投稿日:2021年01月17日 07:47 文字数:9,945
見知らぬ悪魔より馴染みの悪魔
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高専五条と任務。
夢小説作品
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夢主の名前
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「家入硝子さーん! なにとぞ献血にご協力くださーい! 黒魔術用の血が不足しておりまーす! 血液型は問いませーん!」
教室の窓辺に背を預け、さも当然の顔でポケットから取り出した煙草に火を点けようとした女子生徒(当然未成年)──家入硝子に大声をかけてきたのは、同じ学年の月島小瑠璃だった。
その呼びかけの前半だけ聞けば、街頭献血キャンペーンのようだが、後半部分がかなり異彩を放っている。
生き血を求める同級生から名指しされた硝子は、指の間に挟んだ煙草の先で、教室の後方にいる長身の男子二人──五条悟と夏油傑を指し示した。
「そこの血の気がありあまっている野郎どもに頼めば。良い瀉血になるでしょ」
「ハ? 小瑠璃に無償提供するほどありあまってねーよ。俺の血は高えぞ」
「うーん。野郎の血じゃ何リットルあっても低級悪魔か地霊しか呼べないからな〜」
「ざけんな。この悟様の血だぞ。悪魔どころか三大天使セットで喚べるわ」
「五条くんの命を代償にするならワンチャンあるかもしれないけど」
童話に登場する王子様のように澄みきった碧眼が台無しなくらいガンくれてくる五条に対し、小瑠璃はごくごく真面目な表情で召喚について検討している。
慢性的な人手不足のために高専所属の三級呪術師として呪霊退治の任務に駆り出されることはあるが、小瑠璃は性格も能力もあまり戦闘向きではない。三度の飯より黒魔術の研究が好き、という、ある種の変態じみたインドア呪術師である。彼女の頭の中の大半は黒魔術の新たな構想で占められている。今は五条を生贄に何を呼び出せるか、楽しい想像を巡らしているようだ。
「私たちの血じゃダメということは、その儀式には女性の血が必要なのかい?」
小瑠璃の思考が人間界を越えて地下世界のコーキュートスあたりまで行きそうだと気付いた夏油が、彼女の興味を引きそうな話題で呼び戻す。話しかけられた小瑠璃はハッと我に返った顔になり、あちこちに絆創膏の貼られた手を掲げてみせる。
「そう。今回の悪魔召喚には処女の生き血が必要でね。一昨日から痛い思いして血を搾り出しているんだけど全然足りなくて」
小瑠璃の口から「処女の生き血」と聞いた夏油は、返答に窮したようで、笑顔を貼り付けたまま黙り込んでしまった。
小瑠璃を睨みつけていた五条まで、先程の威勢はどこへやら、その長躯を心なし小さくして真顔になった。
平常運転は小瑠璃と硝子だけである。
「どうりで最近絆創膏だらけだと思ったら。治してやるから手を貸して」
火の点いていない煙草を咥え、ん、と小瑠璃に手を差し伸べる硝子。重ねた小瑠璃の手全体に硝子の呪力が注がれる。程なくして硝子は小瑠璃の手の絆創膏を次々と遠慮なく引っ剥がした。そこには傷一つない。
「硝子ちゃんの反転術式は天下一!」
「今度採血するときは手伝ってやるから言いな。あと、非処女だから献血に関しては協力できないよ」
「処女は高位悪魔の召喚にも使える一回ポッキリの貴重な資源なのに……残念」
「資源言うな」
「不思議と神も悪魔も人間も処女をありがたがったり畏れたりするんだよねぇ。だけど、処女の定義って何なんだろ? 純潔とは精神性より肉体の処女膜一枚ごときに重きを置くのかな? そもそもどの行為から処女喪失と見なされるのか?」
「学者肌だねえ」
小瑠璃と硝子は、片や魔術、片や医術に邁進していて馬が合う。二人は向かい合ってああでもないこうでもないと熱心に語り合っている。内容は処女についてだが。
「自分の生き血が黒魔術の貴重な材料になるなんてありがたいよね。処女の定義は分からないけど一生メンタルもフィジカルも処女を貫き通したいと思っている。いや、上級悪魔と契約するときの奥の手かな!?」
「ふうん。難しいと思うけどね」
煙草に火を点けた硝子はくゆる紫煙越しにちらりと視線を投げる。そこには小瑠璃と硝子の会話が始まってから、身の置き場がない様子でいつになく静かになっている男子二人の姿がある。
そんなとき、五条や夏油ほどではないものの背の高い男性が教室に入ってきた。泣く子が黙るどころか号泣しそうな強面──担当教師の夜蛾正道だった。
教室をぐるりと見回した後、硝子とともに窓際に立っていた小瑠璃に視線を留める。小瑠璃は慌てて背筋を伸ばした。
「小瑠璃、任務が入った。任務の詳細は補助監督が車内で説明する。車は昇降口前で待機しているので向かってくれ」
「はい」
どちらかといえば後衛向きの小瑠璃が単独任務にあたることは珍しい。少し意外そうな表情を浮かべた小瑠璃だったが、素直に返事をして教室を出て行った。
小瑠璃がいなくなると、夜蛾は次に五条に視線を移し、あごでしゃくって廊下に出るように指示する。
「悟。話がある。ついてこい」
「……今度は何をやらかしたんだい? 建造物等損壊?」
「んー。身に覚えがありすぎてサッパリ」
教室から出て行く夜蛾に五条は続く。しばらく歩いて教室から遠ざかると、夜蛾は立ち止まり背中を向けたまま話し始めた。
「小瑠璃に同行してくれ。三級呪術師には少し荷が重い任務を任せたからな」
「? 別にいいけど、俺が小瑠璃より先に呪霊片付けていいってこと? 小瑠璃に任せる程度の任務なら秒で終わるけど?」
「いや……お前はなるべく手出しするな。小瑠璃に経験を積ませたい」
つまり小瑠璃の経験値稼ぎの手助けをしろということらしい。
わざわざ夏油や硝子に聞かれないように教室から離れる必要があったのか、と五条は怪訝そうな顔をする。
