弓川

一次創作(創作男女)のイラストを描いています。
年下男子キャラと男女カプが好き。
イチャラブ好き。餅も好き。
転載、自作発言、AI学習などは禁止しています。

ちなみに、一瀬の誕生日は7月22日、まいちゃんの誕生日は12月31日です。

投稿日:2026年03月05日 22:38    文字数:13,544

恋人(?)の一瀬くん 後日談(後編) - 曖昧な恋を抱きしめて

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「後輩の一瀬くん」のバッドエンドif、「恋人(?)の一瀬くん」の後日談(後編)です。一瀬視点。
性行為描写を含みます。

※前提から読みたい方はこちら
→ 「恋人(?)の一瀬くん」( https://pictmalfem.net/items/detail/100232

【含むかもしれない要素】
メリバ?(とはいえ前提がバッドエンドなので、人によってはもっと暗く感じるかも) / 1対1の創作男女カプ(攻:男の子、受:女の子) / 共依存になりかけ / 行為の同意が曖昧
1 / 1

 まいさんの様子がおかしい。
 僕がそれに気づいたのは、彼女と付き合い始めてからまだひと月も経っていない頃だった。

 彼女に告白を受け入れてもらったあの日、その勢いのままに唇を奪い、体を重ね、僕たちは結ばれた。最初こそ手荒な真似をしてしまった自覚はあったが、最終的には彼女もすっかり抵抗をやめ、それどころか自ら僕を求めてくれるまでになっていた。
 肉体関係を持ってからの彼女は人が変わったように僕に惚れ込んでいる様子で、文字通り僕のすべてを受け入れてくれる。それが僕の支配欲を満たし、言いようのない充足感をもたらした。
 ただひとつ、悔やんでも悔やみきれないのは、心が繋がる前に体だけ結び付けてしまったこと。その順序の逆転が彼女の怯えを招き、せっかくの特別な夜は、憧れていた理想の光景から遠く離れたものになった。とはいえ、ようやく彼女と両想いになれたのだ。だから、きっと結果的にはこれで良かったはず。そう信じて自分を納得させていた。

 あの日以降、僕は毎晩と言っていいほど彼女を抱いていた。休日はもちろんのこと、平日でも学校帰りには互いの家に泊まり、夜更けまで愛し合う。そのせいで彼女は寝不足気味らしく、午前中にうとうとしていることが増えたようだが、そうまでして僕のために頑張っている姿はあまりに健気で愛おしい。最近では移動時間すら惜しく、より学校に近い僕の家で過ごすことが自然と増えてきた。半同棲のような今の状態に、この上ない幸せを感じている。
 それがいつからおかしくなってしまったのか。はっきりとはわからないが、ここ数日の彼女はやっぱりどこか違和感があるように思う。

「まいさん、もうお家に着きますからね」
 授業後、いつものように、二人で僕の家に向かって歩く帰り道。眠たいのか、ぼんやりとした様子の彼女に声をかけると、「んー」と小さな声で返事が来た。そっけない態度に少し寂しい気持ちにはなるが、昨日も遅くまで負担をかけたせいで疲れているのかもしれない。ここのところずっと眠そうだし、本格的に体調を崩してしまう前に、たまには早く寝かせてあげようか。
 そう思いながら家に入ったのだが。
「もっと、……なつきくん、もっと……んっ、ん……ぅ……」
 その数分後、荷物も置かないまま、僕は玄関先で彼女に深く口づけていた。
 しかし、僕から迫ったわけではない。彼女がどうしてもと懇願してきたのだ。扉を閉めるなり、「おかえりのチューして?」「もうやめちゃうの?」「もっとして?」などと僕を誘惑するから。惚れた女性にそんなことを言われてしまっては、僕に断る選択肢などなかった。

 今日に限らず、彼女は最近やけに積極的だ。もちろんそれは僕にとって嬉しいことなのだが、その一方で少し心配になってしまうのも事実だった。今の彼女は、これまでの彼女の性格や行動傾向から考えられる人物像からは、著しく乖離しているように思えるからだ。付き合い始めの頃、寝る前に僕が誘うと迷うようなそぶりを見せていた彼女が、気づけば早く早くと催促してくる側。彼女に言われるまま応えているうちに、その時間はどんどん前倒しになっていく。今では帰宅するとすぐに夕食と風呂を済ませ、その後は体力が尽きるまで行為に耽るのが日常になってしまっている。

 以前までは夕食前に“おやつ”と称してよくつまんでいた菓子も、風呂上がりのアイスクリームも、いつの間にか彼女は食べなくなっていた。付き合う前から毎週楽しみにしていたはずのドラマも、確かまだ途中だったはずだが、そういえば全く観ている様子がない。思い返せば、行為の時間以外の彼女はなんだか気が抜けているようにも見える。もともと彼女はおっとりとした性格ではあったが、この頃はそれとはまた違って、どことなく上の空というか。
 もしかしたら、僕を愛するあまり盲目的になっているのかもしれない。いや、いっそ僕に依存しているのか。堕落的であることは否定できないが、彼女が望むのであればそれでも構わなかった。それが本当に、僕への愛が行き過ぎた結果なのであれば。
 果たして彼女は今、幸せなのだろうか――ふいにそんな疑問が脳裏をかすめる。が、僕の舌に吸い付いて甘い声を上げる彼女を目の前にすれば、そのような思考など簡単に薄れてしまう。こちらからも舌を絡ませ撫で上げるようにすると、彼女は腰が抜けそうになったのか、よろめいて僕に体重を預けてくる。不安定に揺れる足元が辛そうだ。唇を一度離して、帰宅してから背負いっぱなしだった重いリュックを下ろす。代わりに彼女を抱き上げると、彼女は慣れた手つきで僕の首に腕を回してきた。

 食事や入浴はもはや義務的な作業と化しており、昨日と同じように淡々とこなしていくだけだ。特に頭を使うこともなく、さっさとそれらを済ませて時計を見ると、まだ夜には程遠い時間だった。眠るには早すぎる時間にも関わらず、彼女を腕に抱いて寝室へ向かう。
 両腕に感じるその質量は、以前に比べて少し軽くなっている気がした。彼女は最近あまり食欲が湧かないらしい。さっきの夕食にもほとんど手を付けていない様子だったから、必然的に体重も落ちてきているのだろう。彼女の健康状態が気にならないわけではない。が、今のところは病的に痩せているというほどでもないし、もう少し様子を見ていてもいいのかもしれない。もしかしたら、ずっと家での食事が続いているから飽きてきたのだろうか。今度、また外食にでも誘ってみようか。
 そんなことを考え歩を進めると、彼女が甘えるように、僕の肩に頭を預けてきた。白く細い足が揺れ、ベビードールと言うのだったか――最低限の布のみを残し、あとは衣服としての機能を持たないほどに薄く透けるだけのワンピースも一緒にひらひらと舞う。僕の好みが色濃く反映されたそれを、彼女は言われるがままに着て見せてくれている。
 今この瞬間、僕を誘惑するためだけに彼女は存在しているのだ。そんな都合のいい考えまで浮かび、衝動に駆られるまま彼女の唇に食らいつくようにキスを落とす。彼女も息を荒くしながらも「もっと」なんて甘く囁いて誘うものだから、我を忘れて二度、三度と繰り返した。

 夏の日暮れは遅く、寝室の窓からはまだ夕陽が差し込んでいる。彼女をベッドに横たえると、その日差しが彼女の柔らかい体にオレンジ色の影を作った。このような明るい時間から事に及ぼうという背徳感も合わさってか、その光景はひどく扇情的に映り、僕の劣情をこれでもかと言うほど煽り立てる。
 呼吸が浅くなっていくのを感じながら、あまりの興奮によって早くも体のコントロールを失いかけている自分には、いっそ笑いすら込み上げてくる。ははっ、とどこか自嘲を含んだような乾いた笑い声を漏らすと、彼女はそれを、自身に向けられた笑顔だと思ったらしい。優しく微笑みを返すその純真な姿がたまらなく愛おしく、しかし同時に、そんな彼女がこれから僕の腕の中で乱れていくのだと思うと、それだけで脳髄を突き抜けるような愉悦を覚えた。

 本能の赴くまま、彼女のほうへ手を伸ばす。その滑らかな頬にいよいよ指先が触れようかというところで、パタン、と無機質な物音が部屋に響いた。なんだ、せっかくいいところだったのに。煩わしく思いながらも音がした方向を一応確認すると、どうやら壁際の棚に並べておいた本が倒れてしまったらしい。まあそんなものは後で直せばいいか、そう思いながら改めて彼女のほうへ視線を戻す。

