしの姿は見えていなくても、せめて魔を払うとかできることはしようって」
そこまで一気に捲し立てたのに、娘の声から覇気が消える。
「だって、主さまは護衛の剣士さまに気休めでもいいんだとおっしゃってたの。ああ、本当にわたしのことが見えていないんだって思ったらちょっと悲しくなったわ」
そう言うと、娘は一度空を仰いでから僕へと向き直った。
「でもね、わたしはこうしてここにいるんだもの、気休めでなく本当にお役に立ってみせようって、お部屋を抜け出したの。なのに……あ~あ、貴方のような刀がいらっしゃるなら、わたしなんて本当に気休めにしかならないのね」
娘は自嘲気味に笑った。
「主がどんなつもりでそう言ったのかは僕にはわからないからねえ、慰めようがないけど」
僕の脳裏に、磐座で舞う娘の姿が浮かぶ。
「主がわざわざここへ君を連れてきたのなら、どんな形であれ、主は君を必要としているってことなのだろう?」
僕はそう言いながら手にしていた鞘を右手に持ち替えた。娘は少し驚いたように瞬きをして、それからにっこりと微笑んだ(ニッカリじゃあなく、ね)。
「そうね。それに今こうして姿が見えてるってことは、明日、主さまもわたしに気付いてくださるかもしれないし。そしたら何でもいいから主さまに呼び名を付けていただくのはどうかしら? ね? えっと……に、にか……」
「にっかり青江。呼びにくかったら青江でいいよ」
娘の言うことをすべて信じたわけじゃない。かといって疑うわけでもない。まだそれを確かめようがないから一旦棚上げだ。それに、少なくとも娘から主に仇為すような不穏な気配は感じない。今夜はそれで十分だ。そのかわり余計なお世話をひとつ焼いておこう。保険だよ。
「君にひとつ忠告しておくよ。無闇に本丸内をうろつかないほうがいい。言ったろう? ここにはたくさんの刀が集まってる。君はそのことを知っているけど、僕らは君のことを聞いていない。君、数刻前に鏑矢を放ったろう?」
 娘はちょっとぎくりとして、小さく頷いた。
「聞き慣れない音がした、幽霊を見た、ってね。ちょっとした騒ぎになってたんだよ」
「ごめんなさい」
娘はすっかり恐縮している。
「明日の朝、主さまがわたしをみなさまに紹介くださるはずなの。だから、それまでは出歩かずに大人しくしてるわ」
「それがいいよ、約束だ」
何故か今夜の僕は、娘の正体を突き止める気にはなれなかった。神を降ろす姿を見たからかな。まあ主から何らかの説明があるまで、娘がどこかに引き籠もっていてくれさえすれば問題は起きないだろうし、もし約束を違えるようなことがあれば、そのときは躊躇うことなく斬ればいいだけさ。
「それじゃ、今夜は失礼するわ」
娘は礼儀正しく一礼すると、母屋へ向かって歩き出した。その背中を見送っていると、ふと娘が立ち止まって振り向いた。
「青江さまー、斬らずにいてくれてありがとう。でも、もしわたしが主さまを害するような存在になることがあったら、躊躇わずに斬ってくれていいわ」
娘は物騒なことを叫びながら無邪気にこちらに手を振ってみせる。僕は少し手を上げてみせた。
 遠ざかる娘の姿が月の光に溶けていく。そのくせ、草を踏みしめる音はいつまでも僕の耳に残っていた。
「まるで、夢でもみていたようだね」
僕は柄にもないことを口にした。
 ここは山間(やまあい)にある本丸の外れ。二十六夜の月はいつの間にか西へと巡り行き、里ではまだ青々とした麦の穂が風で揺れていた。

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