「高専で然るべき教育を受けた若手の呪術師は希少だ。それが戦闘向きでなかったとしてもな。小瑠璃にはせめてあと一つ階級を上げてもらいたい」
「いやいや、センセ。無理してアイツを昇格させなくたって今まで通り俺や傑がいれば全然問題ないでしょ」
「あぁ、そうだな。お前たちがいつまでも高専にいるならな。俺からの話は以上だ。小瑠璃と一緒に任務に向かってくれ」
五条との話を切り上げた夜蛾は踵を返して教室のほうへと歩いて行った。
残された五条はしばらく夜蛾の背中を見つめていたが、すぐに小瑠璃の向かった昇降口へと急いだ。
※
寮の自室で身支度を終えた小瑠璃は校舎の昇降口に向かい、横付けされた黒塗りの車の後部座席のドアを開ける。
「遅えよ」
なぜかそこには腕組みした五条がどんと鎮座していた。そこそこ広いはずの車内が長身の五条のせいで手狭に見える。
「遅刻魔の五条くんから遅いと言われる日が来るとは思わなかったよ……」
小瑠璃はそっとドアを閉めて助手席のほうに回ろうとしたが、「俺の隣」と有無を言わさぬ声音の五条に先制され、しぶしぶ後部座席に乗り込んだ。小瑠璃が着席すると補助監督の運転で車は緩やかに発進する。
「狭い。もっと詰めろ」
「五条くんがこっちに寄りすぎなのでは!?」
五条と背格好の近い夏油が並んで後部座席に座っていたら窮屈かもしれないが、小柄な体型の小瑠璃の隣は余裕があるはずだ。それなのに五条は押し潰さんばかりに寄りかかってくるので、骨張った肩が小瑠璃のこめかみあたりに食い込んでくる。小瑠璃は必死に押し返しながら尋ねる。
「あの、ところで、なんで五条くんはこの車に乗ってるの?」
「俺の隣の三級術師さんがヘマこいて無駄死にしないよう、お守りを任されたんだよ」
「それはそれは……ありがたいことで……」
押し負けてついには頭を五条の肘置きにされてしまった小瑠璃の表情は晴れない。
小瑠璃がよく任務で組まされるのは階級が近くて前衛向きの一年生呪術師の七海建人や灰原雄あたりだ。呪術師としてのランクの差がありすぎる小瑠璃と五条の二人きりの任務はこれが初めてになる。他の同期の夏油や硝子とは仲良くやれているのだが、五条はなぜか小瑠璃に対して以前から当たりが強いことが多いので、緊張するというか気まずい。
「小さすぎて探すの面倒だから俺のそばを離れるなよ。影のように寄り添って歩け」
「小さすぎない! 人混みで待ち合わせのランドマークにされる五条くんに比べたらみんなホビット族ですよ」
「ホビット? コロポックルの間違いだろ」
「フキの葉より全然デカいわ!」
あまりの騒々しさに耳を塞ぎたそうな顔でハンドルを握る補助監督に気付かず、後部座席での二人の口喧嘩は現地に到着するまで続いた。
今回の小瑠璃の任務は、バブルの煽りで平成初期に廃園となった遊園地での呪霊退治だった。運営会社の社長はバブルが弾けると同時に蒸発してしまったため、土地建物の権利関係が有耶無耶になり、現在に至るまで遊園地は手つかずになっていた。近々ようやく行政が介入することになり、その前に遊園地に巣食う呪霊を祓ってくれるよう、呪術高専に依頼があったという流れだ。
補助監督から渡された資料によると、ここ最近になって無断で立ち入った廃墟マニアや不良グループが行方不明になったり変死を遂げたりしているらしい。命からがら生還した者は何があったか証言する前に精神に異常を来たし、閉鎖病棟に送られる始末だ。
高専の上層部はそれらの情報から二級相当の呪霊がいると判断し、小瑠璃を向かわせることに決まった。
遊園地のゲート正面に降り立った小瑠璃と五条は、風雨に晒されてすっかり錆びつき色褪せた看板を見上げる。薄れてしまってはいるが、遊園地の名称と、風船を手にしたウサギやクマのキャラクターが描かれているのが分かった。
「平成初期から変な噂はなかったのに、どうして最近になって呪いが起きてるのかな?」
「いや、逆に以前から呪霊はいたけど、役所が解体や売却のために調べ始めて被害者の存在が明るみに出た、とかじゃねえの? もしくはネットの普及で一般人にここが知られるようになって被害者が増えたとか」
小瑠璃の何気ない疑問に対し、五条からはすぐにいくつかの仮説が返ってきた。
この五条悟という男、素行の悪さに反して頭は切れるし、思考や戦い方は理性的だ。菅原道真公を祖とする呪術界の名家に生まれ、白髪碧眼の日本人離れした美青年のわりには立ち居振る舞いはチンピラだし、知れば知るほど意外な面が多い。五条に対する小瑠璃の心象が良くなることは決してないが。
「理由はなんであれ原因である呪霊を祓えばいいんだろ? 俺じゃなくて小瑠璃がな」
「はーい……頑張らせて頂きまーす……」
ゲートの奥──鉄柵の門には大きな金属の南京錠がかけられていたが、五条がその前でピンッと指をはじく仕草をすると呆気なく砕け散った。その衝撃で女の悲鳴のような甲高い音を立てて門は開いた。
五条が「さっさと入れよ」というふうに小瑠璃に視線を投げてくるので、小瑠璃は代表して遊園地に足を踏み入れた。
かつてはきれいに整備されていたであろう地面はひび割れ、至るところからナズナ、ハルジオン、タンポポなどの繁殖力の強い野草が顔を見せている。
遊園地のエントランス付近には土産物屋や軽食コーナー、子供向けの射的ゲームが立ち並び、その先には色んなアトラクション施設が続いている。まだ昼下がりで日が高いせいかもしれないが、屋外からは呪霊の気配を感じられない。
小瑠璃は周囲に気を配りながら遊園地の中心部に向かって歩き始めた。その後ろを五条がついてくる。
ミラーハウス、お化け屋敷、メリーゴーラウンド、コーヒーカップ──屋内外のアトラクションを一つ一つ見て回ったが、やはり呪霊の姿は見つからなかった。
小瑠璃と五条はショーイベント用の舞台が設置された中央広場を通り抜けて、とうとう遊園地のメインアトラクションである観覧車の正面に辿り着いた。