 ――あ。
 一度意識が浮上したおかげで思考が鋭さを取り戻したのか、こんなときに余計なことまで思い出してしまった。そういえば、たしか彼女には、明日が提出期限となっている課題がほとんど手付かずの状態で残っていたはずだ。一昨日見せてくれたプリントの束はどれも白紙が目立っていたし、全て終わらせるのにはそれなりに時間がかかるだろう。もしかしたらあれから多少は進めているかもしれないが、少なくとも僕といる間にはいっさい取り組んでいないし、そんな調子では進捗などたかが知れている。
 どうしよう、彼女に言うべきか、黙っておくべきか。いや、どう考えても伝えるべきであることは明らかだ。しかし、そうすれば確実に、僕はここでお預けを食らうことになる。こんなにも欲望を掻き立てられた状態で放り出されるなんて、想像しただけでも心が張り裂けるほどの耐えがたい苦痛だ。
 ぎこちなく視線をさまよわせる僕を、彼女が不思議そうに見つめている。ああ、可愛い。今すぐにでも彼女に溺れたい、衝動のままに心身を捧げてしまいたいのに。

 だが、しかし。ここで僕が負けてしまってはいけない。もしもこのせいで課題の提出が遅れ、彼女の成績に響くことでもあれば、それこそ僕にとっては一生の不覚だ。込み上げる熱情を理性で押し殺し、腹を据えてごくりと喉を鳴らした。
 昂ぶる体を必死に抑え、平静を装うことに全神経を注ぎながら、やるべきことを彼女に伝える。今から真面目に頑張れば、どんなに時間がかかったとしても日付が変わる前には片付けられるだろう。
 しかし、彼女はいやいやと言うように首を横に振る。
「それはあとでやるから……、だから……ね?」
 誘うように言うと、彼女は人差し指で、僕の鎖骨のあたりをくるくると撫でてくる。夏生くん、と繰り返し呼ぶ声には明確に、快楽への強い期待が滲んでいて。

 その光景を目にした途端、強烈な違和感が胸の奥に突き刺さった。たしかに彼女にはもともと楽観的なところがある。何に対してもさほど危機感を覚えないのか、やりたくないことはギリギリまで後回しにする癖があるようだが、果たしてここまでその傾向が強かっただろうか。今までの彼女であれば、面倒だとか文句を言いながらも、最終期限には間に合わせようという意志が見えたはずではなかったか。
 それなのに今の彼女はと言えば、嫌なことを投げ出して、ただただ目の前の快感だけを求めているように思える。僕だって期待に応えてあげたいのは山々だが、ここで彼女の希望通りにしてしまえば、後で困るのは彼女のほうだ。彼女が困ることは僕としても避けたいため、可哀想だがここは正しい道を諭してあげなければ。
 きっとこれもまた愛なのだ、と自分に言い聞かせつつ、彼女に声をかける。課題に取り組むよう再度促すと、彼女は聞きたくないとでも言うように枕に顔を埋めた。僕も一緒にやりますよ、わからないなら教えますから、となるべく優しく声をかけるが、あまり効果はないようだ。あとでやる、の一点張りで話が全く前に進まない。「あとで」なんて簡単に言ってはいるが、そんなものは永遠に来ないだろう。いつも行為の後には意識が曖昧になるほど疲れ切って眠ってしまう彼女が、その状態から机に向かって課題をこなせるとは到底思えない。彼女だってそれはわかっているはずなのに。

 枕を抱きしめて拗ねたようにじっとしている彼女は、なんだか小さな子どものようにも見えて可愛らしい。宥めるようにその頭を撫でると、彼女は機嫌を直してくれたのか嬉しそうに振り向いた。そのまま僕の頬に手を添え、つう、と指先で僕の下唇をなぞる。
「夏生くんもほんとはしたいでしょ? ね、夏生くん……」
「……っ、だめですよ……、今日はお勉強……やらないと」
 必死に抑え込んでいたはずの欲情が、声の震えとして露呈してしまった。まずい、これでは説得力なんてどこにもないではないか。理性的な思考がどんどん溶かされていくのを感じ、一人焦る。
 だが、次の瞬間。僕は違う理由で、さらに焦ることになった。
「や、やだぁ……っ。なんでそんな、いじわる言うのっ……、なんで……やだぁ」
 彼女がいきなり泣き出してしまったのだ。いやだ、なんで、と同じ言葉を何度も繰り返しながら僕に訴えかけるその唇はふるふると小刻みに震えている。両目から零れ落ちる涙を目にした途端、考えるよりも先に彼女の唇を奪っていた。愛する女性を泣かせてしまったという猛烈な後悔と自己嫌悪が、他の全ての感情を圧倒したのだ。

 罪悪感から逃れるように熱を込めて激しく口づけると、彼女も次第に気持ちが落ち着いてきたようだった。唇をそっと離すと、くったりと力の抜けた肢体を無防備に晒しながら、甘く緩んだような表情でこちらを見つめてくる。もう涙が止まっていることを確認して、頬に残った雫を親指でそっと拭った。
「なつきくん……すき、……なつきくん」
「……僕だって好きですよ。すみません、泣かせてしまって」
「ん……いいの、すきだから……。すきなの、すき……」
 どことなく舌足らずな喋り方の彼女は実年齢よりも幼く見え、その危うげな魅力が僕の庇護欲を疼かせる。縋るようにこちらに伸ばされる細い指先を手のひらで受け止め、包み込んだ。指を絡めてベッドに縫い付けるように体重をかけながら、空いた手で彼女の首筋をそっと撫でる。はぁ、と悩ましげな吐息が耳に届いてしまえば、僕はもう降伏するしかない。そのまま、彼女の胸を包んでいる薄い布の下に指先を滑り込ませる。すでに硬くなっている先端をくるりと撫でるようにしてから弾くと、よほど気持ちがいいのか、彼女は体をくねらせて腰を浮かせた。

 あ、あっ、と艶っぽい声が漏れる唇の隙間から、震える舌先が覗く。口寂しさを訴えてくるそれを慰めるように、また深く口づけた。彼女の呼吸に合わせてひくひくと可愛らしく動く舌を押さえつけて吸うと、彼女はさらに高い声で鳴く。課題のことなど、もうすっかり頭から抜け落ちてしまったようだ。ただひたすらに与えられる喜びだけに没頭する彼女にはもう、かつての清廉さは感じられない。そこにあるのは、僕の好みの形へと崩れ、確実に“僕の所有物”へと変貌していく、その過程だけ。まさに、僕がずっと求めていた光景だった。
 こうなっては仕方がない。課題の残りは、後で彼女が眠っている間に、僕が代わりに片付けてあげよう。彼女のためなら、たった一日の徹夜などどうということはない。だからそこは全く問題ないのだが、やはり、彼女が泣くほど課題を避けようとしたことが僕には衝撃的だった。
 だが決して、ただ快楽に身を任せるその姿を見て愛想を尽かしたということではない。むしろ僕は、彼女を嫌な気分にさせるようなものなど、この世にひとつも存在しなければ良いと常々考えているのだから。面倒なことは全て投げ出してしまえばいい。そんなものは全て僕に押し付けて、任せて、甘えてくれればいいのに、と。
 しかし、あえてそうしないことが、彼女の真の美徳ではなかったか。僕は彼女のそういうところにこそ、惹かれたのではなかったか。
「……っ、……」
 逃げ場のない焦燥感を、深く長いキスで塗り潰す。これ以上、考えたくなかった。

 執拗な愛撫で既にぐずぐずに溶けたところを指でかき混ぜていると、ふいに彼女の手が僕の手首に伸びてくる。掴まれるのかと思ったが、ただ指先がぶつかっただけですぐに遠ざかってしまった。そうかと思えば、再び彼女の爪が手の甲を掠め、また離れていく。
 その様子に異変を感じた。指一本動かす力すら、彼女にはもう残っていないのかもしれない。さすがにまずいと気づいて手を止めると、彼女は呼吸もままならないのか、口をはくはくと動かして苦しそうな表情を浮かべている。それでも僕に何かを求めているようなので注意して聞いてみると、どうやら早く繋がりたいと訴えているらしい。
「そ……その前にちょっと、休憩しましょうか。まいさん、疲れてるみたいだから」
「……ん、は……やく、はやく、ほしいの……」
 体はとっくに限界を迎えているだろうに、彼女の口からは僕を誘惑する甘い言葉ばかりが溢れる。蕩けきった表情は陶酔しているようでいて、その実、精神の崩壊を隠しているだけにも思えた。

 慌てて彼女の顔を覗き込む。が、そこにあるのは焦点の定まらない瞳だった。僕を映しながらも、意識はどこか遠くを彷徨っている、空っぽの瞳。まるでただ時間が過ぎるのを待っているだけにも見える、心ここにあらずという言葉がふさわしいその姿は、まさに人形のようで。
「まいさん……?」
 何度声をかけても、返ってくるのは肩で息をする浅い呼吸のみ。まともに声も出せないほど疲れ切っている様子で、拒絶や抵抗の意思はいっさい感じられない。ただ僕に全てを委ねて、されるがままに横たわっている。僕が好む服を着て、僕が喜ぶ甘い言葉を囁いて、完全に僕の支配下に置かれた彼女。それは能動的な受け入れではない。逃げる気力さえ失った果ての、諦めによる従順さだった。
 自覚した瞬間、僕の中で張り詰めていた何かが切れた。ずっと見て見ぬふりをしていた違和感が無視できなくなり、僕のせいで彼女が壊れていく恐怖に包まれる。その決定的な現実に、僕はもう耐えられなかった。