もしかして、本当に夜にならないと出現しない呪霊なのだろうか、五条と二人きりで夜まで待つのはちょっとしんどいな、と思っていると不意に何者かの声が降ってきた。
「ちょっとちょっと。君たち、地元の高校生カップル? デートはよそでやってくれないと困るよ。若いんだから、こんなところより楽しいところたくさんあるだろ?」
小瑠璃と五条が瞬時に臨戦態勢に入る。周囲に自分たち以外の人影はない。まさか、と小瑠璃が見上げた先の観覧車のゴンドラの屋根に誰かが立っていた。年頃は三十前後の中肉中背の平凡な容貌の男だが、あんな高さに佇んでいることから、廃墟の探検に来た一般人ではなさそうだ。
身構える小瑠璃と五条をゴンドラの上から眺めていた男は何かに気付いたのか、おや、と意外そうな声を漏らした。
「その制服……。呪術高専の学生かい?」
「──おっさん、同業者かよ」
「むしろ商売敵だな」
「じゃあ、呪詛師か。バカと煙は何とやらと言うけどさ、おっさん、そんな高いところに突っ立って何してんの?」
五条の暴言に近い挑発に、男──呪詛師は怒るどころか鷹揚に微笑んで応じた。
「白髪の君。強そうだね」
「あぁ、強いよ」
五条は文字通り不敵に笑う。
小瑠璃には分からない戦闘派の術師同士のコミュニケーションのようだ。
廃墟の遊園地となってから十五年ほどの歳月を経て、行政が介入すると決まってから急に起こり始めた呪い。しかし、小瑠璃と五条が園内を調査したが、呪いの発生源である呪霊は見つからなかった。そして、偶然出くわしたとは思えない呪詛師の存在。
小瑠璃の頭の中で点と点が線で繋がった。
最初こそ呪詛師との会話は五条に任せようと思っていたが、今はゴンドラをまっすぐに見上げて呪詛師に話しかける。
「呪詛師のおじさん」
「君たちねえ、さっきから人のことを『おっさん』『おじさん』と気安く呼んでくれるけど、まだ僕は31だよ。で、なんだい? 可愛いお嬢さん」
「あなた、一般人を呪ったね」
小瑠璃の言葉を聞き、五条を取り巻く空気が急激に尖った。目の前にいる呪詛師への警戒レベルを一気に上げたようだ。
呪術師と呪詛師の違いは分かりやすく、呪術で呪霊から一般人を守るか、呪術で一般人に危害を加えるか、とされている。
小瑠璃と五条は守る側にいる。
五条のようにその若さと強さゆえにときに傲慢な男は、自らの活躍を誇示することなく陰日向から一般人を守り続けることに葛藤があるだろう。
どうして非術師より優れた力を持つ自分たちがこそこそ隠れて人助けをしてやらないといけないのか。
そんなふうに五条が夏油と殴り合い一歩前の討論バトルを繰り広げているところを見かけたことがある。
もし同期の中から呪詛師になる者が出るとしたら五条かもしれない、と思っていた小瑠璃だったので、五条が呪詛師に対して嫌悪感に近い憤りを見せたのが意外だった。
「どうしてそう思った? お嬢さん」
「ここで偶然呪詛師に会うのはおかしいし、呪霊の気配はないから、おじさんが侵入してきた一般人を呪っていたのかと思って。理由は分からないけど、行政が入ってこないようにするためとか?」
「前半は正解。後半が少し違うな。おじさんはこの場所を安く買い叩きたい人から評判を落とすために雇われたんだ。簡単に言えば、大人の事情ってやつだね」
呪詛師は目を細めて饒舌に話す。小瑠璃や五条に内情を教えるということは高専の学生だと完全に舐めきっているのか、ただおしゃべりな性格なのか。
「これは提案だけど、遊園地の呪霊はすべて退治した、おじさんのことは見なかった、ということにして帰らないかい?」
「なにそれ、命乞い?」
「事を穏便に済ませたいだけだよ」
「冗談!」
五条がかたちの良い鼻先で笑い飛ばす。そして、小瑠璃の後ろに腕を回し、彼女の華奢な背中を大きな手のひらで前にぐんと押しやった。その力強さに小瑠璃はたたらを踏む。
「おっさんの相手はこのチビだ」
「えっ」
「安心しろ。骨は拾ってやる」
「荼毘に付すまで放置されるの!?」
「ものの例えだっての。泣いて頼めば、死ぬ三歩手前くらいで助けてやるよ」
「それは充分ICU送りの重体では……」
五条からのあまりの言い草に小瑠璃はついつい文句を言うが、本来は自分一人でこなさなくてはならなかった単独任務だ。呪霊と呪詛師ではまるで戦い方が違うし、相手の力量や階級は未知数。しかし、呪術高専の制服を着ている以上、逃げるわけにはいかない。小瑠璃は詠唱を開始する。
「来たれ、地獄を抜け出しし者 十字路を支配する者よ 汝、夜を旅する者 昼の敵 闇の朋友にして同伴者よ──」
小瑠璃の術式は悪魔召喚だ。便宜上、悪魔と呼んではいるが、本当に地獄や魔界から喚び出したキリスト教の悪魔と同じものかは小瑠璃には分からない。もしかしたら、小瑠璃の呪力から生み出された式神が悪魔の様相をなしているだけかもしれない。
本来、悪魔召喚には黒魔術に則った供物や魔法陣が必要だが、トライアンドエラーの実験を重ね、詠唱あるいは詠唱なしで何体か召喚できるようになった。
「──千の形を持つ月の庇護のもとに我と契約を結ばん」
小瑠璃の長い髪が重力に逆らい、悪魔の翼のようにふわりと広がる。
小瑠璃のそばにはいつの間にか鮮血で描かれたように赤い魔法陣ができている。その中から無数の黒い羽根が怒涛の勢いで噴き上がった。そして、羽軸の部分を切っ先に、まるで意思を持つ鳥のように観覧車のゴンドラに向かって突っ込んでいく。呪詛師がひらりと地面に飛び降りて身を躱すと、それまで呪詛師のいた屋根に驚くべき硬度と鋭さで羽根が突き刺さった。
「《赤ずきん》!!」
追撃するために小瑠璃が叫ぶ。