「……っ、まいさん!」

 彼女から飛び退いて距離を取ろうとした途端、いきなり視界が回ってベッドに崩れ落ちた。急激な感情の揺れによって、情けなくも眩暈を起こしたらしい。頭から血の気が引いていくのがわかる。そのままシーツに顔を擦りつけながら、言葉にならない謝罪を口にした。涙が溢れて止まらない。
「……っごめ、ごめんなさい……っ! 僕のせいでっ……、ごめんなさい……っ」
 こんな口先だけの謝罪で許されるはずがないことは、痛いほどわかっていた。だがそうする以外に、この場で彼女にかける言葉も見つからなかった。いや違う、こんなものはただの自己防衛だ。現在進行形で自分の心を襲っている強烈な罪悪感を少しでも手放して、早く楽になりたいだけ。彼女に許され安心したくて、自分を守るため身勝手な行動に縋っているだけだった。
 突然泣き崩れ、狂ったように懺悔の言葉を口走り続ける僕を見て、彼女は少し驚いているように見えた。無理もない、つい先ほどまで自分を痛めつけていた加害者が、急に怯えて許しを請い始めたのだから。後悔しても薄まらない苦しみと、一生拭えない過ちに胸が押し潰され、さらに嗚咽が漏れる。

「まっ、まいさ……っ……、……ん……?」

 彼女はそんな僕に、手を伸ばそうとしたようだった。が、その手は空を撫でるのみで、その後ぽすりとシーツの上に落とされる。すでに限界まで体力を使い果たしていた彼女は、そのまま全身をベッドに預け、規則的な寝息を立て始めたのだった。

 僕はまだその場から動けなかった。荒くなった呼吸を整えていると、ふと、自分がいつの間にかシーツを握りしめていたことに気づく。指の力を緩めると同時に、強い痺れを伴って血液が巡り始め、その痛みが僕の冷静さを呼び戻した。また涙がこぼれ、すでに濡れたシーツに新たなシミが広がっていく。ああ、こんな汚い場所に彼女を寝かせておくわけにはいかない。早く交換しなければ。それと、早く彼女の体をきれいに拭いて、服を着せて、布団をかけよう。その後は、そうだ、彼女が残した課題を片付けるんだった。自分が今からやるべきことを整理して、どうにか強制的に気持ちを落ち着かせる。
 すぐ近くで聞こえる彼女の穏やかな呼吸。それだけで、まるで彼女が僕に寄り添ってくれているかのような錯覚に陥りそうだ。また都合のいい妄想に浸らないよう、急いで頭を振って思考を霧散させた。

 ガンガンと脳を刺すような蝉の声で現実に引き戻される。そうこうしているうちに、気づけば夜が明けていたようだ。一晩中泣き続けたせいか、それともただの寝不足か、鈍く痛む頭を抱えながら、机上に散乱するプリント類の内容を確認した。空欄が残っていないことに胸を撫で下ろし、課題の完成を確信する。よかった、無事に間に合ったのか。

 部屋を整え、自分の身支度も終わらせてから、いつもより少し早めに彼女を起こした。着替えを渡してシャワーを浴びるよう促すと、普段と違って先に朝の支度を終えている僕を見て、彼女は不思議そうな顔をする。だが、まだ眠たいのか、深く考える様子もなくそのまま脱衣所へ向かった。その隙に、徹夜で仕上げた提出物を彼女のバッグに忍ばせ、学校の準備を整えておく。

 ――彼女と別れる。それが、夜通し考えて僕が出した結論だった。
 未練なんて当然ある。あれほど僕に染まりきった彼女を、失いたくはない。だが、今のままでは彼女の健康に支障が出るのは目に見えている。本当は彼女に僕を愛してほしい、でもそれ以上に、健康でいてほしい。どちらか片方しか選べないのなら、後者を取ろうと思った。
 その温もりを知ってしまった以上、彼女の肌を忘れることなど、僕にはできそうもない。それでも、一度失敗を犯した僕には、二度と彼女に触れる資格などないのだ。シャワーの音を背に、そう自分に言い聞かせ、辛い決意を心に誓った。

「先輩。昨日のこと、覚えてますか」
 さっぱりした顔で戻ってきた彼女に、さっそく本題を切り出す。朝から重苦しい話をしては申し訳ないような気もしたが、ずるずると先延ばしにするようなことでもない。だが、僕の言葉にピンと来ていないのか、彼女は首を傾げている。明らかに昨日までとは違う僕の様子に、戸惑いを隠せないのかもしれない。
「……お別れしませんか、僕たち」
 覚悟を決めて伝えても、彼女はなんの感情も見せなかった。ただぽかんと虚空を見つめているから、沈黙に焦って、つい次々に言葉を重ねてしまう。嫌いになんかなってない、むしろまだ愛していて、だけどこのままでは傷つけてしまうから、と。とはいえ、睡眠の足りていない頭では思考がうまくまとまらず、支離滅裂な心の内を垂れ流すことしかできない。
 最後に、昨晩泣きながら伝えた謝罪の言葉を再び口にすると、ようやく彼女の瞳が僕を捉えた。

「わかった」

 それだけだった。それだけ答えると、彼女はあっけなく話を打ち切ってしまう。
 そして今度は、朝食に何を食べようか、なんて呟きながらキッチンへと向かうのだった。もしかしてすごく怒っているのだろうか、いや、散々僕に振り回されているんだ、怒るのは当然だろう。そうは思いつつも、どうすればいいのかわからない。

 僕がその場に立ち尽くしていると、「夏生くんは食べないの?」と普段通りに呼びかけられる。反射的に駆け寄って、慌てて朝食の調理に取り掛かった。

   ◇◇◇

 あれから数週間、何もなかったかのように時間だけが過ぎていく。
 別れを告げたものの、それはただ薄い言葉で形ばかりのけじめをつけただけ。僕が実際に行ったことはと言えば、彼女への呼び名を戻したことと、身体的な接触を控えるようになったこと、それだけで。結局のところ、僕は彼女と完全に距離を置くことなんてできないばかりか、まだ彼女のそばにまとわりついているのだ。彼女を守るため、なんて大義名分を盾にしながら、醜い独占欲によって彼女を縛り付けている。自分のこの異常なまでの執着心には嫌悪感しかないが、こればかりはどうしても理性で抑え込むことができない。
 一方、彼女のほうは、そんな僕のことを大して気にも留めていないようだった。交際前から僕のしつこさには慣れていたのか、あるいは僕に深く傷つけられたせいで、今もなお感覚が麻痺したままなのか。

「そういえばこないだのテスト、平均点取れたんだよ。夏生くんに教えてもらった問題も、ちゃんと解けたし」
 朝、彼女を迎えに行き、並んで学校へ向かう途中、弾む声で楽しげに報告してくれる彼女を横目で眺める。別れて間もない頃は寂しそうな表情を見せることもあったが、彼女はすぐに以前の生活習慣を取り戻したようだ。最近は授業にも集中できているようだし、僕のせいで滞っていた勉強も、無事回復に向かっている。その姿に安心しつつも、どこか喜びきれない僕は、やはり彼女にとって害でしかないのだろうか。
 彼女は相変わらず、僕を名前で呼ぶ。単に呼び方を変えるのが面倒なだけかもしれないが、その響きを耳にするたび、胸を締め付けられるような思いがした。だが、それほど苦しいのに、同時にたまらなく愛しくもあって。もう恋人ではないのにとは思いながらも、彼女を咎める気にもなれないのは、僕が本心ではそれを求めている証拠だった。

「あの、先輩? ……手が。その……」
 さっきから、彼女の指先が、僕の手の甲を何度か掠めていることには気づいていた。しかし偶然かもしれないと言い聞かせ、いや、そうであってほしいと願いながら、見て見ぬふりを決め込んでいたのに。手の中に滑り込んできた細い指が僕の小指に絡みつくと、さすがに無視を貫くわけにもいかなくなった。
「繋いでもいい?」
「でも、もう恋人じゃないんですから……」
「夏生くんは、繋ぐの嫌?」
 言葉に詰まる。彼女に触れないよう自制はできても、彼女から迫られたら拒絶なんてできないからだ。彼女もそれをよくわかっていて、だからこそ、僕が断れないように距離を詰めてくる。「嫌ではないですよ」と本心を明かせば、彼女は嬉しそうに手を握ってきた。振りほどくことなどできない僕は、それをそっと握り返すしかない。

 やはりそうだ。今の行動で確信に変わる。
 最近また、彼女の様子がおかしい。おかしいとは言っても、もう以前のようにただ快楽を求めてくる彼女ではなくて。そう、まるで――僕に恋をしているかのような。
「今日、ちょっと話したいことあるの。いつも授業終わったら、教室まで迎えに来てくれるでしょ? そのあと、そこでお話してもいい?」
 繋いだばかりの手を引き寄せられる。上目遣いで見つめながら言われ、拒否の言葉は出てこなかった。

 何を話されるのだろうかという期待と不安で、授業など全く手につかなかった。その考えだけに頭を支配されているうちに、気づけばもう夕方。一日の終わりを告げるチャイムが響く中、まとまりなく教室から吐き出される生徒の波をかき分けて歩く。いつも歩いているはずの廊下が、今日だけやけに長く感じるのは、やはり僕の心理的なものによる錯覚だろうか。
 彼女からの呼び出しに心が躍る一方で、めったにないこの状況に、ある種の警戒心を抱いてしまっているのも事実だった。とはいえ、すでに“元”恋人同士という関係性になったのだから、さすがに今さら別れ話を蒸し返すわけではないだろう。考えられる最悪のケースは新しい彼氏を紹介されることだが、僕の知る限りではそんな気配はなさそうだ。しかし引っ越しのような緊急事態というのは可能性として低いだろうし、単なる遊びの誘いのためにわざわざ呼び出すとも思えない。用件はさっぱり見当がつかなかった。
 いや、本当はひとつだけ、かなり有力な懸念が頭に浮かんでいた。しかし、もしそれが真実だったらどうしようとも思うのだ。愛の告白だったらどうしよう、と。

 教室に着くと、彼女は案外いつもと変わらない態度で迎えてくれた。他愛のない話で時間を潰し、周囲に誰もいなくなったのを見届けると、彼女が改まった様子で口を開く。
「お別れしようって言ってくれたでしょ。でも……なんか最近、寂しいの」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の予感は確信に変わった。どう考えても告白の前触れとしか思えない空気感を察知し、全身に緊張が走る。もしかして彼女はまた、混乱のあまり肉体的な繋がりを求めているのではないか。一瞬そんな不安がよぎるが、彼女の表情は落ち着いていて健全に見える。だが、そうは言ってもこの発言だ。やはりまだ、完全な正常性を取り戻すまでには時間がかかるのだろうか。可哀想に、無意識の防衛本能が僕に媚びろと強いているに違いない。
「あのね。私……夏生くんのこと、まだ好きだよ。やっぱり夏生くんが彼氏だったら嬉しいな、とか考えちゃってるの」
 言いながら、横目でこちらに視線を寄越し、すぐにそらす。床に立てたつま先で円を描くその仕草は、少し照れているようにも見えて。まるで本当に恋する女の子のようだった。
「そう思うのは、先輩がまだ精神的に不安定だからですよ。だからそんな思い込みをしてしまうんです」
 もちろん全責任は僕にあってあなたは悪くない、と念を押す。もう二度と彼女を傷つけたくない。ただそれだけを強く思っていた。

「ねえ。昨日、前髪切ったの。……気づいてた?」
 僕の無機質な返答に一瞬表情を曇らせた彼女だったが、すぐにまた笑顔を見せると、唐突に話題を変えた。前髪が、今の話となんの関係があるのだろうか。彼女の髪型の変化くらい当然把握していたが、あえて何も言わないよう気をつけていた。僕が彼女の容姿について言及すれば、薄汚い下心が露見してしまいそうだからだ。警戒されたくない一心だったが、知らず知らずのうちに視線を送ってしまっていたのだろうか。
「あとね。今日はほら、毛先巻いてるんだよ。けっこう上手にできたと思うんだけど」
 いつまでも黙っている僕を見かねてか、彼女が再び自分の髪に触れた。毛先をつまんで揺らして見せる、その仕草が可愛らしくて見惚れてしまう。「でも私、天パだからいつも通りに見えるのかな。わかりにくかったかも」なんて肩を落とすから、思わず「そんなことないですよ」と本音が口から漏れた。
「ほんと? かわいい?」
「かっ……、えっと。そ、そうですね」
 これまで、彼女への好意を隠そうともしない褒め方ばかりしてきたせいか、すぐに気の利いた言葉が浮かばない。可愛い、それは間違いないのだが、それを素直に伝えればまた僕の欲望が透けてしまいそうだ。しかし、ただの「良い」では浅いと思われるかもしれない。だからと言って、「髪型が」とかわざわざ限定して褒めるのも、それはそれで不自然な気がする。

 あからさまに言葉を詰まらせた僕を見て、彼女が「もしかして困らせちゃってる?」と申し訳なさそうに謝ってくるから、慌てて首を振って謝り返す。夏生くんってけっこう顔に出るタイプだよね、なんて、初めてそんなことを指摘された。そう言う彼女自身も、笑顔を浮かべてはいるが眉は悲しげに下がっている。僕から見れば、彼女のほうがよほど感情を表に出しやすいのではと思うのだが。
「可愛いって言ってほしい、ってお願いしたら迷惑?」
 トントン。彼女の小さな足を包む靴の、そのつま先が軽やかに床を叩く。心地よいリズムに誘われるまま顔を上げると、期待に瞳を輝かせる彼女と目が合った。愛しい彼女にここまで言わせてしまっては、応えないわけにもいかない。
「……可愛いです。というか、先輩はいつも可愛いですから。今さら僕が伝えるまでもないですよ」
 他の人からもよく褒められるんじゃないですか、とわざと他人事のように付け加えた。彼女の可愛らしさは周知の事実である、という客観的評価にすり替えて、自分の気持ちを誤魔化すために。言い訳のようで情けないが、未練がましくもまだ彼女に焦がれているなんて、知られるわけにはいかない。

 そう思っていたのに。
「私は好きな人に褒めてほしかったのにな」
 まっすぐな眼差しでそう返されるから、いっそ清々しい気持ちにすらなってしまった。なんて彼女らしい、潔い言葉なのだろう。
 まさか彼女の口からこんな言葉が聞けるなんて。彼女が能動的に僕にアプローチしてくれる日が来るなんて。僕を落としに来る彼女の破壊力はすさまじく、こんなの誰だって落ちるだろう、と本気で思う。

 彼女の気持ちを聞いて、嬉しくてたまらないのに、僕の心の隅では深い絶望感も広がっていた。僕が彼女の本音を奪ったせいで、彼女の好意に確信が持てない。あの頃の僕なら飛びついて喜んだはずなのに、今の僕にはそれができないのだ。僕がすべてを壊してしまった後だから。
 もしこれが彼女の心からの言葉だと信じられたなら、どれほど幸せだっただろう。いや、でも――こんなふうに壊れでもしなければ、彼女は一生、僕に興味なんて持たなかったのかもしれない。壊したからこそ幸せが訪れたのか? そして、本当にこれが彼女の幸せなのか? どれほど自問自答しても、答えなんてどこにもなかった。
「……もう私のこと、名前で呼んでくれないの?」
 彼女の問いかけが、僕の迷いを遮断する。
 ここまで来て、見苦しい言い訳を並べてさらに逃げ回るような卑怯な真似はしたくなかった。なにより、また彼女の恋人に戻れるなんて、僕にとっては夢のような話だ。断る理由などあるはずもない。ただ、もう二度と彼女の核心に触れられないのだと理解するのが、たまらなく辛いだけ。それでも、すべては僕が蒔いた種だ。
 あやふやな態度を捨て、彼女の瞳を真正面から見つめ返した。僕も覚悟を決めなくては。

「まいさん」

 僕の呼びかけに、彼女の表情がぱっと華やぐ。すでに想いは伝わっているようだが、中途半端に関係性をぼかすのは僕の性に合わない。言葉を濁さず、改めてはっきりと復縁を申し込んだ。誤解の余地がないよう、責任の全てが僕にあると明言して。すでに過ちを犯したくせに「一生大事にします」などとあまりに独りよがりな決意すらも、今の僕の気持ちとして真剣に伝えた。
 今さら優しさを注いだところで、過去の贖罪にはならない。それでも僕は彼女を幸せにしたいのだ。それが彼女の望む幸せなのか、僕には知る術もないけれど。

 夕暮れの教室で、僕を見つめる彼女の顔が赤く染まっていく。その姿が眩しいほどに美しい。僕の告白が冗長だったのだろうか、そのうちじれったいというように抱きついてきたから、恐る恐る抱きしめ返した。
 好きです、と、それだけ最後にもう一度伝えて口を閉じる。その言葉に答えるように、彼女の腕に力がこもった。揺れる髪が、柔らかな曲線を描く。
 ふと、懐かしい彼女の香りがした。
 

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恋人(?)の一瀬くん 後日談(後編) - 曖昧な恋を抱きしめて