呪詛師の着地した直後、地面から赤い魔法陣が浮かび上がる。次の瞬間には狼をカートゥーンアニメ向けにデフォルメしたような化け物が飛び出してきた。貧相な体に対して頭が異常に大きい。ぎょろりとした目玉は半ば飛び出しており、みっちり並んだ牙の間からはよだれが流れ落ちる。よく見れば、ナイトキャップとネグリジェを着ている。化け物は呪詛師を丸呑みせんとばかりに耳まで裂けた口を開けた。飛び退こうとした呪詛師の頭上から先程と同じ大量の黒い羽根が豪雨のように降り注ぐ。小瑠璃のダメ押しの一手だ。
周りからの「小瑠璃は戦闘向きではない」という評価を聞いていた五条は、案外まともな戦いぶりに感心した。相手が小瑠璃と同じ三級程度の術師なら、これまでの攻撃で充分に勝敗は決まるだろう。
呪詛師の身体中に突き刺さっていた黒い羽根がひらひらと散り始める。小瑠璃と五条の前で徐々に姿を露わにした呪詛師には、なんと傷一つなかった。
呪詛師は顔面の前で交差していた腕を下ろしていく。その口元には薄い笑み。
この呪詛師は小瑠璃の手に負えない、と瞬間的に判断した五条は、さらに攻撃する姿勢の小瑠璃に向かって鋭い声を上げた。
「小瑠璃! お前は下がれ。俺が代わる」
「いやいや、ダメだよ。まだ彼女、死ぬ三歩手前じゃないだろ?」
先程の五条の言葉を借りた呪詛師は、呪力を巡らして強化した脚力で地面を蹴って小瑠璃に肉迫する。前衛に優れた戦闘派の術師の動きだ。
「《栄光の──》」
「遅いよ」
呪詛師の蹴撃を食らった小瑠璃の小柄な身体は近くの案内板まで吹っ飛ぶ。ぶつかった衝撃で激しく咳き込みながら、小瑠璃は地面に膝をついた。
胴体を庇うために呪力を溜めた左腕で防御したが、おそらく骨は折れている。それでも勢いを殺しきれずに自分の腕が強く当たったために切れた口内から出血する。
「若い女の術師は貴重だからね。顔と腹は避けてあげるよ。なかなか嫁の貰い手がない地方の術師の一族とかには君みたいな子は高く売れるんだ。さて、どうしようかなぁ」
呪詛師は陽気に喋るので、その軽口が本気か冗談か定かではない。当初のまま小瑠璃単独の任務だったら、ボコボコにされた挙げ句に本当に売り飛ばされていたかもしれない。だが、幸運なことに、五条悟がいる。
泣いてお願いしてスイパラに連れて行くと宣誓すれば助けてくれるはず。小瑠璃に対し辛辣な態度の多い五条とて決して鬼ではないだろう。期待を込めて小瑠璃は五条の立っていたほうを見る。
そこには──鬼がいた。
ゾッとするほど冷ややかな無表情なのに激怒していることがひと目で分かる。その目元を覆うサングラスはなく、露わになった透明度の高い碧眼の瞳孔は完全に開いている。
「三下ザコ呪詛師が──人の女、ボコってんじゃねえよ!」
耳から入った五条の台詞の情報が、小瑠璃の脳で処理されて疑問を抱くより早く、五条は術式を発動した。
何が起こったか小瑠璃の動体視力ではさっぱり分からなかったが、ほんの数秒前まで地上にいたはずの呪詛師は観覧車の中央部にめり込んでいた。ぐらぐらとフレームからぶら下がったゴンドラが激しく揺れる。小瑠璃が啞然として見つめていると、老朽化した観覧車は中心軸が折れたようで車輪状のフレームが落下し、そのまま真後ろの森の中へと轟音とともに倒れていった。突然のことに驚いた鳥たちが茜色の空に飛び立ってゆく。
「……これ、始末書を書かなきゃいけないの、五条くんと私のどっち!?」
小瑠璃は頭を抱えようとしたが、そういえば左腕が骨折していたので動かなかった。
「お前の最初の心配はそれかよ。おら」
近付いてきた五条がポケットに突っ込んだままの片手を抜いたと思ったら、その手には光沢のある生地の白いハンカチ。意図が分からずに、小瑠璃の視線は五条の顔とハンカチの間を往復する。
「血。拭けよ」
「……どうも、ありがとう」
小瑠璃は無事な右手のほうで五条からハンカチを受け取る。口からあごに伝った血の跡を拭う。見上げた五条の顔は先程の怒りの形相と打って変わって凪いだ表情だ。
「五条くん、普段からハンカチを持ってるんだね。ズボンで手を拭くタイプだと思った」
「おい。今すぐ返せ」
「ダメでーす。血がついちゃったから。今度似たようなものを買って返すね」
「俺のハンカチ、二万はするけど?」
「二万のハンカチ……助けた鶴が織ってくれた反物の切れっ端とか?」
五条が日本呪術界の名門御三家の出身とは聞いていたが、思わぬところでその裕福さを知ることになった。
ひとまず五条の高級ハンカチをポケットにしまい、小瑠璃はゆっくり立ち上がる。左腕は折れてるし、膝は汚れているし、口の中は血の味。ひどいありさまだ。
「どうしてもと言うなら背負ってやるけど」
「あ、お構いなく。足は問題ないから」
「…………可愛くねえ」
「なんで!?」
五条が不機嫌そうに舌打ちしながらサングラスをかける。そして、入退場ゲートのある方角にずんずん歩き出すので小瑠璃は慌てて追いかけた。負傷した同期を気遣ってか日頃より歩調がだいぶゆっくりだったのですぐに隣に並んだ。五条はサングラスの端から横目で小瑠璃を窺っているようだ。なんだろうと思っていたら、おもむろに口を開いた。
「……そういえば、お前って上級の悪魔と契約したいから一生処女を貫き通すって? 哀れな奴」
「哀れかどうかは個人の価値観次第だね。今のところはその予定だけど」
五条と悪魔の契約について語り合えるとは思わなかったので、小瑠璃は自分が骨折していることを忘れるほど嬉しくなった。もしかして、先程の戦闘の中で小瑠璃の悪魔召喚の術式を目の当たりにし、興味を持ってくれたのだろうか。
小瑠璃の期待の眼差しに対し、五条は不自然なほど正面を見据えたまま喋る。
「悪魔なんかより最強の俺を頼れば? 悪魔より俺のほうが絶対に強いし。顔も頭も声も良いし。何かあったらさっきみたいに守ってやるよ」
極めて残念ながら、世紀の黒魔術バカ一代の小瑠璃には、五条の言いたいことが三分の一も伝わっていなかった。小瑠璃は困惑した顔で五条に尋ねる。
「…………それは、私の処女と引き換えに、五条くんが契約するってこと?」
「ッッッ──お前はバカか!!」
「すみません、バカです、黙ります」
凄まじい剣幕で怒鳴られたので、どうやら不正解のようだと判断した小瑠璃は折れた左腕に響かないように押さえつつ、小走りで五条から距離を取る。
「……ほしいって言えばくれるのかよ」
という、拗ねたような声音の呟きは、小瑠璃の耳に届くことはなかった。
教室の窓辺に背を預け、さも当然の顔でポケットから取り出した煙草に火を点けようとした女子生徒(当然未成年)──家入硝子に大声をかけてきたのは、同じ学年の月島小瑠璃だった。
その呼びかけの前半だけ聞けば、街頭献血キャンペーンのようだが、後半部分がかなり異彩を放っている。
生き血を求める同級生から名指しされた硝子は、指の間に挟んだ煙草の先で、教室の後方にいる長身の男子二人──五条悟と夏油傑を指し示した。
「そこの血の気がありあまっている野郎どもに頼めば。良い瀉血になるでしょ」
「ハ? 小瑠璃に無償提供するほどありあまってねーよ。俺の血は高えぞ」
「うーん。野郎の血じゃ何リットルあっても低級悪魔か地霊しか呼べないからな〜」
「ざけんな。この悟様の血だぞ。悪魔どころか三大天使セットで喚べるわ」
「五条くんの命を代償にするならワンチャンあるかもしれないけど」
童話に登場する王子様のように澄みきった碧眼が台無しなくらいガンくれてくる五条に対し、小瑠璃はごくごく真面目な表情で召喚について検討している。
慢性的な人手不足のために高専所属の三級呪術師として呪霊退治の任務に駆り出されることはあるが、小瑠璃は性格も能力もあまり戦闘向きではない。三度の飯より黒魔術の研究が好き、という、ある種の変態じみたインドア呪術師である。彼女の頭の中の大半は黒魔術の新たな構想で占められている。今は五条を生贄に何を呼び出せるか、楽しい想像を巡らしているようだ。
「私たちの血じゃダメということは、その儀式には女性の血が必要なのかい?」
小瑠璃の思考が人間界を越えて地下世界のコーキュートスあたりまで行きそうだと気付いた夏油が、彼女の興味を引きそうな話題で呼び戻す。話しかけられた小瑠璃はハッと我に返った顔になり、あちこちに絆創膏の貼られた手を掲げてみせる。
「そう。今回の悪魔召喚には処女の生き血が必要でね。一昨日から痛い思いして血を搾り出しているんだけど全然足りなくて」
小瑠璃の口から「処女の生き血」と聞いた夏油は、返答に窮したようで、笑顔を貼り付けたまま黙り込んでしまった。
小瑠璃を睨みつけていた五条まで、先程の威勢はどこへやら、その長躯を心なし小さくして真顔になった。
平常運転は小瑠璃と硝子だけである。
「どうりで最近絆創膏だらけだと思ったら。治してやるから手を貸して」
火の点いていない煙草を咥え、ん、と小瑠璃に手を差し伸べる硝子。重ねた小瑠璃の手全体に硝子の呪力が注がれる。程なくして硝子は小瑠璃の手の絆創膏を次々と遠慮なく引っ剥がした。そこには傷一つない。
「硝子ちゃんの反転術式は天下一!」
「今度採血するときは手伝ってやるから言いな。あと、非処女だから献血に関しては協力できないよ」
「処女は高位悪魔の召喚にも使える一回ポッキリの貴重な資源なのに……残念」
「資源言うな」
「不思議と神も悪魔も人間も処女をありがたがったり畏れたりするんだよねぇ。だけど、処女の定義って何なんだろ? 純潔とは精神性より肉体の処女膜一枚ごときに重きを置くのかな? そもそもどの行為から処女喪失と見なされるのか?」
「学者肌だねえ」
小瑠璃と硝子は、片や魔術、片や医術に邁進していて馬が合う。二人は向かい合ってああでもないこうでもないと熱心に語り合っている。内容は処女についてだが。
「自分の生き血が黒魔術の貴重な材料になるなんてありがたいよね。処女の定義は分からないけど一生メンタルもフィジカルも処女を貫き通したいと思っている。いや、上級悪魔と契約するときの奥の手かな!?」
「ふうん。難しいと思うけどね」
煙草に火を点けた硝子はくゆる紫煙越しにちらりと視線を投げる。そこには小瑠璃と硝子の会話が始まってから、身の置き場がない様子でいつになく静かになっている男子二人の姿がある。
そんなとき、五条や夏油ほどではないものの背の高い男性が教室に入ってきた。泣く子が黙るどころか号泣しそうな強面──担当教師の夜蛾正道だった。
教室をぐるりと見回した後、硝子とともに窓際に立っていた小瑠璃に視線を留める。小瑠璃は慌てて背筋を伸ばした。
「小瑠璃、任務が入った。任務の詳細は補助監督が車内で説明する。車は昇降口前で待機しているので向かってくれ」
「はい」
どちらかといえば後衛向きの小瑠璃が単独任務にあたることは珍しい。少し意外そうな表情を浮かべた小瑠璃だったが、素直に返事をして教室を出て行った。
小瑠璃がいなくなると、夜蛾は次に五条に視線を移し、あごでしゃくって廊下に出るように指示する。
「悟。話がある。ついてこい」
「……今度は何をやらかしたんだい? 建造物等損壊?」
「んー。身に覚えがありすぎてサッパリ」
教室から出て行く夜蛾に五条は続く。しばらく歩いて教室から遠ざかると、夜蛾は立ち止まり背中を向けたまま話し始めた。
「小瑠璃に同行してくれ。三級呪術師には少し荷が重い任務を任せたからな」
「? 別にいいけど、俺が小瑠璃より先に呪霊片付けていいってこと? 小瑠璃に任せる程度の任務なら秒で終わるけど?」
「いや……お前はなるべく手出しするな。小瑠璃に経験を積ませたい」
つまり小瑠璃の経験値稼ぎの手助けをしろということらしい。
わざわざ夏油や硝子に聞かれないように教室から離れる必要があったのか、と五条は怪訝そうな顔をする。
「高専で然るべき教育を受けた若手の呪術師は希少だ。それが戦闘向きでなかったとしてもな。小瑠璃にはせめてあと一つ階級を上げてもらいたい」
「いやいや、センセ。無理してアイツを昇格させなくたって今まで通り俺や傑がいれば全然問題ないでしょ」
「あぁ、そうだな。お前たちがいつまでも高専にいるならな。俺からの話は以上だ。小瑠璃と一緒に任務に向かってくれ」