キーワードタグ オリジナル  一次創作  創作男女  秘め事の夏生くん  後輩男子  年下男子  ヤンデレ  ヤンデレ男子  R18 
作品の説明 「後輩の一瀬くん」のバッドエンドif、「恋人(?)の一瀬くん」の後日談(後編)です。一瀬視点。
性行為描写を含みます。

※前提から読みたい方はこちら
→ 「恋人(?)の一瀬くん」( https://pictmalfem.net/items/detail/100232

【含むかもしれない要素】
メリバ?(とはいえ前提がバッドエンドなので、人によってはもっと暗く感じるかも) / 1対1の創作男女カプ(攻:男の子、受:女の子) / 共依存になりかけ / 行為の同意が曖昧
恋人(?)の一瀬くん 後日談(後編) - 曖昧な恋を抱きしめて
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 まいさんの様子がおかしい。
 僕がそれに気づいたのは、彼女と付き合い始めてからまだひと月も経っていない頃だった。

 彼女に告白を受け入れてもらったあの日、その勢いのままに唇を奪い、体を重ね、僕たちは結ばれた。最初こそ手荒な真似をしてしまった自覚はあったが、最終的には彼女もすっかり抵抗をやめ、それどころか自ら僕を求めてくれるまでになっていた。
 肉体関係を持ってからの彼女は人が変わったように僕に惚れ込んでいる様子で、文字通り僕のすべてを受け入れてくれる。それが僕の支配欲を満たし、言いようのない充足感をもたらした。
 ただひとつ、悔やんでも悔やみきれないのは、心が繋がる前に体だけ結び付けてしまったこと。その順序の逆転が彼女の怯えを招き、せっかくの特別な夜は、憧れていた理想の光景から遠く離れたものになった。とはいえ、ようやく彼女と両想いになれたのだ。だから、きっと結果的にはこれで良かったはず。そう信じて自分を納得させていた。

 あの日以降、僕は毎晩と言っていいほど彼女を抱いていた。休日はもちろんのこと、平日でも学校帰りには互いの家に泊まり、夜更けまで愛し合う。そのせいで彼女は寝不足気味らしく、午前中にうとうとしていることが増えたようだが、そうまでして僕のために頑張っている姿はあまりに健気で愛おしい。最近では移動時間すら惜しく、より学校に近い僕の家で過ごすことが自然と増えてきた。半同棲のような今の状態に、この上ない幸せを感じている。
 それがいつからおかしくなってしまったのか。はっきりとはわからないが、ここ数日の彼女はやっぱりどこか違和感があるように思う。

「まいさん、もうお家に着きますからね」
 授業後、いつものように、二人で僕の家に向かって歩く帰り道。眠たいのか、ぼんやりとした様子の彼女に声をかけると、「んー」と小さな声で返事が来た。そっけない態度に少し寂しい気持ちにはなるが、昨日も遅くまで負担をかけたせいで疲れているのかもしれない。ここのところずっと眠そうだし、本格的に体調を崩してしまう前に、たまには早く寝かせてあげようか。
 そう思いながら家に入ったのだが。
「もっと、……なつきくん、もっと……んっ、ん……ぅ……」
 その数分後、荷物も置かないまま、僕は玄関先で彼女に深く口づけていた。
 しかし、僕から迫ったわけではない。彼女がどうしてもと懇願してきたのだ。扉を閉めるなり、「おかえりのチューして?」「もうやめちゃうの?」「もっとして?」などと僕を誘惑するから。惚れた女性にそんなことを言われてしまっては、僕に断る選択肢などなかった。

 今日に限らず、彼女は最近やけに積極的だ。もちろんそれは僕にとって嬉しいことなのだが、その一方で少し心配になってしまうのも事実だった。今の彼女は、これまでの彼女の性格や行動傾向から考えられる人物像からは、著しく乖離しているように思えるからだ。付き合い始めの頃、寝る前に僕が誘うと迷うようなそぶりを見せていた彼女が、気づけば早く早くと催促してくる側。彼女に言われるまま応えているうちに、その時間はどんどん前倒しになっていく。今では帰宅するとすぐに夕食と風呂を済ませ、その後は体力が尽きるまで行為に耽るのが日常になってしまっている。

 以前までは夕食前に“おやつ”と称してよくつまんでいた菓子も、風呂上がりのアイスクリームも、いつの間にか彼女は食べなくなっていた。付き合う前から毎週楽しみにしていたはずのドラマも、確かまだ途中だったはずだが、そういえば全く観ている様子がない。思い返せば、行為の時間以外の彼女はなんだか気が抜けているようにも見える。もともと彼女はおっとりとした性格ではあったが、この頃はそれとはまた違って、どことなく上の空というか。
 もしかしたら、僕を愛するあまり盲目的になっているのかもしれない。いや、いっそ僕に依存しているのか。堕落的であることは否定できないが、彼女が望むのであればそれでも構わなかった。それが本当に、僕への愛が行き過ぎた結果なのであれば。
 果たして彼女は今、幸せなのだろうか――ふいにそんな疑問が脳裏をかすめる。が、僕の舌に吸い付いて甘い声を上げる彼女を目の前にすれば、そのような思考など簡単に薄れてしまう。こちらからも舌を絡ませ撫で上げるようにすると、彼女は腰が抜けそうになったのか、よろめいて僕に体重を預けてくる。不安定に揺れる足元が辛そうだ。唇を一度離して、帰宅してから背負いっぱなしだった重いリュックを下ろす。代わりに彼女を抱き上げると、彼女は慣れた手つきで僕の首に腕を回してきた。

 食事や入浴はもはや義務的な作業と化しており、昨日と同じように淡々とこなしていくだけだ。特に頭を使うこともなく、さっさとそれらを済ませて時計を見ると、まだ夜には程遠い時間だった。眠るには早すぎる時間にも関わらず、彼女を腕に抱いて寝室へ向かう。
 両腕に感じるその質量は、以前に比べて少し軽くなっている気がした。彼女は最近あまり食欲が湧かないらしい。さっきの夕食にもほとんど手を付けていない様子だったから、必然的に体重も落ちてきているのだろう。彼女の健康状態が気にならないわけではない。が、今のところは病的に痩せているというほどでもないし、もう少し様子を見ていてもいいのかもしれない。もしかしたら、ずっと家での食事が続いているから飽きてきたのだろうか。今度、また外食にでも誘ってみようか。
 そんなことを考え歩を進めると、彼女が甘えるように、僕の肩に頭を預けてきた。白く細い足が揺れ、ベビードールと言うのだったか――最低限の布のみを残し、あとは衣服としての機能を持たないほどに薄く透けるだけのワンピースも一緒にひらひらと舞う。僕の好みが色濃く反映されたそれを、彼女は言われるがままに着て見せてくれている。
 今この瞬間、僕を誘惑するためだけに彼女は存在しているのだ。そんな都合のいい考えまで浮かび、衝動に駆られるまま彼女の唇に食らいつくようにキスを落とす。彼女も息を荒くしながらも「もっと」なんて甘く囁いて誘うものだから、我を忘れて二度、三度と繰り返した。

 夏の日暮れは遅く、寝室の窓からはまだ夕陽が差し込んでいる。彼女をベッドに横たえると、その日差しが彼女の柔らかい体にオレンジ色の影を作った。このような明るい時間から事に及ぼうという背徳感も合わさってか、その光景はひどく扇情的に映り、僕の劣情をこれでもかと言うほど煽り立てる。
 呼吸が浅くなっていくのを感じながら、あまりの興奮によって早くも体のコントロールを失いかけている自分には、いっそ笑いすら込み上げてくる。ははっ、とどこか自嘲を含んだような乾いた笑い声を漏らすと、彼女はそれを、自身に向けられた笑顔だと思ったらしい。優しく微笑みを返すその純真な姿がたまらなく愛おしく、しかし同時に、そんな彼女がこれから僕の腕の中で乱れていくのだと思うと、それだけで脳髄を突き抜けるような愉悦を覚えた。

 本能の赴くまま、彼女のほうへ手を伸ばす。その滑らかな頬にいよいよ指先が触れようかというところで、パタン、と無機質な物音が部屋に響いた。なんだ、せっかくいいところだったのに。煩わしく思いながらも音がした方向を一応確認すると、どうやら壁際の棚に並べておいた本が倒れてしまったらしい。まあそんなものは後で直せばいいか、そう思いながら改めて彼女のほうへ視線を戻す。