五条との話を切り上げた夜蛾は踵を返して教室のほうへと歩いて行った。
残された五条はしばらく夜蛾の背中を見つめていたが、すぐに小瑠璃の向かった昇降口へと急いだ。
※
寮の自室で身支度を終えた小瑠璃は校舎の昇降口に向かい、横付けされた黒塗りの車の後部座席のドアを開ける。
「遅えよ」
なぜかそこには腕組みした五条がどんと鎮座していた。そこそこ広いはずの車内が長身の五条のせいで手狭に見える。
「遅刻魔の五条くんから遅いと言われる日が来るとは思わなかったよ……」
小瑠璃はそっとドアを閉めて助手席のほうに回ろうとしたが、「俺の隣」と有無を言わさぬ声音の五条に先制され、しぶしぶ後部座席に乗り込んだ。小瑠璃が着席すると補助監督の運転で車は緩やかに発進する。
「狭い。もっと詰めろ」
「五条くんがこっちに寄りすぎなのでは!?」
五条と背格好の近い夏油が並んで後部座席に座っていたら窮屈かもしれないが、小柄な体型の小瑠璃の隣は余裕があるはずだ。それなのに五条は押し潰さんばかりに寄りかかってくるので、骨張った肩が小瑠璃のこめかみあたりに食い込んでくる。小瑠璃は必死に押し返しながら尋ねる。
「あの、ところで、なんで五条くんはこの車に乗ってるの?」
「俺の隣の三級術師さんがヘマこいて無駄死にしないよう、お守りを任されたんだよ」
「それはそれは……ありがたいことで……」
押し負けてついには頭を五条の肘置きにされてしまった小瑠璃の表情は晴れない。
小瑠璃がよく任務で組まされるのは階級が近くて前衛向きの一年生呪術師の七海建人や灰原雄あたりだ。呪術師としてのランクの差がありすぎる小瑠璃と五条の二人きりの任務はこれが初めてになる。他の同期の夏油や硝子とは仲良くやれているのだが、五条はなぜか小瑠璃に対して以前から当たりが強いことが多いので、緊張するというか気まずい。
「小さすぎて探すの面倒だから俺のそばを離れるなよ。影のように寄り添って歩け」
「小さすぎない! 人混みで待ち合わせのランドマークにされる五条くんに比べたらみんなホビット族ですよ」
「ホビット? コロポックルの間違いだろ」
「フキの葉より全然デカいわ!」
あまりの騒々しさに耳を塞ぎたそうな顔でハンドルを握る補助監督に気付かず、後部座席での二人の口喧嘩は現地に到着するまで続いた。
今回の小瑠璃の任務は、バブルの煽りで平成初期に廃園となった遊園地での呪霊退治だった。運営会社の社長はバブルが弾けると同時に蒸発してしまったため、土地建物の権利関係が有耶無耶になり、現在に至るまで遊園地は手つかずになっていた。近々ようやく行政が介入することになり、その前に遊園地に巣食う呪霊を祓ってくれるよう、呪術高専に依頼があったという流れだ。
補助監督から渡された資料によると、ここ最近になって無断で立ち入った廃墟マニアや不良グループが行方不明になったり変死を遂げたりしているらしい。命からがら生還した者は何があったか証言する前に精神に異常を来たし、閉鎖病棟に送られる始末だ。
高専の上層部はそれらの情報から二級相当の呪霊がいると判断し、小瑠璃を向かわせることに決まった。
遊園地のゲート正面に降り立った小瑠璃と五条は、風雨に晒されてすっかり錆びつき色褪せた看板を見上げる。薄れてしまってはいるが、遊園地の名称と、風船を手にしたウサギやクマのキャラクターが描かれているのが分かった。
「平成初期から変な噂はなかったのに、どうして最近になって呪いが起きてるのかな?」
「いや、逆に以前から呪霊はいたけど、役所が解体や売却のために調べ始めて被害者の存在が明るみに出た、とかじゃねえの? もしくはネットの普及で一般人にここが知られるようになって被害者が増えたとか」
小瑠璃の何気ない疑問に対し、五条からはすぐにいくつかの仮説が返ってきた。
この五条悟という男、素行の悪さに反して頭は切れるし、思考や戦い方は理性的だ。菅原道真公を祖とする呪術界の名家に生まれ、白髪碧眼の日本人離れした美青年のわりには立ち居振る舞いはチンピラだし、知れば知るほど意外な面が多い。五条に対する小瑠璃の心象が良くなることは決してないが。
「理由はなんであれ原因である呪霊を祓えばいいんだろ? 俺じゃなくて小瑠璃がな」
「はーい……頑張らせて頂きまーす……」
ゲートの奥──鉄柵の門には大きな金属の南京錠がかけられていたが、五条がその前でピンッと指をはじく仕草をすると呆気なく砕け散った。その衝撃で女の悲鳴のような甲高い音を立てて門は開いた。
五条が「さっさと入れよ」というふうに小瑠璃に視線を投げてくるので、小瑠璃は代表して遊園地に足を踏み入れた。
かつてはきれいに整備されていたであろう地面はひび割れ、至るところからナズナ、ハルジオン、タンポポなどの繁殖力の強い野草が顔を見せている。
遊園地のエントランス付近には土産物屋や軽食コーナー、子供向けの射的ゲームが立ち並び、その先には色んなアトラクション施設が続いている。まだ昼下がりで日が高いせいかもしれないが、屋外からは呪霊の気配を感じられない。
小瑠璃は周囲に気を配りながら遊園地の中心部に向かって歩き始めた。その後ろを五条がついてくる。
ミラーハウス、お化け屋敷、メリーゴーラウンド、コーヒーカップ──屋内外のアトラクションを一つ一つ見て回ったが、やはり呪霊の姿は見つからなかった。
小瑠璃と五条はショーイベント用の舞台が設置された中央広場を通り抜けて、とうとう遊園地のメインアトラクションである観覧車の正面に辿り着いた。
もしかして、本当に夜にならないと出現しない呪霊なのだろうか、五条と二人きりで夜まで待つのはちょっとしんどいな、と思っていると不意に何者かの声が降ってきた。
「ちょっとちょっと。君たち、地元の高校生カップル? デートはよそでやってくれないと困るよ。若いんだから、こんなところより楽しいところたくさんあるだろ?」