 ――あ。
 一度意識が浮上したおかげで思考が鋭さを取り戻したのか、こんなときに余計なことまで思い出してしまった。そういえば、たしか彼女には、明日が提出期限となっている課題がほとんど手付かずの状態で残っていたはずだ。一昨日見せてくれたプリントの束はどれも白紙が目立っていたし、全て終わらせるのにはそれなりに時間がかかるだろう。もしかしたらあれから多少は進めているかもしれないが、少なくとも僕といる間にはいっさい取り組んでいないし、そんな調子では進捗などたかが知れている。
 どうしよう、彼女に言うべきか、黙っておくべきか。いや、どう考えても伝えるべきであることは明らかだ。しかし、そうすれば確実に、僕はここでお預けを食らうことになる。こんなにも欲望を掻き立てられた状態で放り出されるなんて、想像しただけでも心が張り裂けるほどの耐えがたい苦痛だ。
 ぎこちなく視線をさまよわせる僕を、彼女が不思議そうに見つめている。ああ、可愛い。今すぐにでも彼女に溺れたい、衝動のままに心身を捧げてしまいたいのに。

 だが、しかし。ここで僕が負けてしまってはいけない。もしもこのせいで課題の提出が遅れ、彼女の成績に響くことでもあれば、それこそ僕にとっては一生の不覚だ。込み上げる熱情を理性で押し殺し、腹を据えてごくりと喉を鳴らした。
 昂ぶる体を必死に抑え、平静を装うことに全神経を注ぎながら、やるべきことを彼女に伝える。今から真面目に頑張れば、どんなに時間がかかったとしても日付が変わる前には片付けられるだろう。
 しかし、彼女はいやいやと言うように首を横に振る。
「それはあとでやるから……、だから……ね?」
 誘うように言うと、彼女は人差し指で、僕の鎖骨のあたりをくるくると撫でてくる。夏生くん、と繰り返し呼ぶ声には明確に、快楽への強い期待が滲んでいて。

 その光景を目にした途端、強烈な違和感が胸の奥に突き刺さった。たしかに彼女にはもともと楽観的なところがある。何に対してもさほど危機感を覚えないのか、やりたくないことはギリギリまで後回しにする癖があるようだが、果たしてここまでその傾向が強かっただろうか。今までの彼女であれば、面倒だとか文句を言いながらも、最終期限には間に合わせようという意志が見えたはずではなかったか。
 それなのに今の彼女はと言えば、嫌なことを投げ出して、ただただ目の前の快感だけを求めているように思える。僕だって期待に応えてあげたいのは山々だが、ここで彼女の希望通りにしてしまえば、後で困るのは彼女のほうだ。彼女が困ることは僕としても避けたいため、可哀想だがここは正しい道を諭してあげなければ。
 きっとこれもまた愛なのだ、と自分に言い聞かせつつ、彼女に声をかける。課題に取り組むよう再度促すと、彼女は聞きたくないとでも言うように枕に顔を埋めた。僕も一緒にやりますよ、わからないなら教えますから、となるべく優しく声をかけるが、あまり効果はないようだ。あとでやる、の一点張りで話が全く前に進まない。「あとで」なんて簡単に言ってはいるが、そんなものは永遠に来ないだろう。いつも行為の後には意識が曖昧になるほど疲れ切って眠ってしまう彼女が、その状態から机に向かって課題をこなせるとは到底思えない。彼女だってそれはわかっているはずなのに。

 枕を抱きしめて拗ねたようにじっとしている彼女は、なんだか小さな子どものようにも見えて可愛らしい。宥めるようにその頭を撫でると、彼女は機嫌を直してくれたのか嬉しそうに振り向いた。そのまま僕の頬に手を添え、つう、と指先で僕の下唇をなぞる。
「夏生くんもほんとはしたいでしょ? ね、夏生くん……」
「……っ、だめですよ……、今日はお勉強……やらないと」
 必死に抑え込んでいたはずの欲情が、声の震えとして露呈してしまった。まずい、これでは説得力なんてどこにもないではないか。理性的な思考がどんどん溶かされていくのを感じ、一人焦る。
 だが、次の瞬間。僕は違う理由で、さらに焦ることになった。
「や、やだぁ……っ。なんでそんな、いじわる言うのっ……、なんで……やだぁ」
 彼女がいきなり泣き出してしまったのだ。いやだ、なんで、と同じ言葉を何度も繰り返しながら僕に訴えかけるその唇はふるふると小刻みに震えている。両目から零れ落ちる涙を目にした途端、考えるよりも先に彼女の唇を奪っていた。愛する女性を泣かせてしまったという猛烈な後悔と自己嫌悪が、他の全ての感情を圧倒したのだ。

 罪悪感から逃れるように熱を込めて激しく口づけると、彼女も次第に気持ちが落ち着いてきたようだった。唇をそっと離すと、くったりと力の抜けた肢体を無防備に晒しながら、甘く緩んだような表情でこちらを見つめてくる。もう涙が止まっていることを確認して、頬に残った雫を親指でそっと拭った。
「なつきくん……すき、……なつきくん」
「……僕だって好きですよ。すみません、泣かせてしまって」
「ん……いいの、すきだから……。すきなの、すき……」
 どことなく舌足らずな喋り方の彼女は実年齢よりも幼く見え、その危うげな魅力が僕の庇護欲を疼かせる。縋るようにこちらに伸ばされる細い指先を手のひらで受け止め、包み込んだ。指を絡めてベッドに縫い付けるように体重をかけながら、空いた手で彼女の首筋をそっと撫でる。はぁ、と悩ましげな吐息が耳に届いてしまえば、僕はもう降伏するしかない。そのまま、彼女の胸を包んでいる薄い布の下に指先を滑り込ませる。すでに硬くなっている先端をくるりと撫でるようにしてから弾くと、よほど気持ちがいいのか、彼女は体をくねらせて腰を浮かせた。

 あ、あっ、と艶っぽい声が漏れる唇の隙間から、震える舌先が覗く。口寂しさを訴えてくるそれを慰めるように、また深く口づけた。彼女の呼吸に合わせてひくひくと可愛らしく動く舌を押さえつけて吸うと、彼女はさらに高い声で鳴く。課題のことなど、もうすっかり頭から抜け落ちてしまったようだ。ただひたすらに与えられる喜びだけに没頭する彼女にはもう、かつての清廉さは感じられない。そこにあるのは、僕の好みの形へと崩れ、確実に“僕の所有物”へと変貌していく、その過程だけ。まさに、僕がずっと求めていた光景だった。
 こうなっては仕方がない。課題の残りは、後で彼女が眠っている間に、僕が代わりに片付けてあげよう。彼女のためなら、たった一日の徹夜などどうということはない。だからそこは全く問題ないのだが、やはり、彼女が泣くほど課題を避けようとしたことが僕には衝撃的だった。
 だが決して、ただ快楽に身を任せるその姿を見て愛想を尽かしたということではない。むしろ僕は、彼女を嫌な気分にさせるようなものなど、この世にひとつも存在しなければ良いと常々考えているのだから。面倒なことは全て投げ出してしまえばいい。そんなものは全て僕に押し付けて、任せて、甘えてくれればいいのに、と。
 しかし、あえてそうしないことが、彼女の真の美徳ではなかったか。僕は彼女のそういうところにこそ、惹かれたのではなかったか。
「……っ、……」
 逃げ場のない焦燥感を、深く長いキスで塗り潰す。これ以上、考えたくなかった。

 執拗な愛撫で既にぐずぐずに溶けたところを指でかき混ぜていると、ふいに彼女の手が僕の手首に伸びてくる。掴まれるのかと思ったが、ただ指先がぶつかっただけですぐに遠ざかってしまった。そうかと思えば、再び彼女の爪が手の甲を掠め、また離れていく。
 その様子に異変を感じた。指一本動かす力すら、彼女にはもう残っていないのかもしれない。さすがにまずいと気づいて手を止めると、彼女は呼吸もままならないのか、口をはくはくと動かして苦しそうな表情を浮かべている。それでも僕に何かを求めているようなので注意して聞いてみると、どうやら早く繋がりたいと訴えているらしい。
「そ……その前にちょっと、休憩しましょうか。まいさん、疲れてるみたいだから」
「……ん、は……やく、はやく、ほしいの……」
 体はとっくに限界を迎えているだろうに、彼女の口からは僕を誘惑する甘い言葉ばかりが溢れる。蕩けきった表情は陶酔しているようでいて、その実、精神の崩壊を隠しているだけにも思えた。

 慌てて彼女の顔を覗き込む。が、そこにあるのは焦点の定まらない瞳だった。僕を映しながらも、意識はどこか遠くを彷徨っている、空っぽの瞳。まるでただ時間が過ぎるのを待っているだけにも見える、心ここにあらずという言葉がふさわしいその姿は、まさに人形のようで。
「まいさん……?」
 何度声をかけても、返ってくるのは肩で息をする浅い呼吸のみ。まともに声も出せないほど疲れ切っている様子で、拒絶や抵抗の意思はいっさい感じられない。ただ僕に全てを委ねて、されるがままに横たわっている。僕が好む服を着て、僕が喜ぶ甘い言葉を囁いて、完全に僕の支配下に置かれた彼女。それは能動的な受け入れではない。逃げる気力さえ失った果ての、諦めによる従順さだった。
 自覚した瞬間、僕の中で張り詰めていた何かが切れた。ずっと見て見ぬふりをしていた違和感が無視できなくなり、僕のせいで彼女が壊れていく恐怖に包まれる。その決定的な現実に、僕はもう耐えられなかった。