小瑠璃と五条が瞬時に臨戦態勢に入る。周囲に自分たち以外の人影はない。まさか、と小瑠璃が見上げた先の観覧車のゴンドラの屋根に誰かが立っていた。年頃は三十前後の中肉中背の平凡な容貌の男だが、あんな高さに佇んでいることから、廃墟の探検に来た一般人ではなさそうだ。
身構える小瑠璃と五条をゴンドラの上から眺めていた男は何かに気付いたのか、おや、と意外そうな声を漏らした。
「その制服……。呪術高専の学生かい?」
「──おっさん、同業者かよ」
「むしろ商売敵だな」
「じゃあ、呪詛師か。バカと煙は何とやらと言うけどさ、おっさん、そんな高いところに突っ立って何してんの?」
五条の暴言に近い挑発に、男──呪詛師は怒るどころか鷹揚に微笑んで応じた。
「白髪の君。強そうだね」
「あぁ、強いよ」
五条は文字通り不敵に笑う。
小瑠璃には分からない戦闘派の術師同士のコミュニケーションのようだ。
廃墟の遊園地となってから十五年ほどの歳月を経て、行政が介入すると決まってから急に起こり始めた呪い。しかし、小瑠璃と五条が園内を調査したが、呪いの発生源である呪霊は見つからなかった。そして、偶然出くわしたとは思えない呪詛師の存在。
小瑠璃の頭の中で点と点が線で繋がった。
最初こそ呪詛師との会話は五条に任せようと思っていたが、今はゴンドラをまっすぐに見上げて呪詛師に話しかける。
「呪詛師のおじさん」
「君たちねえ、さっきから人のことを『おっさん』『おじさん』と気安く呼んでくれるけど、まだ僕は31だよ。で、なんだい? 可愛いお嬢さん」
「あなた、一般人を呪ったね」
小瑠璃の言葉を聞き、五条を取り巻く空気が急激に尖った。目の前にいる呪詛師への警戒レベルを一気に上げたようだ。
呪術師と呪詛師の違いは分かりやすく、呪術で呪霊から一般人を守るか、呪術で一般人に危害を加えるか、とされている。
小瑠璃と五条は守る側にいる。
五条のようにその若さと強さゆえにときに傲慢な男は、自らの活躍を誇示することなく陰日向から一般人を守り続けることに葛藤があるだろう。
どうして非術師より優れた力を持つ自分たちがこそこそ隠れて人助けをしてやらないといけないのか。
そんなふうに五条が夏油と殴り合い一歩前の討論バトルを繰り広げているところを見かけたことがある。
もし同期の中から呪詛師になる者が出るとしたら五条かもしれない、と思っていた小瑠璃だったので、五条が呪詛師に対して嫌悪感に近い憤りを見せたのが意外だった。
「どうしてそう思った? お嬢さん」
「ここで偶然呪詛師に会うのはおかしいし、呪霊の気配はないから、おじさんが侵入してきた一般人を呪っていたのかと思って。理由は分からないけど、行政が入ってこないようにするためとか?」
「前半は正解。後半が少し違うな。おじさんはこの場所を安く買い叩きたい人から評判を落とすために雇われたんだ。簡単に言えば、大人の事情ってやつだね」
呪詛師は目を細めて饒舌に話す。小瑠璃や五条に内情を教えるということは高専の学生だと完全に舐めきっているのか、ただおしゃべりな性格なのか。
「これは提案だけど、遊園地の呪霊はすべて退治した、おじさんのことは見なかった、ということにして帰らないかい?」
「なにそれ、命乞い?」
「事を穏便に済ませたいだけだよ」
「冗談!」
五条がかたちの良い鼻先で笑い飛ばす。そして、小瑠璃の後ろに腕を回し、彼女の華奢な背中を大きな手のひらで前にぐんと押しやった。その力強さに小瑠璃はたたらを踏む。
「おっさんの相手はこのチビだ」
「えっ」
「安心しろ。骨は拾ってやる」
「荼毘に付すまで放置されるの!?」
「ものの例えだっての。泣いて頼めば、死ぬ三歩手前くらいで助けてやるよ」
「それは充分ICU送りの重体では……」
五条からのあまりの言い草に小瑠璃はついつい文句を言うが、本来は自分一人でこなさなくてはならなかった単独任務だ。呪霊と呪詛師ではまるで戦い方が違うし、相手の力量や階級は未知数。しかし、呪術高専の制服を着ている以上、逃げるわけにはいかない。小瑠璃は詠唱を開始する。
「来たれ、地獄を抜け出しし者 十字路を支配する者よ 汝、夜を旅する者 昼の敵 闇の朋友にして同伴者よ──」
小瑠璃の術式は悪魔召喚だ。便宜上、悪魔と呼んではいるが、本当に地獄や魔界から喚び出したキリスト教の悪魔と同じものかは小瑠璃には分からない。もしかしたら、小瑠璃の呪力から生み出された式神が悪魔の様相をなしているだけかもしれない。
本来、悪魔召喚には黒魔術に則った供物や魔法陣が必要だが、トライアンドエラーの実験を重ね、詠唱あるいは詠唱なしで何体か召喚できるようになった。
「──千の形を持つ月の庇護のもとに我と契約を結ばん」
小瑠璃の長い髪が重力に逆らい、悪魔の翼のようにふわりと広がる。
小瑠璃のそばにはいつの間にか鮮血で描かれたように赤い魔法陣ができている。その中から無数の黒い羽根が怒涛の勢いで噴き上がった。そして、羽軸の部分を切っ先に、まるで意思を持つ鳥のように観覧車のゴンドラに向かって突っ込んでいく。呪詛師がひらりと地面に飛び降りて身を躱すと、それまで呪詛師のいた屋根に驚くべき硬度と鋭さで羽根が突き刺さった。
「《赤ずきん》!!」
追撃するために小瑠璃が叫ぶ。
呪詛師の着地した直後、地面から赤い魔法陣が浮かび上がる。次の瞬間には狼をカートゥーンアニメ向けにデフォルメしたような化け物が飛び出してきた。貧相な体に対して頭が異常に大きい。ぎょろりとした目玉は半ば飛び出しており、みっちり並んだ牙の間からはよだれが流れ落ちる。よく見れば、ナイトキャップとネグリジェを着ている。化け物は呪詛師を丸呑みせんとばかりに耳まで裂けた口を開けた。飛び退こうとした呪詛師の頭上から先程と同じ大量の黒い羽根が豪雨のように降り注ぐ。小瑠璃のダメ押しの一手だ。