「……っ、まいさん!」

 彼女から飛び退いて距離を取ろうとした途端、いきなり視界が回ってベッドに崩れ落ちた。急激な感情の揺れによって、情けなくも眩暈を起こしたらしい。頭から血の気が引いていくのがわかる。そのままシーツに顔を擦りつけながら、言葉にならない謝罪を口にした。涙が溢れて止まらない。
「……っごめ、ごめんなさい……っ! 僕のせいでっ……、ごめんなさい……っ」
 こんな口先だけの謝罪で許されるはずがないことは、痛いほどわかっていた。だがそうする以外に、この場で彼女にかける言葉も見つからなかった。いや違う、こんなものはただの自己防衛だ。現在進行形で自分の心を襲っている強烈な罪悪感を少しでも手放して、早く楽になりたいだけ。彼女に許され安心したくて、自分を守るため身勝手な行動に縋っているだけだった。
 突然泣き崩れ、狂ったように懺悔の言葉を口走り続ける僕を見て、彼女は少し驚いているように見えた。無理もない、つい先ほどまで自分を痛めつけていた加害者が、急に怯えて許しを請い始めたのだから。後悔しても薄まらない苦しみと、一生拭えない過ちに胸が押し潰され、さらに嗚咽が漏れる。

「まっ、まいさ……っ……、……ん……?」

 彼女はそんな僕に、手を伸ばそうとしたようだった。が、その手は空を撫でるのみで、その後ぽすりとシーツの上に落とされる。すでに限界まで体力を使い果たしていた彼女は、そのまま全身をベッドに預け、規則的な寝息を立て始めたのだった。

 僕はまだその場から動けなかった。荒くなった呼吸を整えていると、ふと、自分がいつの間にかシーツを握りしめていたことに気づく。指の力を緩めると同時に、強い痺れを伴って血液が巡り始め、その痛みが僕の冷静さを呼び戻した。また涙がこぼれ、すでに濡れたシーツに新たなシミが広がっていく。ああ、こんな汚い場所に彼女を寝かせておくわけにはいかない。早く交換しなければ。それと、早く彼女の体をきれいに拭いて、服を着せて、布団をかけよう。その後は、そうだ、彼女が残した課題を片付けるんだった。自分が今からやるべきことを整理して、どうにか強制的に気持ちを落ち着かせる。
 すぐ近くで聞こえる彼女の穏やかな呼吸。それだけで、まるで彼女が僕に寄り添ってくれているかのような錯覚に陥りそうだ。また都合のいい妄想に浸らないよう、急いで頭を振って思考を霧散させた。

 ガンガンと脳を刺すような蝉の声で現実に引き戻される。そうこうしているうちに、気づけば夜が明けていたようだ。一晩中泣き続けたせいか、それともただの寝不足か、鈍く痛む頭を抱えながら、机上に散乱するプリント類の内容を確認した。空欄が残っていないことに胸を撫で下ろし、課題の完成を確信する。よかった、無事に間に合ったのか。

 部屋を整え、自分の身支度も終わらせてから、いつもより少し早めに彼女を起こした。着替えを渡してシャワーを浴びるよう促すと、普段と違って先に朝の支度を終えている僕を見て、彼女は不思議そうな顔をする。だが、まだ眠たいのか、深く考える様子もなくそのまま脱衣所へ向かった。その隙に、徹夜で仕上げた提出物を彼女のバッグに忍ばせ、学校の準備を整えておく。

 ――彼女と別れる。それが、夜通し考えて僕が出した結論だった。
 未練なんて当然ある。あれほど僕に染まりきった彼女を、失いたくはない。だが、今のままでは彼女の健康に支障が出るのは目に見えている。本当は彼女に僕を愛してほしい、でもそれ以上に、健康でいてほしい。どちらか片方しか選べないのなら、後者を取ろうと思った。
 その温もりを知ってしまった以上、彼女の肌を忘れることなど、僕にはできそうもない。それでも、一度失敗を犯した僕には、二度と彼女に触れる資格などないのだ。シャワーの音を背に、そう自分に言い聞かせ、辛い決意を心に誓った。

「先輩。昨日のこと、覚えてますか」
 さっぱりした顔で戻ってきた彼女に、さっそく本題を切り出す。朝から重苦しい話をしては申し訳ないような気もしたが、ずるずると先延ばしにするようなことでもない。だが、僕の言葉にピンと来ていないのか、彼女は首を傾げている。明らかに昨日までとは違う僕の様子に、戸惑いを隠せないのかもしれない。
「……お別れしませんか、僕たち」
 覚悟を決めて伝えても、彼女はなんの感情も見せなかった。ただぽかんと虚空を見つめているから、沈黙に焦って、つい次々に言葉を重ねてしまう。嫌いになんかなってない、むしろまだ愛していて、だけどこのままでは傷つけてしまうから、と。とはいえ、睡眠の足りていない頭では思考がうまくまとまらず、支離滅裂な心の内を垂れ流すことしかできない。
 最後に、昨晩泣きながら伝えた謝罪の言葉を再び口にすると、ようやく彼女の瞳が僕を捉えた。

「わかった」

 それだけだった。それだけ答えると、彼女はあっけなく話を打ち切ってしまう。
 そして今度は、朝食に何を食べようか、なんて呟きながらキッチンへと向かうのだった。もしかしてすごく怒っているのだろうか、いや、散々僕に振り回されているんだ、怒るのは当然だろう。そうは思いつつも、どうすればいいのかわからない。

 僕がその場に立ち尽くしていると、「夏生くんは食べないの?」と普段通りに呼びかけられる。反射的に駆け寄って、慌てて朝食の調理に取り掛かった。

   ◇◇◇

 あれから数週間、何もなかったかのように時間だけが過ぎていく。
 別れを告げたものの、それはただ薄い言葉で形ばかりのけじめをつけただけ。僕が実際に行ったことはと言えば、彼女への呼び名を戻したことと、身体的な接触を控えるようになったこと、それだけで。結局のところ、僕は彼女と完全に距離を置くことなんてできないばかりか、まだ彼女のそばにまとわりついているのだ。彼女を守るため、なんて大義名分を盾にしながら、醜い独占欲によって彼女を縛り付けている。自分のこの異常なまでの執着心には嫌悪感しかないが、こればかりはどうしても理性で抑え込むことができない。
 一方、彼女のほうは、そんな僕のことを大して気にも留めていないようだった。交際前から僕のしつこさには慣れていたのか、あるいは僕に深く傷つけられたせいで、今もなお感覚が麻痺したままなのか。

「そういえばこないだのテスト、平均点取れたんだよ。夏生くんに教えてもらった問題も、ちゃんと解けたし」
 朝、彼女を迎えに行き、並んで学校へ向かう途中、弾む声で楽しげに報告してくれる彼女を横目で眺める。別れて間もない頃は寂しそうな表情を見せることもあったが、彼女はすぐに以前の生活習慣を取り戻したようだ。最近は授業にも集中できているようだし、僕のせいで滞っていた勉強も、無事回復に向かっている。その姿に安心しつつも、どこか喜びきれない僕は、やはり彼女にとって害でしかないのだろうか。
 彼女は相変わらず、僕を名前で呼ぶ。単に呼び方を変えるのが面倒なだけかもしれないが、その響きを耳にするたび、胸を締め付けられるような思いがした。だが、それほど苦しいのに、同時にたまらなく愛しくもあって。もう恋人ではないのにとは思いながらも、彼女を咎める気にもなれないのは、僕が本心ではそれを求めている証拠だった。

「あの、先輩? ……手が。その……」
 さっきから、彼女の指先が、僕の手の甲を何度か掠めていることには気づいていた。しかし偶然かもしれないと言い聞かせ、いや、そうであってほしいと願いながら、見て見ぬふりを決め込んでいたのに。手の中に滑り込んできた細い指が僕の小指に絡みつくと、さすがに無視を貫くわけにもいかなくなった。
「繋いでもいい?」
「でも、もう恋人じゃないんですから……」
「夏生くんは、繋ぐの嫌?」
 言葉に詰まる。彼女に触れないよう自制はできても、彼女から迫られたら拒絶なんてできないからだ。彼女もそれをよくわかっていて、だからこそ、僕が断れないように距離を詰めてくる。「嫌ではないですよ」と本心を明かせば、彼女は嬉しそうに手を握ってきた。振りほどくことなどできない僕は、それをそっと握り返すしかない。