周りからの「小瑠璃は戦闘向きではない」という評価を聞いていた五条は、案外まともな戦いぶりに感心した。相手が小瑠璃と同じ三級程度の術師なら、これまでの攻撃で充分に勝敗は決まるだろう。
呪詛師の身体中に突き刺さっていた黒い羽根がひらひらと散り始める。小瑠璃と五条の前で徐々に姿を露わにした呪詛師には、なんと傷一つなかった。
呪詛師は顔面の前で交差していた腕を下ろしていく。その口元には薄い笑み。
この呪詛師は小瑠璃の手に負えない、と瞬間的に判断した五条は、さらに攻撃する姿勢の小瑠璃に向かって鋭い声を上げた。
「小瑠璃! お前は下がれ。俺が代わる」
「いやいや、ダメだよ。まだ彼女、死ぬ三歩手前じゃないだろ?」
先程の五条の言葉を借りた呪詛師は、呪力を巡らして強化した脚力で地面を蹴って小瑠璃に肉迫する。前衛に優れた戦闘派の術師の動きだ。
「《栄光の──》」
「遅いよ」
呪詛師の蹴撃を食らった小瑠璃の小柄な身体は近くの案内板まで吹っ飛ぶ。ぶつかった衝撃で激しく咳き込みながら、小瑠璃は地面に膝をついた。
胴体を庇うために呪力を溜めた左腕で防御したが、おそらく骨は折れている。それでも勢いを殺しきれずに自分の腕が強く当たったために切れた口内から出血する。
「若い女の術師は貴重だからね。顔と腹は避けてあげるよ。なかなか嫁の貰い手がない地方の術師の一族とかには君みたいな子は高く売れるんだ。さて、どうしようかなぁ」
呪詛師は陽気に喋るので、その軽口が本気か冗談か定かではない。当初のまま小瑠璃単独の任務だったら、ボコボコにされた挙げ句に本当に売り飛ばされていたかもしれない。だが、幸運なことに、五条悟がいる。
泣いてお願いしてスイパラに連れて行くと宣誓すれば助けてくれるはず。小瑠璃に対し辛辣な態度の多い五条とて決して鬼ではないだろう。期待を込めて小瑠璃は五条の立っていたほうを見る。
そこには──鬼がいた。
ゾッとするほど冷ややかな無表情なのに激怒していることがひと目で分かる。その目元を覆うサングラスはなく、露わになった透明度の高い碧眼の瞳孔は完全に開いている。
「三下ザコ呪詛師が──人の女、ボコってんじゃねえよ!」
耳から入った五条の台詞の情報が、小瑠璃の脳で処理されて疑問を抱くより早く、五条は術式を発動した。
何が起こったか小瑠璃の動体視力ではさっぱり分からなかったが、ほんの数秒前まで地上にいたはずの呪詛師は観覧車の中央部にめり込んでいた。ぐらぐらとフレームからぶら下がったゴンドラが激しく揺れる。小瑠璃が啞然として見つめていると、老朽化した観覧車は中心軸が折れたようで車輪状のフレームが落下し、そのまま真後ろの森の中へと轟音とともに倒れていった。突然のことに驚いた鳥たちが茜色の空に飛び立ってゆく。
「……これ、始末書を書かなきゃいけないの、五条くんと私のどっち!?」
小瑠璃は頭を抱えようとしたが、そういえば左腕が骨折していたので動かなかった。
「お前の最初の心配はそれかよ。おら」
近付いてきた五条がポケットに突っ込んだままの片手を抜いたと思ったら、その手には光沢のある生地の白いハンカチ。意図が分からずに、小瑠璃の視線は五条の顔とハンカチの間を往復する。
「血。拭けよ」
「……どうも、ありがとう」
小瑠璃は無事な右手のほうで五条からハンカチを受け取る。口からあごに伝った血の跡を拭う。見上げた五条の顔は先程の怒りの形相と打って変わって凪いだ表情だ。
「五条くん、普段からハンカチを持ってるんだね。ズボンで手を拭くタイプだと思った」
「おい。今すぐ返せ」
「ダメでーす。血がついちゃったから。今度似たようなものを買って返すね」
「俺のハンカチ、二万はするけど?」
「二万のハンカチ……助けた鶴が織ってくれた反物の切れっ端とか?」
五条が日本呪術界の名門御三家の出身とは聞いていたが、思わぬところでその裕福さを知ることになった。
ひとまず五条の高級ハンカチをポケットにしまい、小瑠璃はゆっくり立ち上がる。左腕は折れてるし、膝は汚れているし、口の中は血の味。ひどいありさまだ。
「どうしてもと言うなら背負ってやるけど」
「あ、お構いなく。足は問題ないから」
「…………可愛くねえ」
「なんで!?」
五条が不機嫌そうに舌打ちしながらサングラスをかける。そして、入退場ゲートのある方角にずんずん歩き出すので小瑠璃は慌てて追いかけた。負傷した同期を気遣ってか日頃より歩調がだいぶゆっくりだったのですぐに隣に並んだ。五条はサングラスの端から横目で小瑠璃を窺っているようだ。なんだろうと思っていたら、おもむろに口を開いた。
「……そういえば、お前って上級の悪魔と契約したいから一生処女を貫き通すって? 哀れな奴」
「哀れかどうかは個人の価値観次第だね。今のところはその予定だけど」
五条と悪魔の契約について語り合えるとは思わなかったので、小瑠璃は自分が骨折していることを忘れるほど嬉しくなった。もしかして、先程の戦闘の中で小瑠璃の悪魔召喚の術式を目の当たりにし、興味を持ってくれたのだろうか。
小瑠璃の期待の眼差しに対し、五条は不自然なほど正面を見据えたまま喋る。
「悪魔なんかより最強の俺を頼れば? 悪魔より俺のほうが絶対に強いし。顔も頭も声も良いし。何かあったらさっきみたいに守ってやるよ」
極めて残念ながら、世紀の黒魔術バカ一代の小瑠璃には、五条の言いたいことが三分の一も伝わっていなかった。小瑠璃は困惑した顔で五条に尋ねる。
「…………それは、私の処女と引き換えに、五条くんが契約するってこと?」
「ッッッ──お前はバカか!!」
「すみません、バカです、黙ります」
凄まじい剣幕で怒鳴られたので、どうやら不正解のようだと判断した小瑠璃は折れた左腕に響かないように押さえつつ、小走りで五条から距離を取る。
「……ほしいって言えばくれるのかよ」
という、拗ねたような声音の呟きは、小瑠璃の耳に届くことはなかった。
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