 やはりそうだ。今の行動で確信に変わる。
 最近また、彼女の様子がおかしい。おかしいとは言っても、もう以前のようにただ快楽を求めてくる彼女ではなくて。そう、まるで――僕に恋をしているかのような。
「今日、ちょっと話したいことあるの。いつも授業終わったら、教室まで迎えに来てくれるでしょ? そのあと、そこでお話してもいい?」
 繋いだばかりの手を引き寄せられる。上目遣いで見つめながら言われ、拒否の言葉は出てこなかった。

 何を話されるのだろうかという期待と不安で、授業など全く手につかなかった。その考えだけに頭を支配されているうちに、気づけばもう夕方。一日の終わりを告げるチャイムが響く中、まとまりなく教室から吐き出される生徒の波をかき分けて歩く。いつも歩いているはずの廊下が、今日だけやけに長く感じるのは、やはり僕の心理的なものによる錯覚だろうか。
 彼女からの呼び出しに心が躍る一方で、めったにないこの状況に、ある種の警戒心を抱いてしまっているのも事実だった。とはいえ、すでに“元”恋人同士という関係性になったのだから、さすがに今さら別れ話を蒸し返すわけではないだろう。考えられる最悪のケースは新しい彼氏を紹介されることだが、僕の知る限りではそんな気配はなさそうだ。しかし引っ越しのような緊急事態というのは可能性として低いだろうし、単なる遊びの誘いのためにわざわざ呼び出すとも思えない。用件はさっぱり見当がつかなかった。
 いや、本当はひとつだけ、かなり有力な懸念が頭に浮かんでいた。しかし、もしそれが真実だったらどうしようとも思うのだ。愛の告白だったらどうしよう、と。

 教室に着くと、彼女は案外いつもと変わらない態度で迎えてくれた。他愛のない話で時間を潰し、周囲に誰もいなくなったのを見届けると、彼女が改まった様子で口を開く。
「お別れしようって言ってくれたでしょ。でも……なんか最近、寂しいの」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の予感は確信に変わった。どう考えても告白の前触れとしか思えない空気感を察知し、全身に緊張が走る。もしかして彼女はまた、混乱のあまり肉体的な繋がりを求めているのではないか。一瞬そんな不安がよぎるが、彼女の表情は落ち着いていて健全に見える。だが、そうは言ってもこの発言だ。やはりまだ、完全な正常性を取り戻すまでには時間がかかるのだろうか。可哀想に、無意識の防衛本能が僕に媚びろと強いているに違いない。
「あのね。私……夏生くんのこと、まだ好きだよ。やっぱり夏生くんが彼氏だったら嬉しいな、とか考えちゃってるの」
 言いながら、横目でこちらに視線を寄越し、すぐにそらす。床に立てたつま先で円を描くその仕草は、少し照れているようにも見えて。まるで本当に恋する女の子のようだった。
「そう思うのは、先輩がまだ精神的に不安定だからですよ。だからそんな思い込みをしてしまうんです」
 もちろん全責任は僕にあってあなたは悪くない、と念を押す。もう二度と彼女を傷つけたくない。ただそれだけを強く思っていた。

「ねえ。昨日、前髪切ったの。……気づいてた?」
 僕の無機質な返答に一瞬表情を曇らせた彼女だったが、すぐにまた笑顔を見せると、唐突に話題を変えた。前髪が、今の話となんの関係があるのだろうか。彼女の髪型の変化くらい当然把握していたが、あえて何も言わないよう気をつけていた。僕が彼女の容姿について言及すれば、薄汚い下心が露見してしまいそうだからだ。警戒されたくない一心だったが、知らず知らずのうちに視線を送ってしまっていたのだろうか。
「あとね。今日はほら、毛先巻いてるんだよ。けっこう上手にできたと思うんだけど」
 いつまでも黙っている僕を見かねてか、彼女が再び自分の髪に触れた。毛先をつまんで揺らして見せる、その仕草が可愛らしくて見惚れてしまう。「でも私、天パだからいつも通りに見えるのかな。わかりにくかったかも」なんて肩を落とすから、思わず「そんなことないですよ」と本音が口から漏れた。
「ほんと? かわいい?」
「かっ……、えっと。そ、そうですね」
 これまで、彼女への好意を隠そうともしない褒め方ばかりしてきたせいか、すぐに気の利いた言葉が浮かばない。可愛い、それは間違いないのだが、それを素直に伝えればまた僕の欲望が透けてしまいそうだ。しかし、ただの「良い」では浅いと思われるかもしれない。だからと言って、「髪型が」とかわざわざ限定して褒めるのも、それはそれで不自然な気がする。

 あからさまに言葉を詰まらせた僕を見て、彼女が「もしかして困らせちゃってる?」と申し訳なさそうに謝ってくるから、慌てて首を振って謝り返す。夏生くんってけっこう顔に出るタイプだよね、なんて、初めてそんなことを指摘された。そう言う彼女自身も、笑顔を浮かべてはいるが眉は悲しげに下がっている。僕から見れば、彼女のほうがよほど感情を表に出しやすいのではと思うのだが。
「可愛いって言ってほしい、ってお願いしたら迷惑?」
 トントン。彼女の小さな足を包む靴の、そのつま先が軽やかに床を叩く。心地よいリズムに誘われるまま顔を上げると、期待に瞳を輝かせる彼女と目が合った。愛しい彼女にここまで言わせてしまっては、応えないわけにもいかない。
「……可愛いです。というか、先輩はいつも可愛いですから。今さら僕が伝えるまでもないですよ」
 他の人からもよく褒められるんじゃないですか、とわざと他人事のように付け加えた。彼女の可愛らしさは周知の事実である、という客観的評価にすり替えて、自分の気持ちを誤魔化すために。言い訳のようで情けないが、未練がましくもまだ彼女に焦がれているなんて、知られるわけにはいかない。

 そう思っていたのに。
「私は好きな人に褒めてほしかったのにな」
 まっすぐな眼差しでそう返されるから、いっそ清々しい気持ちにすらなってしまった。なんて彼女らしい、潔い言葉なのだろう。
 まさか彼女の口からこんな言葉が聞けるなんて。彼女が能動的に僕にアプローチしてくれる日が来るなんて。僕を落としに来る彼女の破壊力はすさまじく、こんなの誰だって落ちるだろう、と本気で思う。

 彼女の気持ちを聞いて、嬉しくてたまらないのに、僕の心の隅では深い絶望感も広がっていた。僕が彼女の本音を奪ったせいで、彼女の好意に確信が持てない。あの頃の僕なら飛びついて喜んだはずなのに、今の僕にはそれができないのだ。僕がすべてを壊してしまった後だから。
 もしこれが彼女の心からの言葉だと信じられたなら、どれほど幸せだっただろう。いや、でも――こんなふうに壊れでもしなければ、彼女は一生、僕に興味なんて持たなかったのかもしれない。壊したからこそ幸せが訪れたのか? そして、本当にこれが彼女の幸せなのか? どれほど自問自答しても、答えなんてどこにもなかった。
「……もう私のこと、名前で呼んでくれないの?」
 彼女の問いかけが、僕の迷いを遮断する。
 ここまで来て、見苦しい言い訳を並べてさらに逃げ回るような卑怯な真似はしたくなかった。なにより、また彼女の恋人に戻れるなんて、僕にとっては夢のような話だ。断る理由などあるはずもない。ただ、もう二度と彼女の核心に触れられないのだと理解するのが、たまらなく辛いだけ。それでも、すべては僕が蒔いた種だ。
 あやふやな態度を捨て、彼女の瞳を真正面から見つめ返した。僕も覚悟を決めなくては。

「まいさん」

 僕の呼びかけに、彼女の表情がぱっと華やぐ。すでに想いは伝わっているようだが、中途半端に関係性をぼかすのは僕の性に合わない。言葉を濁さず、改めてはっきりと復縁を申し込んだ。誤解の余地がないよう、責任の全てが僕にあると明言して。すでに過ちを犯したくせに「一生大事にします」などとあまりに独りよがりな決意すらも、今の僕の気持ちとして真剣に伝えた。
 今さら優しさを注いだところで、過去の贖罪にはならない。それでも僕は彼女を幸せにしたいのだ。それが彼女の望む幸せなのか、僕には知る術もないけれど。

 夕暮れの教室で、僕を見つめる彼女の顔が赤く染まっていく。その姿が眩しいほどに美しい。僕の告白が冗長だったのだろうか、そのうちじれったいというように抱きついてきたから、恐る恐る抱きしめ返した。
 好きです、と、それだけ最後にもう一度伝えて口を閉じる。その言葉に答えるように、彼女の腕に力がこもった。揺れる髪が、柔らかな曲線を描く。
 ふと、懐かしい彼女の香りがした。
 

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ステキ!を送ることで、作品への共感や作者様への敬意を伝えることができます。
また、そのステキ!が作者様の背中を押し、次の作品へと繋がっていくかもしれません。
ステキ!は匿名非公開で送ることもできますので、少しでもいいなと思ったら是非、ステキ!を送ってみましょう!

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